ふたつの指輪

松 悠香

12/11(火) 16:28

「佳子……」


窓際のベッドに横たわり、男は譫言のように呟いた。


その掠れた声のあまりの弱々しさに、「ああ、この人は本当に死ぬのだな」と実感した女は、40年以上を連れ添った夫の頬をそっと撫でた。


カーテン越しに差し込んだ夕焼けに染まった、どこか優しい向日葵色とは裏腹に、その頬は固く、そしてあまりに冷たかった。


男の名は誠。数日前に危篤状態に陥って以来、305号室で延命治療を受けている末期癌患者だ。

2ヶ月前に体の不調を訴え訪れた病院で、大腸癌であることが判明したが、その頃にはもう全身に癌が転移してしまっており、回復は絶望的な状況であった。


医者から病状を伝えられた誠は、困惑したような笑みを浮かべていた。きっと、死ぬ実感が湧かなかったのだろう。

無理もない。誠は、58歳だ。現代に死ぬ者にしては、あまりに若い。


夫婦の出会いは、ある名門高等学校であった。同じ学年の担任として3年間を共に過ごした彼らの距離は、徐々に近づき始め、気がついたら籍を入れていた。

結婚後、夫婦は子供を授かることこそなかったものの、それなりに円満な関係を築いていた。少なくとも、女の方はそう認識していた。


だから、女は分からなかった。何故、夫が数日以内に死んでしまうというのに、自分が驚く程冷静でいるのか。

ドラマに出てくる女は、皆、夫が死んでしまうと分かると、涙が枯れてしまうのではないかと思うほど激しく泣いた。あの頃は、なるほど、そういうものかと思いながらテレビを見ていたが、いざ自分の番になると、全く涙が出てこない。


悲しむ余裕もないくらい忙しいのか。そんなことはない、現に今、考え事をしながらぼうっと夫の枕元に座れているのだから。

実感がないのか。否、実感なら先程湧いた。

心がない、ということもないと思う。自分は、犬が歩いていれば微笑ましく思い、綺麗な花が枯れて仕舞えば悲しいと嘆く様な、普通の人間であるはずだ。


ならば何故。何故、ちっとも悲しいと思えないのだろう。

そうもの思いに耽っていた女の耳に、再び夫の呻き声が届く。


「佳子……好きだ、佳子……」


浅い呼吸を繰り返しながら、愛する者の名を呼び続ける夫とは裏腹に、それを見下ろす女は、どこまでも冷静な様子であった。


「佳子、ねえ…」


考え事をしていた間に、随分と時間が経っていた様だ。

いつの間にかに蜜柑色になった夕焼けに照らされた夫の薬指に、きらりと結婚指輪が光る。


彼女は思わず笑みを溢して、呟いた。


「誠さん、貴方、変なところで誠実なのね。」


彼女が手を窓の方に掲げると、千代自身の薬指に嵌められた指輪も、鈍い光を放った。


「死ぬ間際に他の女の名前を呼ぶくらい、不誠実な男のくせに。」

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