瑠璃

カナコ

本文

「今日飯行こう」


 気が乗った時だけふと思い出したようにLINEを寄越すこの女が大嫌いだった。


 遥は一件の通知を赤々と示す携帯を握りしめてうずくまった。


東京の夕方、足の踏み場もないほどごった返した中央線で、遥の目の前に立つサラリーマンが覇気のない目で遥の挙動を追う。今日は運良く座れていた。


「良いよ。どこ行く」

「吉祥寺」

「今通り過ぎたんだけど」

「じゃあ武蔵境」

「おけ」


 3つ瞬きをする間に決まってゆく予定を自らの手で組み立ておきながらどこか憂鬱そうに視線を横に投げた。サラリーマンはもう飽きてしまって両手を上げたまま頭上の広告を見つめている。JRはスキー旅行の営業に躍起になっていた。


 謳い文句は「失われた3年間を取り戻せ」だとかなんとか。「失われた3年間」とは2020年春の大流行に始まり、収まることを知らなかった感染症によるものを指していることは、皆々一様にマスクを付けた現代人には明白である。


 しかし、私たちは何を「失われた」のか。JRは私たちに何を「失わせた」のか。人か職か、金か。遥はこの3年間、どれも失っていなかった。寧ろ得た物の方が大きいと心の何処かで感じているが、それは何か癪に障る。




 2020年春、遥は大学3年になる年だった。


 それまでの流れる日々をただ追って、サークルにも属さずに学期毎に2-4単位ずつ落とした2年間をつまらないと感じたことはない。

 

 それなりの恋愛と、転々としたアルバイト経験でまあまあ平凡で充実したハタチの女子大生だった。それがパンデミックを機に一転した。


 居酒屋に勤める友人がアルバイト先から解雇された、と愚痴をこぼしていたのを遥は辛かったねと電話越しにただ聞き流し、当の本人はちょうどドラッグストアのアルバイトを始めたばかりで、解雇どころかマスク・トイレットペーパー不足によりパニック状態の店内を沈めるために走り回っていた。大学の授業も対面ではなく自宅で受けれるようになり、その通学時間をアルバイトに当てた。その月が大学生48ヶ月の中で1番稼いだ月だった。


 恋人ともコロナで会えないから、という理由を良いことに後腐れなく別れる事ができて、気楽になれるまであった。次の恋人はその半年後にマッチングアプリですんなりと出来た。その恋人と別れる頃になるとパジャマを履いたまま参加したzoomのインターンで声をかけられ、そのまま就職した。


 こんな風に遥は3年間、何も失っていなかった。




 唯一失ったという言葉で、形容するに似た物が瑠璃である。武蔵境に着き、人の間をすり抜けるように降りるとサラリーマンは空いた席を奪うように座った。この時ばかりは彼の目にも覇気が宿っていた。


 瑠璃は、北口を出るとすぐに見つかった。白いワイヤレスイヤホンをはめたまま、ひらひらと手を振ってきたので、小走りで近付いた。


「待った?」

「急に誘ったのこっちだし良いよ」


 マスクを顎まで下げて笑いながらイヤホンをケースに直していた。白い歯を囲む真っ赤な唇はガサガサで皮が捲れていた。今日もリップを塗るのを忘れている。去年の誕生日にはちみつが入った高い保湿リップをプレゼントした事などすっかり脳に無いのだろう。


 そして、遥のパンツスーツを格好いいだの、似合ってないだの、チグハグな言葉で揶揄ってヘラヘラと笑う瑠璃は、毛玉だらけの緑のパーカーを着ていた。初対面の時も先月飲みに行った時も上下共に変わらない、胸にデカデカとしたロゴが乗ったそれだった。

 瑠璃はそんなこと少しも気にしない女で、そんなところも大嫌いだった。



「今日は何の用?」

「別に。会いたいな〜って思っただけ。忙しかった?」

「そんな事ないけど」

「良かった。今日華金じゃん? さっき気付いたんだよ、ほら、私、曜日とか関係なくて。OLサマ誘うなら今日じゃねって」

「相変わらずよく喋るね」

「そういう遥は元気ないね」

「疲れてんの」

「へ〜。今何してんの」


 一方的に捲し立てるように話すのもいつもと同じ癖である。かと言ってこちらの話を聞かない訳ではない。瑠璃との会話はいつまでも終わらない。自分が会話の主導権を握っていることを隠したまま、密かに舵を取り、自分のテリトリーまで誘惑するのが得意な女だった。それを彼女は無自覚にどの場面でもやってみせる。どこで身につけたのか、聞く機会は未だ来ない。その話題は彼女のテリトリーではないからだ。




 それから、遥の参加するプロジェクトの話、嫌いな上司の話、仕事の出来る同僚・部下の話に興味があるのかないのか、「ふんふん」とか「やば」とか適当で的確な相槌を打っている。2人の足は自然と、均一料金の焼き鳥屋に向いていた。




 素直そうでどこか垢抜けない化粧をした店員が店前で待つ2人を見つけるとキョロキョロと周りを見渡した後に扉を開けた。「イシカワ」と書かれた名札の横には「研修中」の文字が添えられている。キョロキョロと見渡したのも接客に不安があって、変わりに出てくれる人がいないか探したためだろう。


「何名様でしょうか」


 イシカワさんは先ほどの不安そうな表情を隠したいのか、無理に笑顔を繕っていた。


「2人です」

 瑠璃が先に指を2本立てて答えた。

「あ。はい!2名様!」

 振り返って先輩を探す仕草を見せた後に、裏返った声で続けた。

「少々お待ちください!」


 瑠璃はイシカワさんの慣れない可愛らしい接客がハマったようでイシカワさんが扉を締めると、すぐに笑い始めた。

「可愛い。何歳だろうね」

「大一かな。19歳?」

「若いな」

「アイラインよれてた」

「何それ、可愛い」

「メイク覚えたてだとどうしてもそうなるよ」

「私なんて未だにそうなんだけど」

「メイクしようとしてないからでしょ」

「いやいや。23にもなって下手なメイクで出歩くぐらいならすっぴん晒した方が良いって」


 瑠璃はノーメイクでメガネをしていても、毎朝化粧をしてカラコンをつける遥よりも綺麗だった。

 いや。実際には彼女の中にある不思議な自信が、その態度がそう見せているだけなのだと、遥は気付かずに、嫉妬をしていた。遥が瑠璃のことを嫌いなのもこんな風な理由による。その日すれ違っただけの人が美人な方を選ぶなら8割5分で遥を選ぶ。


 それから3分ぐらい待って次に扉を開けられた時、出てきたのは「店長 ササキ」という名札をつけた男性である。


「いらっしゃいませ!何名様でしょう」

「2人です」

「かしこまりました、お席ご準備いたしますので5分ほどお待ちください」

「あの」

「はい?」

「さっきも別の女の子に伝えてるんですけど」

「あー少々お待ちくださいね」


 店長は扉の向こうに消えていった。多分、イシカワさんは待ちのお客様についてすぐに報告しなかったことについて叱られるんだろう。ただ、彼女は彼女なりに、他の先輩に待ちのお客様への対応を質問出来ないまま、オーダーを取らされたり配膳させられたりしたんだろうと想像するのは、容易で、可哀想だね、と2人は笑い合った。




 店長の対応の後、1テーブル分の客が出て行くのを見送って、遥たちは暖かな店内に招かれた。きっかり5分経っていた。

 席まで案内してくれたのはさっきのイシカワさんだった。しゅんとしていて耳や尻尾が垂れている様子が見えるような背中をしていた。頑張るイシカワさんを心の底から応援している2人の気持ちを彼女は知らない。


「ご注文お決まりになりましたらお呼びください」

「あ。今いいですか?」

「あ、はい」

 イシカワさんは慌てて尻ポケットからiPodを取り出した。小さな手の内から滑り落ちそうになるのを遥はハラハラしながら見守った。


「私、生で。遥はハイボール?」

「うーん今日は生かな」

「そう? じゃあ生2つで。あと、皮と豚バラ。2本ずつ」

「釜飯食べない?」

「良いじゃん。それも」

「かしこまりました。ご注文繰り返しいたします……」


 イシカワさんがしきりに「えーと」を繰り返しながら注文を復唱するのを聴きながら瑠璃はなぜか満足そうだった。その姿を見て遥がクスクス笑ったので、イシカワさんは目をキョロキョロして恥ずかしいそうにして走り去るようにしていった。


「イシカワさん、本当に可愛いね」

 そう言う瑠璃は本当に彼女を気に入ったようだった。


「なんでそんな感じなの」

「口説こうかなって」

「やめなよ。セクハラクソ客じゃん」


 瑠璃は口を大きく開けて笑った。「品性」という言葉の対義語を「瑠璃」にして辞書に載せたい。釣られてつい笑ってしまうのも遥の品のない一面である。




 華金の居酒屋は大いに賑やかだった。気がつけば、2人のテーブルは、カウンターに座っていたおじさんが2人増えて4人になっていた。


 おじさんの昔の武勇伝はシラフではとても聞けないようなクソつまらない内容だったのに、酒が入って瑠璃がいると、遥も大笑いして聞けた。気を良くしたおじさんは、若い女2人分の会計までまとめて払ってくれた。


「ありがとうございます」

「カトウさん、ありがとう!」


 揃って言うと、おじさんはニヤニヤ笑いながら「こんな風に若い子に話聞いてもらえるのなんてキャバクラ以外無いからね」と言った。


 ふんわりとしたセクハラ発言は酒に紛れて笑い飛ばされた。きっとカトウさんは、2人の会計の高さに目を丸くした事だろう。遥も瑠璃もよく食べよく飲む同士だった。


 そんなことを申し訳ないとも思わず、酔った女たちは、店を出て、冬の夜のひんやりした空気を浴びた。さっきまで、足元がぐらついていたはずなのに、この寒さは女たちの背をしゃんとさせる。




「楽しかったね」

「うん。もう終電なくなっちゃう」

「この時間になると、駅前ナンパ師湧くから気をつけてね」

「大丈夫よ。瑠璃と歩くとナンパされないから」

「はは。それもそっか」


 瑠璃がコンビニでポカリを買う間、遥は楽しかった飲みの席と、初めて瑠璃と出会った日のことを思い出していた。




 対面授業が少しずつ解禁されていった、大学3年の秋。教室定員が20人ということで、学生は順番に対面とzoomの形式で受講していた。


 知り合いのいない中、社会学の教授が課した課題は2人1組の調べ学習で、席がたまたま隣だったというだけで、瑠璃と組まされた。この時の瑠璃への印象は不真面目な女、というだけだった。それまでスヤスヤ眠っていて、課題の話になると、どの耳で聞いているのかしっかり起きてメモを取っているのだ。


「よろしく」

 また、初対面で握手を求めてくるような大学生も初めての事だった。




「ただいま」

「おかえり。なんで1.5Lのアクエリにしたの?」

「喉乾いてて」

「馬鹿じゃん。重いよ」

「大丈夫。私のリュックでかいし」


 瑠璃が背に構えたベージュのリュックもあの頃から変わっていない。ただ、年々薄汚れていき、ベージュからグレーに変わっていっている。


「今年の誕生日はリュック買ってあげる」

「良いよ。どうせ使わないもん」

「だろうね」

「やっぱ私のことは遥が1番分かってる」


 そう言って瑠璃が白い歯を見せた。遥は、当たり前じゃん、と微笑んで見せた。

 23にもなる女たちの笑い声が喧しく駅前に響いた。





「また誘ってね」

 悔しいことに去り際にはいつも遥の方からこの言葉が零れ落ちてしまう。

「たまには遥から連絡しなよ」

「気が向いたら」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瑠璃 カナコ @knak_0303

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ