【二】《14》

 つい聞こえないふりをしてしまったが、相手は人ではなく神様だ。そんな小細工が通用するはずもない。

『充分休みましたし、そろそろ行きましょうか』

『行くって、どこに?』

『決まっているでしょう。爆発物を仕掛けた黒ずくめを追うのです』

 目の前に浮かんでいた自宅の光景が、無情にもアマテラスの言葉にかき消されていく。

『これから? でも見失っちゃったし……』

『心配には及びません。私には見えていますので懇切丁寧にご案内します。それに、今の状況をよく考えてごらんなさい』

 アマテラスは語調を落とし、毅然とした声で問うた。

『あんなことをした人物をこのまま放っておいていいんですか?』

 頭から冷水を浴びせられたような気持ちになった。黒ずくめは非情にも、爆発物による無差別大量殺人を目論んだ人物だ。野放しにすれば、今後もどんな悲劇を企てるかわかったものではない。

『ごめん、そうだった。あんなことを繰り返させるわけにはいかない』

『そうですね、私もそう思います』

 アマテラスによると、黒ずくめは現在、五百メートルほど離れた閑静な地域を徒歩で逃亡中らしい。周辺には大小のビルや、各国の大使館、緑豊かな皇室御用地などがある。都会のど真ん中にもかかわらず、ほとんどの人々は立ち寄る用事もない静かな町だ。時間帯によっては人通りがほぼなくなるため、日陰者が身を隠すにはもってこいの地域と言えなくもない。

『ちょっと、何をしているのですか』

 屋上の降り口を探していると、アマテラスが冷淡に水を差した。

『何って、爆弾魔を追うんだろう?』

『それで、今は何を?』

『階段かエレベーターを探してるに決まってる。移動するなら、まずこのビルから下りないと』

『ビルを下りて、どうするんです?』

『どうするって、君が奴のところまで懇切丁寧に案内してくれるんだろう? ここからならまずは繁華街を抜けて大通りに出て、それから地下鉄かタクシーで……』

『その恰好で、ですか?』

 すっかり忘れていた。静生は今、普段の冴えないネクタイ姿ではなく、メタルヒーロー、アクセリオンの姿だ。このまま街を歩こうものなら、あっという間に野次馬の人だかりができてしまう。それによくよく考えてみると、地下鉄の駅員やタクシーの運転手が、こんなコスプレ不審者を快く乗せてくれるとは思えない。

『言っておきますけど、変身はそう簡単には解けませんよ。さっきの爆弾騒ぎで相当ストレスが溜まっていますから、全力で腿上げをしてもあと一時間はそのままです』

『それは困るよ。遅くなるって連絡していないし、これ以上美姫との仲が冷えちゃったら……』

『まあまあ。死んだあなたが戻って来たんですから、そのくらい許してくれますよ』

『美姫は死んだことを知らないんだけど』

『なぜ言わないんです?』

『言ったらもっと嫌われるから』

『はあ、そういうものですか』

『美姫は、賢三や拓巳よりずっとリアリストだからね。死んだけど生き返りましたなんて言ったら、僕の頭がおかしくなったって思うに決まってる。下手したら入院させられるかも』

 アマテラスが忍び笑いを漏らした。笑い事ではない。夫婦とは他人が考える以上に複雑な間柄なのだ。神様と言えど簡単にわかった気になってもらっては困る。

『人間というのはいろいろと大変なのですね。では、そろそろ行きましょう』

『だーかーらー、このままだと目立っちゃうって』

『地上を移動しようとするからです。ちょうどビルの屋上にいるのですから、隣のビル、またその隣といった具合に、屋上を飛び移りながら向かえばいいでしょう』

『飛び石を渡るようにってこと? そんなに上手くいくかなあ。自分で言うのも情けないけど、僕の運動神経は小学生以下だよ』

 謙遜ではなかった。鈍足はもちろんのこと、ボールなどの競技用具を思うように扱えた試しはなく、反射神経も普通の人より一拍遅れている。二年ほど前に隆雄とゴムボールで遊んだときなど、自分のほうが下手くそで愕然としたくらいだ。

『できなければ変身解除を待つまでです』

 どうやら選択の余地はなさそうだ。連絡もなしに帰宅が深夜になれば、少なくとも一週間は美姫の冷たい視線に怯えなければならない。そんな地獄を味わうくらいなら、高いところの恐怖のほうがまだましだ。

 屋上の柵を乗り越えてビルの縁に立ち、足元をちらと見下ろしてみた。繁華街の大通りが見えるが、まるでよくできたミニチュアのようでまったく現実感がない。あまりの恐怖のため、脳が理解を拒んでいるのだろう。

 頭を空っぽにして、すぐ隣のビルに目星を付けた。大きく息を吸い込んで瞼を閉じ、思い切り足元を蹴る。

『ちょっと、ちゃんと加減しなさい!』

 夜風が全身を激しく切りつける。思いの外きつい空気抵抗と、涙が出そうなほどの心細さ。瞼の隙間から眼下を一瞥すると、たった今まで自分がいた街の夜景が一面に広がっていた。さきほどバッグを投げたときの跳躍よりずっと高い。ここまで常識外れの景色に出くわすと、もはや恐怖は感じなかった。

『このまま行くと超高層ビルの側面に激突します。かなりの速度なので、先ほどの屋上みたいなヒビじゃ済みませんよ。外壁を突き破って貫通するでしょうから、運が悪ければビルは倒壊。そうなれば人的被害は避けられません』

『ええーっ! ど、どうしよう』

『体勢を工夫して軌道をずらしなさい。人気のない庭園がビルに隣接しているので、上手くそこへ』

『そんなのやったことないよ!』

『でしょうね』

 そう言ったきり、アマテラスは口をつぐんでしまった。理由は痛いほどわかる。いくら泣き言を並べ立てたところで、結局は彼女の指示通りに動くしかないからだ。しかし、目指すべき庭園の場所はここからではまったく見当がつかない。出来ることといえば、運を天に任せて一向に手応えのない夜空を懸命に泳ぐことだけだ。

 数秒経って地上の建物が判別できるようになってくると、改めて神の力を思い知らされた。アマテラスが言った通り、巨大ビルを擁する再開発複合施設の中心がみるみる近づいて来る。間違いなくビル直撃コースだ。やはり手足をばたつかせたくらいでは、落下の軌道は変えられなかったらしい。

 衝突までもう幾許いくばくもない。万策尽きて目を閉じそうになったそのとき異変は起きた。隕石のように落下する静生の脇腹に、何かが激しく衝突したのだ。凄まじい衝撃によって軌道がわずかに逸れたらしく、静生は巨大ビルの縁をかすめて真っ暗な地面と熱烈な対面を果たした。

 凄まじい衝撃によって意識を失いかけたが、地面に大穴を作った痛みですっかり目が覚めた。全身の痛みに悶えながら穴から這い出ると、辺りには風流な夜の日本庭園が広がっている。幸い人影や建物は見当たらず、落下の被害を被ったものはなかったようだ。

『よかった、被害ゼロです』

『よかないよ! こんな大穴を作っちゃったし、僕だってこんなに痛いのは初めてだ。──それにしても、あんな勢いで地面に激突したのに怪我一つないなんて。僕、本当に生きてるの?』

『疑うのなら、頰でもつねってみてはいかがですか?』

 言われるままに手を顔へ近づけると、寸前のところでこつんと何かに阻まれた。頰をつまみたくても、頭部装甲に覆われた変身状態では触れることさえできない。

『いいよ。こんなに痛いんだから、頰をつねったって痛いに決まってる。そういえば、落下の途中で横からぶつかってきた物は何だったんだろう』

 落下の進路を修正してくれた衝突物。ぶつかった感触から想像するに、大きめの西瓜くらいのサイズだったと思われる。そんなものが落下の方向を逸らすほどの速度で飛んでいたなんて、常識では考えられない。飛行機やドローンの類いではないだろうし、運よくちょうどいい大きさの隕石でも降って来たのだろうか。ただ、もし本当に隕石だったとしても、横方向からぶつかってきたことは説明できないままだ。

『危険なものではありませんし、どこかに損害を与えたわけでもありません。安心してください』

『もしかして、ぶつかった物の正体を知ってるの?』

 アマテラスは特に戸惑うこともなく、澄まし顔が目に浮かぶような口調で答えた。

『知ってるも何も、私がやりましたから』

『君がぶつけたの?』

『はい。放っておくと被害が出るので、やむを得ず』

『何を? どうやって?』

『まあ、私は神ですから。ご想像にお任せします』

 気になって仕方がないが、食い下がったところで教えてはくれないだろう。ただ、いざとなれば人間界に直接干渉できることはわかった。しかしその歯切れの悪さから、アマテラスはそれを良しとはしていないようだ。

 人智を超えた力を有しながら、自分は極力手を下さず、わざわざ臆病で不器用な静生を使う。そこにはやはり神なりの事情があるのだろう。そう考えると、神の使い走りに選ばれてしまった不運が少しだけ呪わしく思えてきた。

『とにかく、次からはもっと慎重にお願いします。でもおかげで思いの外早く到着できました。例の人物は近くにいます』

 当初の目的を思い出し、背筋に緊張が走った。大量虐殺を企てた残忍な爆弾魔が、静生の目と鼻の先に潜んでいる。

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