【二】《13》
年配女性の迫力に負けてバッグを置きかけると、すかさず頭の中にアマテラスの雷が落ちた。
『何をもたついているんです! それを持って早く行きなさい!』
凛々しい年配女性の威圧と、女神アマテラスの叱責。完全に板挟みになってしまい、行動しようと思えば思うほど泥沼にはまっていく。一向に鳴り止まない警告音を確認すると、画面には九十七パーセントの文字。もう一刻の猶予もない。
「す、すいません。このバッグはあなたのですか?」
早口に捲し立てると、年配女性は静生の目を厳しく覗き込みながら、
「いいえ。でも、あんたのものでもないでしょう?」
と、まるで教え子を諭す教師のような口調で答えた。否定だけしてくれればいいものを、そう言われてしまうと余計に持ち去りづらい。
『その中身は、おそらく爆発物です』
唐突に割り込んだアマテラスの言葉に、たちまち全身が硬直した。
『ばく……? ど、ど、どうしたらいいの!』
『だからさっきから言ってるでしょ! 今すぐ、丁重に大急ぎで、それを持って駅を出なさい! いつ爆発してもおかしくありませんよ!』
ここは利用客が多い駅だけに周囲は人だらけだ。絶対にここで爆発させるわけにはいかない。
静生はバッグを小脇に抱えると、年配女性に背を向けて一目散に通路を駆け抜けた。
「あっ、こら! 待ちなさい!」
年配女性の怒声が構内に響き渡る。持ち主不明のバッグを抱えて逃げるなんて、はたから見れば泥棒以外の何物でもない。決して悪意はないのだが、周りの人々に説明する余裕がないことがひどく悔やまれる。
『このまま人通りが少ない北側のビジネス街へ』
駅を出て、形振り構わず雑踏の間を駆け抜けた。額の汗が目に入って鋭く滲みる。気づけば全身がひどく熱を帯びていて、まるで溶鉱炉にでも迷い込んだかのようだ。
どこからともなく現れた無数の小さな光が一斉に全身を取り巻き始めた。スマートウォッチを確認する。九十九パーセントという数値が目に飛び込んできた。
『そろそろ爆発です!』
アマテラスの声と同時に、林立する雑居ビルの隙間へ飛び込んだ。次の瞬間、激しい閃光が全身を覆う。目を閉じて歯を食いしばり、バッグを抱え込んだまま小さくうずくまった。
──爆発しない。恐る恐る目を開けると、バッグを抱えた両腕が銀色に輝いている。左腕の装甲に組み込まれたスマートウォッチの画面には、鮮やかな緑色で百パーセントと表示されていた。ついさっき
『このビルの屋上へ! 早く!』
我に返って立ち上がり、あたふたとビルの入り口を探す。一度死を意識したためか、がむしゃらに移動していたときには感じなかった恐怖が全身を激しく震わせた。こうしている間にも爆発の瞬間は刻一刻と迫っている。
『エレベーターでも使うつもりですか? それでは間に合いません』
『じゃあどうすればいいんだよう!』
『あなたは変身しました。ストレスエネルギーは充分溜まっています。飛びなさい』
『と、飛ぶ?』
もはや考えている暇はなかった。無我夢中で地面を蹴る。たちまち目の前に信じられない光景が広がった。
ビルの外壁が猛スピードで沈んでいったかと思うと、街の夜景が眼下をどこまでも埋め尽くした。全方位、遠い夜空。思い切り飛び上がった静生の身体はビルの屋上を遥かに飛び越え、夏の夜空へ高々と舞い上がっていた。
言葉にならない絶叫が夜空に虚しく吸い込まれていく。驚きと恐怖で頭が変になりそうだ。そうこうしている間にも、身体は勢いを失って緩やかに落下を始めている。
『かなり飛び過ぎましたけど、まあいいでしょう。ここから南南東へ五千メートルの方向に海があります。そちらに向かって今すぐバッグを投げなさい。安全確保のため、最低でも六千メートルは飛ばすのですよ』
空中だけに拠り所がなく、体勢をまともに保っていられない。じたばたともがきながら必死に天地の所在を探す。
「それどころじゃないよ! しかも六千メートル? 無茶苦茶だ!」
『あなたならできます。いえ、必ずやり遂げなさい。そのバッグと心中したいんですか?』
無茶でも何でもやるしかない。腹を括って辺りを見渡すと、街が途切れて暗闇に塗り潰されている空間を見つけた。あそこから先がおそらく海なのだろう。ぎこちなく振りかぶり、バッグを持った右手にぐっと祈りを込める。全力で物を投げるのは学生時代の体力測定以来だ。うまく海まで飛んでくれればいいが。
勢いよく投げ出されたバッグは、瞬く間に夜空へ吸い込まれて見えなくなった。やれるだけのことはやった。急に心が軽くなったような気がして、強張っていた口元がふっと緩む。
『安堵しているところ申し訳ないのですが』
心なしか、アマテラスの口調も穏やかだ。危機は去ったと見ていいだろう。
『気にしなくていいよ。どうしたの?』
『そろそろ着地を考えたほうがよさそうですよ』
はっとして下を見ると、雑居ビルの屋上がすぐそこに迫っていた。身構える暇もなく屋上に打ちつけられ、言語を絶する衝撃が全身を襲う。胸がひどく詰まってまともに息ができない。
『あー……、私はちゃんと伝えましたからね』
「──そういうことはさ、もっと早く言ってくれない?」
激しく咳き込みながらも、少しも悪びれる様子のないアマテラスに訴えずにはいられなかった。ただ、衝突のダメージは確かに強烈だったが、かと言って起き上がれないほどでもない。
足元に視線を落とすと、衝突したビルの屋上に半径五メートルほどの放射状のヒビが広がっていた。あれほどの高度から落下し、屋上のコンクリートに激しく叩きつけられたにもかかわらず、多少咳き込むくらいで済んだのだから奇跡としか言いようがない。全身を覆っている金属装甲のおかげだろうか。装甲を纏うきっかけを与えてくれた隆雄には、念入りに感謝をしておいたほうがいいかもしれない。
どこかで凄まじい雷鳴が轟いたかと思うと、夜空に一瞬だけ鋭い光が射した。いや、今のは雷鳴ではない。遠くの夜空に巨大な黒煙が広がっている。おどろおどろしい黒煙から無数の火の粉が派手に飛び散って、その光景はまさにこの世で最も醜い花火という形容が相応しかった。
『最悪の事態は免れましたね』
その言葉を聞いて、あのでき損ないの花火が投げ捨てたバッグの成れの果てだと気づいた。
『うん。今年最初の花火だってのに、醜くて不気味で最低だよ』
これほど遠くまで凄まじさが伝わってくるのだから、もしあれが地上で炸裂していたらと思うとぞっとせずにはいられない。
『ねえ、アマテラス』
『何でしょう』
『僕の全身を覆っている金属装甲、これって洗えるの?』
『どうしてです?』
『さっき空へ飛び上がったときの恐怖で、ちょっと漏らしちゃって』
『ヒーローがお漏らしですか。そういえば最近、誰かがそんなことを言っていたような……』
『意地悪を言わないでよ。臭うと恥ずかしいから、すぐにでも洗いたいんだけど』
『その必要はありません。あなたの装甲は毎回、周囲の素粒子の結合を再構成することにより……』
急に口籠ったアマテラスは、やや間を置いてから早口に捲し立てた。
『要するに、そのメタルスーツは毎回新品ということです。遠慮なく汚してもらって結構です』
『へえ、さすが神様だね。それなら僕の服や下着も……』
『それは新品にはなりません。変身前の状態が復元されるだけです。ですから、漏らすなら変身前より変身中のほうがいいかもしれませんね』
『お漏らし常習犯みたいに言わないでよ。でも、アマテラスには感謝してる。この歳になって冷たいパンツを穿かなくても済みそうだし、それに……』
眼下に広がる街の灯りを見渡す。素直な喜びが胸をいっぱいにして、自然と言葉がこぼれた。
『今日のことを知らせてくれてありがとう。おかげで多くの命が救われたよ』
返事は返ってこなかった。まさか神様のくせに照れているのだろうか。
神の心を見通すことなんてできない。ただそれでも一つだけわかったことがある。彼女は少なからず、人間と価値を共有している。人が理不尽に傷つけられ、命を落とすことを良しとしていない。そうでなければ今夜、静生をここに導く理由はなかったはずだ。この頼もしい確信は、静生の心の隅に残っていたアマテラスへの疑念を払拭するに充分だった。
『すべてはあなたの行動の結果です。それでは……』
『やっと解散だね。もうくたくただよ』
全身が悲鳴を上げていることに気づき、へなへなとその場にへたり込んだ。ここまでの
『誰が解散と言いました?』
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