【二】《12》
腕時計に目を遣ると、すでに午後七時を回っていた。静生は足の重さに辟易しつつ、三十メートルほど先を歩く人影を追っていた。行き交う人々でごった返している大通りを、かれこれ一時間もこうして歩き続けている。しかも追っている監視対象は、ある宗教の衣装を思わせる独特の黒衣をまとった黒ずくめ。全身真っ黒な上、すっかり日が暮れてしまったので見失いやすいことこの上ない。
『あのさあ、もう歩き疲れたんだけど……』
心の中で愚痴をこぼすと、アマテラスは呆れた調子で、
『我慢しなさい。相手が動きを見せるまでの辛抱です』
と、つれない返事。
ひと月振りに声をかけてきたかと思えば、この繁華街に向かわされていきなりあの黒ずくめを尾行しろと言う。いくら頼みを引き受けたとはいえ、いつ終わるとも知れない尾行に延々と付き合わされてはたまらない。
ただ、追っている黒ずくめの挙動は見るからに奇妙で、もし尾行の標的でなかったとしても気になる人物ではあった。頭から爪先まで真っ黒な布を被ったその姿は、敬虔な宗教者の女性を思わせる。たまに見かけるようになったとはいえ、影そのものが歩いているようなその黒装束は、まだまだ日本の街並みに馴染んでいるとは言い難い。
しかも黒ずくめは、静生が尾行を始めてからずっとこの周辺ばかりをうろついている。目的地に向かっているというより、まるで街を漫然と巡回しているかのようだ。一体何が目的なのだろうか。
『あの女の人、もしかして迷子なのかな』
『どうして女性だと?』
アマテラスの指摘にはっとした。全身を黒い布で覆うしきたりと言えば、真っ先に思い浮かぶのは中東や東南アジアに多い宗教の女性信者だ。その先入観が尾行対象を女性だと決めつけてしまっていた。
『そうか、僕の勝手な思い込みってわけだね。あいつは男かもしれないし、どこかへ向かっているかのように見えて実はこの人混みを歩き回ること自体が目的……』
『歩き回ることにどんな意味が?』
『まあ、色々とあるんじゃない? 地理を把握するとか、人を捜してるとか。もしかするとダイエットかもしれない。アマテラスは神様なんだから、あいつがこの辺りをうろついている理由くらい知ってるんじゃないの?』
『さあ、どうでしょう』
アマテラスはいつも肝心なところになると話をはぐらかしてしまう。神である彼女にもわからないことがあるのだろうか。だとすると、この謎の尾行がいつどのような形で終わるのかさえ、誰にもわからないということになる。
金曜日の夜ということもあり、通りは浮かれた人々で埋め尽くされていた。昼間の熱気は冷めるどころか立ち込める一方で、歩道を歩くだけでもひどく息苦しい。
『最近は毎日宵の口に帰宅してるから、そろそろ帰らないと家族に怪しまれるよ。会社を辞めたことがバレたらどうしよう』
高志製薬を辞めてから一か月になるが、家族にはまだそのことを伝えていない。重大な話には違いないが、美姫と隆雄の落胆した顔を想像するとどうしても話す気になれなかった。
現在は出勤に見せかけて外で時間を潰し、夕方には帰宅するようにしている。それでも家族との距離は思ったほど縮まらず、家の中の空気はそこはかとなくよそよそしい。その上、妻は日中、歳下の男をつかまえて二人仲良く汗を流している。そんなところへ辞職の話をぶちまけた日には、愛想を尽かされて家庭崩壊なんて悲劇も決して大袈裟ではない。
『あら、まだ隠していたんですか。ということは死んだことも?』
『言えるわけないよ。そんなこと言ったら、正気を疑われて即離婚に決まってる』
賢三や拓巳は受け入れてくれたが、それは長年の信頼関係だけでなく、友達という距離感もあったからだ。しかし相手が家族となると、深刻さの度合いがまったく違ってくる。もし上半身だけの変身を見せてしまったのが美姫や隆雄なら、冷笑どころか啞然とされていただろうし、下手をするといろんな意味で泣かれていたかもしれない。
暑苦しい通りをへとへとになるまで歩きながらの、身の毛もよだつ想像。静生は息苦しさに堪え兼ねて、襟を締め付けるネクタイをワイシャツから抜き取った。じっとりと蒸れた首元に風が入り、思わず溜め息が漏れる。
ほどなくして、手元から甲高い警告音が聞こえてきた。賢三から借りたスマートウォッチがストレスの上昇を検知したようだ。早速確認すると、画面に赤字で八十パーセントと映し出されている。
この数値が百に達すると即座に変身、この人混みの中で有無を言わさずメタルヒーローの姿になってしまうというわけだ。望まない変身は周りを驚かせてしまうだけでなく、何より恥ずかしいので絶対に避けなければならない。
『よそ見をしている場合ではありません』
アマテラスの緊張した語調が、緩んでいた意識をきりりとつねり上げた。慌てて前を向くと、標的の黒ずくめが先の横断歩道を渡り切っている。すぐに信号は点滅を始め、あっという間に赤へと変わった。静生が足止めを食っている間に、車道の向こうの黒ずくめはみるみる人混みに紛れていく。一度見失ってしまえば、この雑踏から黒ずくめを見つけ出すのはほぼ不可能だろう。
じりじりと信号を待ち、青になると同時に全力で地面を蹴った。歩道を埋め尽くす人混みをかき分け、血眼になって黒ずくめを探す。しかし辺りはこの混雑だ。スマートウォッチの警告音がさらにけたたましく鳴り響いた。確認すると、数値はすでに九十パーセント。標的を完全に見失ってしまったことが、ますますストレスを加速させているようだ。
『ぼんやりしているからですよ。あの人物は今、この先の駅前広場を横断しています。早く追いなさい』
アマテラスが言い終わるのも待たずに、慌てて駅を目指す。三分ほどで駅前に到着し、血眼になって辺りを見回した。
雑踏の隙間に、遠ざかっていく黒い影を見つけた。二度と見失うことのないよう慎重に距離を詰めていく。黒ずくめは足早に駅の構内へ入り、人通りの多い改札付近まで進むと初めて立ち止まった。
誰かと待ち合わせでもしているのか、傍の大きな柱の前に年配の女性が立っている。女性は隣で立ちすくんでいる黒ずくめに気づくと、あからさまに怪訝そうな目を向けた。あんな黒ずくめがいきなり至近距離に現れたら誰だってああなるだろう。見慣れない黒装束もそうだが、黒い頭巾から覗くぎろりとした両目も怪しい印象を与える一因だ。
さんざん街中を歩き回った挙げ句、目的地は何の変哲もない駅。何となく拍子抜けしてしまい、どっと徒労感が増した。
『ねえアマテラス、帰っていい?』
ここまで追って来たが黒ずくめの行動に特筆すべき点はなく、不審な場所に出入りするようなこともなかった。しかも奴の目的地はこの駅のようだ。こんなに人目が多い場所で、監視が必要な行動なんて起こすはずがない。尾行の意義が薄れていくほどに、ますます自宅と家族が恋しくなっていく。
『ここからが本番です。目を離してはいけません』
半ばうんざりしながらも視線を起こすと、先ほどまで柱の傍に立っていた黒ずくめは忽然と姿を消していた。冷汗が首筋を滑る。同じヘマを二度もするわけにはいかない。すぐさま辺りへ目を移し、急いで黒い人影を探した。
駅の出口へ向かう黒い後ろ姿が、今まさに雑踏に紛れ込もうとしている。今すぐ追わなければまた見失ってしまいそうだ。
『待ちなさい!』
アマテラスの制止が脳天に響いた。
『どうして? 早く追わないと……』
慌てて反論すると、アマテラスはひどく深刻な声で、
『それよりさっきの柱をよく見なさい。あの人物がいた辺りに何かありませんか?』
と続けた。確かに柱の傍に何かある。ちょっとした買い物に重宝しそうなサイズの、カーキ色のナイロンバッグ。黒ずくめが忘れていったのだろうか。だとすれば尾行中にバッグを入手する機会はなかったので、最初からあのゆったりとした黒装束の中に持っていたことになる。
『あれを拾って、一刻も早くここを立ち去りなさい』
アマテラスの声には有無を言わさぬ厳しさがあった。嫌な予感がして、考えるより先に身体が動く。柱に駆け寄ってバッグを拾い上げ、一歩踏み出した矢先だった。思いがけない怒鳴り声が静生の二の足に絡みついた。
「泥棒! 誰か捕まえて!」
びくりとして振り向くと、柱の傍に立っていた品のいい年配女性が、立ち去ろうとする静生を真っ直ぐに指差している。
「ち、違います! 僕はただ、神様が拾えと……」
年配女性の冷眼を前に、慌てて口を閉じるしかなかった。無理もない。静生の行動はどう見ても置き引きにしか見えないし、口にした言い訳が〝神の命令〟ときている。
大胆に胸元が開いた濃紺のワンピースを着た年配女性は、その上に羽織っている純白のジャケットを威勢よくはためかせ、静生に向けていた人差し指を柱の根元に移動させた。バッグを元の場所に置け、ということらしい。
白髪まじりの髪は上品にセットされており、化粧も厚すぎず薄すぎず優雅で華やかな印象を醸している。服装にはセンスと余裕が感じられるし、微かに漂う香水のスパイシーな香りも流行を意識した今風のものだ。おそらく七十は越えているだろうが、その風貌は年齢を少しも感じさせない。
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