【二】《11》

「静生君、こないだお蕎麦屋さんで話した件、覚えてる? あの話の続きなんだけど……」

「あぁ、うん」

 冷静に返事をしたつもりだったが、声が完全に裏返ってしまった。これから妻の浮気の新エピソードを聞かされるのだ。動揺しないほうがおかしい。

「あれからずっと観察してたんだけど、やっぱり奥さんと例の男性、一緒に通ってるみたい。いつも二人で、黄色いスポーツカーに乗って来てる」

 もちろん黄色のスポーツカーは唯野家のものではない。心の準備はしていたつもりだったが、実際の衝撃は予想を遥かに越えるものだった。絶望がさらに重量を増して、今にも胸を押し潰してしまいそうだ。

「ということは、その男が毎回送迎してるってことか。スポーツジムで汗を流したあと、別の場所でまた汗をかくようなことがないといいけどな」

 静生は賢三の軽口を遮るかのように勢いよく立ち上がった。見下ろした先にあるのは、先ほど賢三が机の上に放り出したドライバーだ。徐に取り上げて軽く力を加えると、ドライバーは乾いた小枝を思わせる小気味好い音を立ててぽきりと折れた。賢三と拓巳は目を丸くしたまま言葉を失っている。

「マジかよ……」

 賢三の驚嘆をよそに、静生の身体が不思議な光の粉に包まれていく。次の瞬間、たった今まで二人の前にいた静生は消え失せ、代わりに現れたのは眩しい銀色の装甲をまとった凛々しいメタルヒーローだった。

「あ、アクセリオン!」

 特撮好きの賢三はすぐに気づいたようで、劇的な変貌を遂げた静生にきらきらとした少年のような瞳を向けている。どうやらアマテラスは静生との約束を忠実に守ってくれたようだ。

『もう変身してしまったのですか。今日まで時間をくださいと伝えたはずですが』

 アマテラスの声が聞こえてきたが、賢三と拓巳は相変わらず静生の変身姿に見入っている。やはり彼女の声が聞こえるのは静生だけらしい。

『ごめん、成り行きで仕方なく。それより頼みを聞いてくれてありがとう。二人の顔を見れば完璧な出来ってことがよくわかるよ』

『そうですか。まだ半分ですけど』

『半分?』

 顔を真っ赤に染めた拓巳が静生の肩を遠慮がちに叩いた。定まらない視線を宙へ漂わせて、まるで静生が視界に入ることを避けているかのようだ。

「この恰好、そんなに変かな?」

「いや、そうじゃなくて、下……」

 足元を見下ろしてみて、ようやく拓巳の反応を理解した。上半身は隈なく金属装甲に覆われているが、腰から下は生まれたまんまの素っ裸。穿いていたスラックスさえどこかへいってしまっている。慌てて両手で前を隠すと、腹を抱えた賢三が隠した股間を無遠慮に指差した。

「そんなの片手で充分だろ。お前、朝っぱらから何しに来たんだよ。俺たちを笑わせるためか?」

「変身はまだ半分しかできなくて、今日中には完成するって……」

 馬鹿笑いを続ける賢三に引き替え、拓巳はようやく元の顔色に戻ったが、見開かれた大きな黒目には驚きの余韻がありありと残っている。

「静生君の言ったこと、やっぱり本当だったんだね。ドライバーは真っ二つだし、いきなり変身までしちゃうし。でも、どうしてその恰好なの?」

「神様から得体の知れないおつかいを頼まれる予定だからね。これなら何かあっても怪我をせずに済みそうだし、人前に出ても素性を隠せる。それに……」

 急に照れ臭くなったが、すぐに思い直して胸を張った。

「子供たちが喜ぶかな、って」

 思いがけない理由だったのだろう。拓巳と賢三は半人前のメタルヒーローを見上げたままぽかんとしている。嘘をついたつもりはなかった。あわよくば隆雄の気を惹いて、ついでに父の威厳も取り戻してしまおう。そんな下心が大半を占めていたとはいえ、もし子供に目撃されることがあれば、安全だけを考慮した無骨な甲冑姿よりこのほうが喜ばれるだろうと思ったのは事実だ。

「子供にとってヒーローは大事な憧れだもんな。面白い、何をおっぱじめるか知らねえが、俺にも少しくらい手伝わせろ」

 賢三のこういった無邪気さは、昔から少しも変わっていない。

「なによ賢ちゃん、さっきまで疑ってたくせに。僕はもちろん最初っから応援するつもりだったよ。神様のおつかいと、あと奥さんのこともね」

「賢三も拓巳も、ありがとう。一度死んじゃったけど、これからもよろしく」

 そう言って爽やかに微笑んだが、思いのほか二人の反応が薄い。

「お、おう。わかったから取りあえず元の姿に戻れよ」

 頭部も金属装甲で覆われていることをすっかり忘れていた。静生の表情が見えていないため、二人とも何となく会話をしにくいのだろう。そういえば下半身も丸裸のまま。どうりで場の空気がぎこちないわけだ。

 目を閉じてゆっくりと息を吸い込み、肺に溜めた空気を一気に吐き出していく。そうやって深呼吸を繰り返していると、少しずつ気持ちが穏やかになってきた。全身が再び光に包まれ、瞬く間に元のワイシャツ姿に戻る。消え去っていたスラックスと、その下に穿いていたパンツもすっかり元通りだ。

 ほっとして顔を上げると、鼻先に黒い帯のような物がぶら下がっている。よく見るとそれは、賢三がたった今まで身に着けていた腕時計だった。

「これを腕に着けて、もう一度変身してみろ」

「またやるの? 下が丸出しになるのはちょっと……」

「黙ってやれ。そのスマートウォッチは親父の会社で開発中の最新型だ。身につけるだけで精密なバイタルチェックができる。体温、血圧、脈拍を常に計測しているから、体調の変化は一目瞭然だ」

 賢三が得意気に説明しているところへ、拓巳が嬉しそうに横槍を入れた。

「賢ちゃんはこんな立派な体型だから、持病の管理が大変なのよねー。何なら僕が付きっ切りで管理してあげてもいいって言ってるのに」

「親切の押し売りはやめろ。おっさんがおっさんの世話をして何が楽しい」

 賢三の悪態など慣れたもので、拓巳はけろりとしているばかりかむしろ嬉しそうだ。

「変身のきっかけがストレスなら、その予兆は必ずスマートウォッチの計測データに現れる。今これで変身時のデータを採取して、あとで静生用に改良しといてやるよ。変身しそうになったら警告音が鳴るようにしておけば、いざというときに便利だろ」

「助かるよ。さすが大手電機メーカー『イズモ』の御曹司」

「それを言うな。親父の会社と俺は一切無関係だ」

「へー、じゃあどうして発売前のスマートウォッチなんて持ってるの?」

 拓巳が再び横槍を入れる。そのたびにむっとする賢三の反応を楽しんでいるかのようだ。

「これはだな……、使い心地を試してやってるだけだ。試作品を無断で拝借してきたわけじゃないぞ」

「もう、賢ちゃんは嘘が下手なんだからぁー」

 甘ったるい声を出した拓巳が、大袈裟にしなを作ってみせる。賢三は擦り寄って来る拓巳を軽くいなすと、そのまま立ち上がって奥のトイレに逃げ込んでしまった。

「あーあ、また嫌われちゃった」

 拓巳は暢気にそう言うと、少女のようにころころと笑った。賢三に逃げられたことはまったく気にしていないようだ。

「静生君はいいなあ。子供たちのヒーローになるなんて。この中で結婚してるの、静生君だけだもんね。僕も早く子供欲しいなぁ」

 男の静生から見ても、拓巳の容姿はしばしば可愛らしく映る。その容姿と人柄なら相手に困ることはまずないだろう。むしろ周りが放っておかないはずだが、よく三十代半ばまで独り身でいられたものだ。

 蒼白くはかなげな肌。ゆったりとした白いカットソーと黒のデニムが似合う細身の身体。毛先が無造作に遊ぶボブ。その下から覗く、くりくりとしたあどけない瞳。同じ美形でも、昨日まで部下だった秦裕一郎が男性らしい美男子タイプだとすると、拓巳の美しさはさしずめ美少年タイプといったところか。

「拓巳ならすぐに叶うんじゃないの」

「うーん、そうでもないんだよね。もういっそ、賢ちゃんと赤ちゃん作っちゃおうかなー」

「男同士でどんな奇跡を起こすつもりだよ」

 ちょろりと舌を出して戯ける拓巳。こういう仕種も愛嬌があって、性別を問わず相手の心をくすぐる。やはり拓巳はモテないのではなく、あえてそういう関係を遠ざけているようだ。

 トイレの流水音がしたかと思うと、賢三が重そうな身体を揺すって戻って来た。

「ずいぶん楽しそうだな。俺に内緒で何の相談だ?」

 拓巳は問いには答えず、あからさまにねた素振りをして見せた。きっと彼は、賢三が席を外さなければ今の話をしなかっただろう。そして聡明な賢三が、拓巳の積年の思いに気づいていないはずがなかった。

 静生はそんな二人のむず痒いやり取りを、すぐ近くで二十年も見守ってきた。二人を隔てる如何ともし難い永遠の煩悶。うんざりするほど絡まってしまったこの糸をほどくことができるのは、もはや神様くらいしかいないのかもしれない。

 心の中でそう呟いてみたが、昨日知り合ったばかりの自称神はうんともすんとも言ってくれなかった。

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