【二】《10》

「へぇー。静生君、昨日死んだんだ。こんなに顔色いいのにねー」

 右隣のオフィスチェアに座っている等々力拓巳たくみは暢気にそう言って、静生の顔をまじまじと覗き込んだ。

「笑えない冗談だ。転んで頭でも打ったか?」

 静生と拓巳の前では、二人よりずっと豪華な肘掛け付きの椅子に座った原賢三けんぞうが、でっぷりと張り出した腹の上で両腕を組んでいる。

「本当なんだって。神社の石段から転げ落ちて、車に轢かれて、それで神様が……」

 賢三はひどく呆れた調子で、

「高校からの付き合いだし、お前が嘘をつくような人間じゃないことはわかってる。でもなあ、死んだとか神様とかさすがに信じられねえよ」

 と言って溜め息をつくと、横目で拓巳の表情を窺った。同意を求められていると気づいた拓巳は、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべて小声で答えた。

「あはは、そうだねー。僕もびっくりしてるけど、静生君がこんなに力説するのは珍しいじゃない? 僕は信じようと思うけど」

「お前ら、頭ん中どうなってんだよ」

 背もたれに身体を預けた賢三は、椅子を勢いよく回転させてそっぽを向いた。これ以上この話題を続ける気はない、ということらしい。彼は机の上のペットボトルを乱暴に引ったくると、憂さ晴らしでもするかのように大きく喉を鳴らし始めた。炭酸飲料の一気飲みは彼の日課であり、高校時代から二十年近く経った今も変わらず続いている。

 賢三が辟易するのも当然だった。静生だって急にそんなことを言われたら、いくら学生時代からの友人でも眉に唾するに違いない。

「それで、神の奇跡で蘇った静生様が凡人の俺たちに何の用かね? まさかこんな与太話をするために朝っぱらから俺たちを集めたわけじゃないだろうな」

「まあまあ、そういきり立たないでよ。僕だって最初は信じられなかったんだ。それに、今もまだすべてを受け入れたわけじゃないし」

 他の人の意見も聞いてみたい。そう思った静生は昨夜二人に電話をかけ、朝から賢三の職場に集まってもらった。賢三がオーナー兼講師を務めるこの〝ひよこパソコン教室〟は、こぢんまりとした賃貸マンションの一階テナントに入っている。開講は午前十時からだが、今はまだ八時半。生徒がやって来るまで、まだしばらくは余裕がある。

「それでさ、生き返るついでに何かの力に目覚めたらしくて、神様から頼み事までされてるんだ」

「普通は逆だろ。神頼みならぬ人頼みなんてあるか。おかしな宗教にでも引っかかったんだろ。それに、目覚めた力ってのは何なんだよ」

「僕も半信半疑だったけど、実際にこの目で確かめたから間違いない。人間離れした怪力を出せるようになったんだ」

 眉根を寄せた賢三は、机の引き出しから頑丈そうなプラスドライバーを取り出した。彼の趣味は自作パソコンを組み立てることで、この教室に設置されている生徒用のパソコンはすべて彼の自作だ。引き出しの中を透き見ると、組み立てに使う工具類がぎっしりと詰まっている。

「このドライバーを素手で曲げてみ? お前の言ってることが本当ならできるだろ」

 鼻先に突きつけられたドライバーをおとなしく受け取る。賢三は昔からずっとこんな調子だ。性根は悪くないが、極めてぶっきらぼうで突っ慳貪。それだけに周りから誤解されることも多い。

 静生たち三人は、高校入学以来の友人だ。三人とも周りに溶け込むのが苦手で、何となく教室の隅に取り残されていたのが親しくなるきっかけだった。

 賢三は入学当時から体重が百キロ近くあり、この世で最も嫌いなものは階段と豪語するくらい運動が苦手だ。怠け者が服を着て歩いているような見た目の上、年中大汗をかいていて、なおかつ身体以上に態度がでかい。それに口の悪さが加わるのだから、周りから敬遠されるのは当然だった。

「すぐにはできないよ。力を発揮するにはストレスが必要なんだ。イライラや不安を感じると身体の中心からこう、熱が溢れてきて……」

「最近の神様ってのは、ずいぶん変わった機能を付けるんだな。イライラで怪力? まるで癇癪を起こして暴れる子供だ」

 そうこぼしながら引き出しを漁った賢三は、いかにも重たそうなハンマーを取り上げていきなり静生の頭上へ振り上げた。

「ちょ、待って! ストレスの前に死んじゃうだろ!」

「お前、もう死んでるんだろ」

「冗談にしても目が怖いよ。そうじゃなくて、もっと穏便に優しくイライラさせてくれなきゃ」

「おぼこ娘じゃあるまいし、注文が多過ぎるんだよ。そんな面倒なことやってられるか」

 賢三の苛立ちもわからなくはない。現実味ゼロの話を信じろと言われた上、ストレスの与え方がなっていないなんて咎められれば誰だって腹も立つだろう。このままでは静生がストレスを溜める前に、賢三のイライラのほうが頂点に達してしまう。

「静生君を不安にさせればいいの? だったら、ちょうどいい話があるんだけど……」

 仏頂面をした賢三の前に、拓巳がおずおずと割って入った。

「うるせえな。いきなり気色悪い声を出すな」

 賢三の悪態を彼女、もとい彼は涼しい顔で受け流した。拓巳は少年の雰囲気を残した端正な顔立ちをしているが、れっきとした同級生だ。学生の頃から変わらないその美貌は、今もなお周りの女性を虜にして止まない。気だてもよく、誰からも嫌われるようなことはないが、気がつくと彼もまた高校ではぐれ者の一員になっていた。

 拓巳に孤立の原因はないように思われるが、当時の男子生徒の多くは彼の男らしくない言葉遣いや身のこなしを密かに気味悪がっていた。また、あまりにも女子の羨望を集め過ぎたため、一部の男子の逆恨みを買っていたという事実もある。

 あからさまに不機嫌になった賢三は拓巳を一瞥すると、握っていたハンマーを机に放り出した。納得はしていないようだが、取りあえずこの場は拓巳に任せるようだ。拓巳は静生に向き直り、少し固い表情になって話し始めた。

「不安を煽るために話すというのは気が引けるけど、いずれ話さなきゃって思ってたんだ。静生君の奥さんのこと」

 ハンマーは使われず机の上だというのに、思い切り頭を殴られたような気がした。美姫の話。しかもその話は、静生の不安を煽るため。一か月ほど前、拓巳から聞かされた話を思い出さずにはいられない。


 その日は、静生の勤め先の近くで古武道の演武大会が開かれていた。その大会に出場した拓巳は、出番を終えた帰りに静生を呼び出した。静生は激務の中、夕食の時間を三十分だけ取って近くの蕎麦屋で拓巳と待ち合わせた。席に着いた二人はしばらく他愛もない世間話をしていたが、会話が一段落すると拓巳は急に顔色を変えた。

「あのさ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

 明らかに重い空気。気さくに頷いてみせたものの、嫌な予感しかしない。

「僕が勤めてるスポーツジムにさ、静生君の奥さんが通ってくれてるじゃない。でね、最近気になってるんだけど、奥さんと仲がいい男性のお客さんがいるんだよね。背が高い好青年で、歳は奥さんより五つくらい下かな。心当たりある?」

 絶句するしかなかった。静生の動揺を察したらしく、拓巳は俯いてひどく気まずそうな顔をしている。

「美姫が、浮気……?」

 静生のしわがれた声を聞いた拓巳は慌ててかぶりを振った。

「いやいや、まだそう決まったわけじゃないって。ただの友達かもしれないし、もしかして親戚だったりして」

 この近辺に、美姫の親戚が住んでいるという話は聞いたことがない。もしそんな親戚がいれば、夫である静生に必ず紹介しているはずだ。

「仲がいいって、どんな風に?」

 拓巳はへどもどしながらも、慎重に言葉を選んでいる。

「えっと、楽しそうに話したり、並んでエアロバイクをこいだり、腕の筋肉を見せ合ったり」

「本当にそれだけ?」

 懇願するような声で問うと、拓巳はおどおどと視線を逸らして、

「最近はさ、片方だけ見かけるってことがないんだよね。これは僕の想像なんだけど、もしかして二人で時間を合わせて通ってるのかなー、なんて……」

 と付け加えた。毎回時間を示し合わせてやって来て、一緒に汗を流したり、楽しく談笑したり。それはもう顔見知りという段階を遥かに越えて、まさにデートそのものではないか。

 その後の話が少しも耳に入らなくなった静生は、大好きな天ざるを半分も残してふらふらと蕎麦屋を出た。どうしてこんなことになってしまったのだろう。家族と社会的責任のために身を粉にしてきた結果がこれでは、報われないにもほどがある。この世には神も仏もないのか。

 聞き捨てならない話には違いない。だがそれでも、浮気の真偽を本人に問い質す勇気はなかった。もし美姫を問い詰めてすべてを肯定されてしまったらどうしよう。長い間、家族を放ったらかしにしてきた報いだと開き直られたら。いい機会だからここにハンコ押しなさいよ、なんて凄まれたりしたら……。

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