【一】《9》

 湯船に浸かった静生は、全身に強い火照りを感じて思わず身構えた。だが、この火照りは風呂の湯に浸かっているせいだ。昼間のように慌てて腿上げをする必要はない。

 今日はひどい一日だった。辞職、自分にしか聞こえない謎の声、そして極めつけは死の宣告ときている。どこからどこまでが現実で、自分は明日からどうすればいいのか。いくら風呂で身体を隅々まで洗ったとしても、今後の見通しが良くなることはない。

 先ほどからお湯が顔に当たっている。飛んで来るほうへ目を遣ると、水鉄砲を構えた隆雄の勇姿があった。

「くたばれ、カイ・コクビ・ダー! 元の会社員に戻るんだ」

 静生は大袈裟に悶えたあと、ふっと我に返ってみせた。

「あれ、僕は今まで何をしていたんだ。あっ、あなたはアクセリオン。僕を助けてくれたんですね」

 得意気に頷いた隆雄は、湯船からざばりと出て颯爽と胸を張った。

「大切な人の笑顔を守る。それが私の役目です。ではまた、どこかで」

 一糸まとわぬヒーローの勇ましい台詞が、風呂場の中で何重にも反響する。子供の記憶力には驚かされるばかりだ。

〝大切な人の笑顔を守る〟

 心の中でそう呟くと、不意に熱いものが込み上げてきた。ストレスでも、怒りでも、焦りでもない。もっと清々しく、感動的とも言える胸の高鳴り。急に懐かしい記憶が蘇ってきて、熱くなった胸中をさらにいっぱいにした。

 気が置けない友人たち。初めて美姫と過ごした夏。初めて触れた隆雄の小さな手。そこにはいつもかけがえのない温かい笑顔が──。

『アマテラス、聞こえる?』

 心の中で呼びかけてみると、昼間聞いたあの声がすぐに、

『はい、聞こえていますよ』

 と返事をした。静生の心の声は間違いなく彼女に届いている。こんなことができるなんて、やはり彼女は本物の神なのだろうか。

『君が監視してほしい人物って、もしかして悪者なの? 例えば犯罪を企てるような』

『それはどうかわかりませんが、心がまっさらな人物ということは確かです』

『それならどうして監視するの? しかも相手のことを物騒だとも言っていたし』

『私の口から言えるのはここまでです。あとはご自身で確かめられてはいかがですか?』

『でも危ない目には遭いたくないし、もし悪い奴だったとしても鉄骨を簡単に曲げてしまうような馬鹿力で反撃したら……』

 穏やかだったアマテラスの声が、毅然とした調子に変わった。

『物騒になるかどうかは、あなた次第です。ただ、いかなる状況に陥ろうとも、私はあなたの判断を尊重します』

 いまいち意味のわからない返事だったが、これ以上詳細を語る気がないことだけはわかった。人間に厄介事を頼む理由は知る由もないが、相手は神様だ。その辺りはそもそも人智の及ぶところではないのかもしれない。

 アマテラスを信じるのなら、彼女が語った事実も然りだ。静生は一度死んでおり、アマテラスによって生かされている状態。頼みを断ればすぐにあの世行きだ。何とも酷薄な現実だが、考えようによっては幸運にも生死の選択肢を与えられているとも言える。運命を受け入れてすぐに死ぬか、神に従って目覚めた力を役立てるか──。

『こんな僕にできることなんてあるのかな』

『ありますとも。ストレスまみれのあなたにしかできないことが』

『それ、褒め言葉になってないよ』

『そうですか? これでも人の言葉を勉強したつもりなのですが』

『まあいいや。それより一つだけ、僕からも頼みがある』

『何でしょう』

『普段の恰好のままだと、僕の身元が監視相手にバレるかもしれない』

『何か不都合でも?』

『不都合に決まってる。もし誰かと敵対してしまったら家族が狙われるかもしれない』

『それで、私に頼みとは?』

『僕を、変身できるようにしてくれないか。特撮のヒーローみたいに。いや、あのヒーローと同じ姿に。できるんだろう?』

『まあ、できないこともありませんが、面倒くさ……』

 アマテラスの歯切れはすこぶる悪いが、これだけはどうしても譲れない。

『神様なんだからそのくらい朝飯前だよね? いやあ、さすが尊い三貴子の一人。よっ、太陽の女神! 我らが氏神様!』

『あなた、本当に口下手ですね』

『君に言われたくないな』

『──仕方ありませんね。明日まで時間をください』

『了解! 楽しみにしてるよ』

 ふと洗い場に目を向けると、隆雄が自分一人で髪の毛を洗っていた。瞼を固く閉じて、変に力が入っているせいか情けないアヒル口になっている。

「すごいな。髪を洗えるようになったのか」

 隆雄は額から次々に垂れてくる泡に翻弄されていて、とても返事をする余裕はなさそうだ。たまに生意気なことを言ったりもするが、やはりまだ未就学児。覚束ない洗髪姿が何とも微笑ましい。

「なあ隆雄。お父さんも正義のヒーローになってみようかな」

「だめ。お父さんはずっと魔怪」

 言い返した拍子に、隆雄の額の泡が一気に滑り落ちてきた。目、鼻、そして口を泡に塞がれた隆雄は、すっかり動転してしまって今にも泣き出しそうだ。

「しょうがないなあ、目をつぶっていろよ」

 頭からシャワーをかけて泡を流すと、隆雄は両手でごしごしと顔を拭って安堵の溜め息をついた。

「無理をするからだ。魔怪に助けてもらうヒーローなんて聞いたことないぞ」

「いいんだもん。今のは魔怪じゃなくて、お父さんだったから」

 しばらく言葉が出なかった。二年も家族を放ったらかしていたのに、それでも隆雄は静生を父と認め、安心して頼ってくれている。たちまち目頭が熱くなり、視界が頼りなく滲んだ。

「隆雄。お父さん、これからも頑張るからな」

 しばらく待っても一向に返事がない。そういえばシャワーは止めたはずなのに、いまだに流れる水の音が続いている。

「あっ、またやったな! 風呂でおしっこしちゃだめって言っただろう」

「でも……」

「隆雄はアクセリオンじゃなかったのか。おしっこを漏らすヒーローなんて恰好悪いぞ」

 意外にも神妙な顔をして父の言葉に頷く隆雄。ヒーロー失格の烙印がよほど悔しかったらしい。こんなにもいじらしく健気な姿を見せられたら、これ以上叱るわけにもいかない。

「でもな、お父さんも小さい頃よくやってた。お母さんには内緒な」

 沈んでいた隆雄の顔に、少しずつ笑みが戻ってきた。父を見詰めるその目には、溢れんばかりの親しみが浮かんでいる。

「いつまで入ってるの? もう、私も入っちゃおうかな」

 待ちくたびれた様子の美姫が脱衣所で呆れ声を出した。顔を見合わせた父子は慌てて洗い場を流すと、何食わぬ顔をして願ってもない幸せを出迎えた。

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