【一】《8》
明るいうちに帰宅したのは何か月振りだろう。ここ二年ほど、帰宅はほぼ毎日終電だった。こんなに時間に帰ってきたとなれば妻も息子も目を丸くするに違いない。そしてその後は、一体どういう表情になるだろう。温かい笑顔か、はたまたこれまでの遅い帰宅を責める呆れ顔か。まさか怒られるなんてことはないだろうが、最悪、冷たい無表情まであり得る。
「ただいま」
意を決して玄関のドアを開け、隙間から家の中へ呼びかけてみる。反応はない。予想はしていたが、やはり返事がないというのは寂しいものだ。出迎えを諦めて靴を脱ぎ、廊下からリビングをそろりと覗き込んでみた。五歳の息子がこちらに背を向け、身じろぎもせずテレビに食い入っている。
観ているコンテンツは、子供向けのよくある特撮ヒーローものだ。銀色の金属装甲に身を包んだ主人公が、グロテスクな怪物を相手に画面狭しと立ち回っている。その動きに合わせて右へ左へと身体を揺らす姿は何とも微笑ましい。すっかり画面の中のヒーローになりきっているようだ。
「
テレビに夢中で聞こえていないのか、隆雄は返事どころか振り向きもしない。寂しい限りだが、今は父の帰宅より悪者退治のほうが大事なのだろう。隆雄には今、完全無欠のメタルヒーローが乗り移っている。悪の組織が世界に
静生は静かにリビングを通り過ぎ、そのまま台所に向かった。
「ただいま、いい匂いだね」
コンロの前で鍋をかき回していた妻が、びくりと小さく飛び上がった。すかさず振り向いた妻の表情は、湯気を上げる鍋とは対照的にすっかり凍りついている。
「やめてよ、寿命が縮むじゃない」
不機嫌そうに呟いて、再び鍋に向き直る。
「今夜はカレーか。早く帰って来た甲斐があったよ」
彼女はまるで当て付けのように足音を響かせて冷蔵庫に向かうと、中から鶏肉が入った銀のボウルを取り出した。漬け汁に浸っているところを見ると、カレーの上に乗るのは鶏の唐揚げらしい。
「唐揚げカレーなんて、隆雄の小躍りが目に浮かぶよ。我が子の笑顔が見られるんだから、やっぱり帰宅が早いって幸せだなあ」
鶏肉を手際よく衣にまぶし、熱い油の中へそっと泳がせる。鶏肉が揚がっていく小気味好い音が何とも食欲をそそる。
「今日はずいぶん早いじゃない」
壁の時計を一瞥した妻が抑揚のない声で言った。夕飯の支度に余念がないようで、この時間には珍しい夫の顔を見ようともしない。
「うん。仕事がやっと落ち着いたから、明日も明後日も早く帰れそうだよ」
「そう、クビにでもなったの?」
手際よくレタスを千切りながら、早すぎるフィニッシュブローを繰り出してくる妻。
「ば、馬鹿なこと言うなよ。社運をかけたプロジェクトが落ち着いたんだって。何年か前、
美姫は洗った手を拭きながら、後ろで石像のように硬くなっている静生に目を遣った。
「そうなんだ、おめでとう。でも残念だけど……」
思わず顔が引きつった。まさか本当に辞職を看破されてしまったのだろうか。軽く目眩を催して、力なく半歩後ずさる。
「あなたの分の夕飯、用意してないのよ。すぐ作るからちょっと待っててくれる」
「あ、ああ、そんなことか。いいよ、何もなくても」
「いいわけないでしょ。大変だった仕事が落ち着いたんだから、今夜くらいはお祝い気分に浸りたいんじゃないの?」
残念ながら、本当の状況はお祝いとは真逆だ。
「そんな贅沢は必要ないって。明日も明後日も仕事は続くんだし、僕は美姫と隆雄の顔が見られればそれ以上は何も……」
静生の目を覗き込んだ美姫は、ようやく少しだけ微笑んだ。
「ふうん。それじゃ、冷蔵庫から卵を三つ取って」
フライパンを手に取った美姫は、空いているコンロに火をつけてフライパンにたらりと油を垂らした。
「何を作るの?」
「目玉焼き。二人分の唐揚げを三人で分けたら物足りなくなっちゃう。だから目玉焼きも乗せる。それで我慢して」
温まったフライパンの上で、卵の花が次々に咲いていく。目玉焼きが焼ける音は、先ほどの唐揚げとは違って突き抜けるような爽快感があっていい。こんな最低の日だというのに、しばらく音に聞き入っていると気分が高揚してくるから不思議なものだ。美味しいものがもつ幸せの力はなかなか侮れない。
台所を出てリビングに戻ると、先ほどの特撮を観終わった隆雄がテレビの前でつまらなそうに寝転んでいた。隆雄は静生を見つけると、両目を見開いて勢いよく飛び起きた。
「お父さんがいる! どうして?」
小首を傾げて父の顔をまじまじと見上げる隆雄。この時間に父を見るのは二年振りなので無理もない。
「お仕事が早く終わったんだ。しかもな、これからはずっと早く帰って来るぞ」
そう言ってにこやかに両腕を広げて見せたが、隆雄は棒立ちのままぽかんとしている。父の胸に飛び込んで来る気配は微塵もない。それとなく腕を引っ込め、はしゃいだ声でもうひと押ししてみた。
「そうだ隆雄、ご飯を食べたらお父さんとお風呂に入ろう。久し振りに背中の流しっこしような」
「えぇー、お母さんと入る」
素直という名の刃物が容赦なく胸を抉る。さすが子供だ。だかここで挫けるわけにはいかない。このままでは今後もずっと、たまに家で見かけるおじさん扱いになってしまう。
「お母さんはお風呂で遊んでくれないだろう? お父さんと入ったほうが絶対に面白いぞ」
美姫はバスタイムを満喫したい派だ。リラックスするための風呂ではしゃぐなど言語道断だと思っている。
隆雄はようやく思案顔になって次の言葉を探し始めた。ほくそ笑まずにはいられない。咄嗟の一言だったとはいえ、よくこれほどの売り文句を思いついたものだ。
「じゃあ、お父さんは解雇クビだー」
「な、な、なんだって? 違うぞ、断じてクビじゃない!」
「遊んでくれるんでしょ? だったらシャドウ帝国側やってよ。窓際の魔怪、カイ・コクビ・ダー」
どうやら先ほどの特撮の話をしているらしい。それにしても、なんという不吉なネーミングだろう。過去に何があったかは知らないが、その回を書いた脚本家は一生売れないに違いない。
「わかった、やるよ。ふははは、お前を悪の帝国に引きずり込んでやる。そしてお前も、カイ・コクビ・ダーになるのだ!」
ダミ声で戯けて見せると、隆雄は大はしゃぎでリビングを駆け回り、急に立ち止まったかと思うと片腕を天へ突き上げた。
「その声はシャドウ天帝。みんなが危ない。アクセルパワー、アセンブル!」
叫び声と共に振り返った隆雄は、すっかり無敵のヒーローの目つきになっていた。
「光速戦神アクセリオン!」
勇ましい構えから繰り出される連続パンチ。回し蹴りからの強烈なタックル。父の懐で笑い転げる隆雄を見て、ようやく帰宅できたような気がした。可愛らしいヒーローの笑顔につられて、久し振りに腹の底から笑いが込み上げてくる。
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