【一】《7》

 どんなことかと思えば、何とも神様らしくない頼みだ。人とは別の世界に住み、人智を超えた存在である神が、人間の社会や個人なんかに興味を持つものだろうか。しかも神の力をもってすれば、人ひとりを監視するくらい造作もないことのように思える。

「監視というと、ずっと見張ってろってこと? それって僕みたいな普通の会社員だと力不足なんじゃない? スパイ映画みたいにこっそり尾行とか、アジトに潜入とかは無理だよ」

『心配ありません。私がお願いするのは、極々簡単なおつかいみたいなものです。時がきたら詳しく指示をしますので、あなたは指定の場所に赴き、その人物の跡を追って、あとは自分の思うままに行動してください』

「それだけ?」

『それだけです。監視対象を観察してみて、親しみを感じたなら協力してもいいですし、友達になるのも自由です。反対に敵意が芽生えれば思い切り罵倒しても、徹底的に打ちのめしても構いません。ちょっと物騒な相手かもしれませんが、あなたならまず問題ないでしょう』

「物騒な相手? 打ちのめす? 穏やかじゃないなあ。しかも僕の場合、打ちのめすどころか返り討ちに遭うに決まってる。本当にこの頼み事、僕が適任なの?」

 問われたアマテラスは、待ってましたとばかりにきっぱりと言い切った。

『はい、間違いなく適任です。あなたの腕っ節は私が保証します』

「こんなに細身で、格闘技はおろかスポーツもほとんどやったことがないのに?」

『大丈夫です。先ほどから凄まじい力がみなぎっているでしょう?』

 そういえば今日は、朝から身体の調子がおかしい。急に全身が火照ったかと思うとみるみる力が湧いてきて、あり余るエネルギーをどこかにぶつけたくなる。そんなことが何度もあった。

『その力は、もともとあなたの身体に備わっていたものです。延命を施す際に偶然発見したので、制御しやすいよう少し手を加えておきました。試しに足元の石ころを握ってごらんなさい』

 言われるままに小石を拾い上げ、人差し指と親指でつまんでみる。すると驚いたことに、小石はほろほろとした焼き菓子のように容易く砕けてしまった。続けてジャングルジムに歩み寄り、鉄の骨組みを人差し指で軽く押してみる。骨組みは針金のようにぐにゃりと曲がり、このまま押し続けると簡単に千切れてしまいそうだ。さすがに怖くなって手を離し、曲げてしまった骨組みを逆から押して元に戻す。

「こ、こんな力が僕に……」

『この力の源は、あなたが物心ついた頃から感じている身近なものです。精神的緊張や、心労、苦痛などの刺激によって生み出される不快感。わかりやすく言うとストレスですね』

 思わず、あっと声が出た。彼女の言葉を裏づける光景がいくつも脳裡に浮かんだからだ。社長室、裕一郎と別れた廊下、そしてこの公園。ストレスを感じたとき、全身には決まって異様な活力が漲っていた。

「ストレスが力に?」

『はい。あなたの身体を調べて、ある特徴に気づいたのです。あなたは常人の数百倍もストレスを生み出しやすい体質でした。しかもあなたのストレスは、怒りなどで表に発散されるタイプではなく、心の内側にじめじめと濃縮されていくタイプ。普通の人がそんなストレスを溜め込んでしまうと、ほんの数日で精神が参ってしまうでしょう。でもあなたは大量のストレスを生み出すと同時に、ストレスを受け入れやすい体質でもあった。要は流されやすく、粘り強さに欠ける、諦めのいい性格ということですね。この類稀たぐいまれな才能があるからこそ、今まで心が壊れずに済んでいたのです。この世のどんな化学反応より強大なストレスというエネルギー。この資源の本質を充分に引き出せる人類は、あなたをおいて他にいません』

 確かにそういうところはある。ただ、褒められているようではあるが、まったく嬉しくないのはなぜだろう。

「この驚くべき力の正体はわかった。これだけ人間離れした力があれば、誰にも負ける気はしないよ」

『それでは頼みを引き受けてくれますね』

 改めて念を押されると、言葉が出なくなった。依然として立ち込める胸のもやもやが、承諾を頑なに許さない。

『どうしました? 断る理由はないはずです』

 本当にこの声の主を信用してもいいのだろうか。辻褄は合っているようだが、だからといってそれが真実だとは限らない。それに、彼女が神様だという証拠もないままだ。そこがはっきりしない限り、他の話は何一つ信憑性を持たない。冷静に考えてみれば、そもそも静生が死んだという話だっていまだに眉唾ではないか。

 どこからともなく聞こえてくる彼女の声も、簡単に砕けた石ころやジャングルジムの変形も、何らかの細工によるまやかしかもしれない。流れに乗せられて即答するのはあまりにも軽率だろう。何が目的かは知らないが、無職になった上、おかしなトラブルにまで巻き込まれるわけにはいかない。

『どうやら信用して頂けないようですね。でも、これだけは言っておきます。神である私が、人間であるあなたにわざわざ頼み事をすることの意味を考えてください。これから起こる事件は、あなた方、人類にとって重大な分水嶺になるはずです』

 心なしか、アマテラスの口調には並々ならぬ強い意思が感じられた。

「あ、うん……。考えておくよ」

『日付が変わるまでお待ちします。落ち着いて考えてみてください』

 穏やかに言い置いたかと思うと、アマテラスの気配はたちまち消失してしまった。まさかと思い何度も瞬きをしてみたが、夢は一向に覚めない。どうやら現実のようだ。

 夢ではないとすると、彼女が言った事件、そして分水嶺とは一体何のことだろう。これが何らかの詐欺なら神を装ったりせず、もっと相手が信じやすい嘘をつくような気もする。いきなり事件や人類なんて重い話題を突きつけたり、自分は神だなんて突拍子もないことを言ったりしたら、大抵の相手は身構えてしまう。騙すつもりなら、警戒されそうな言葉や内容は極力口にしないだろう。

 何が何だかわからなくなってきて、激しく髪の毛をかきむしった。同時に例の火照りが込み上げてきて、膨大な活力が全身を震わせる。

 身体に溜めておけなくなると大爆発──。

 再び猛烈な腿上げが始まった。次々に繰り出される両脚の速度は、もはや人類の限界を超えて岩石さえ貫かんばかりの勢いだ。この光景がひどく滑稽だということは、本人である静生が一番よくわかっていた。だが止めるわけにはいかない。アマテラスが残した選択に頭を悩ませている以上、止めればストレスが暴発して木っ端微塵だ。

『そういえば言い忘れていました』

「今忙しいんだ、あとにしてくれ!」

『そうですか? あなたにとって、とても有意義な話だと思うのですが』

「どうせ君の話を聞いたって、真実かどうかは確かめようがないんだ。迷いが増えるだけに決まってる」

『でも、今聞いておいたほうが……』

「うるさいな! そんなに言いたいなら勝手に言えばいいだろ。僕には関係ない」

 さらに増えてしまったストレスを燃やし尽くすため、死に物狂いで両足をばたつかせる。

『ではお話しします。私との会話は心の中で念じるだけで結構です。わざわざ声を出す必要はありません』

 猛スピードで繰り出されていた腿上げが、ぴたりと止まった。

「最初に言ってよ! 一人で喋ってた僕が、まるっきり馬鹿みたいじゃん!」

 抗議の叫びが、公園を突き抜けて閑静な住宅街にまで響き渡った。人の気配を感じて振り返ると、幼い女の子が公園の入り口で涙目になっている。その傍らには、ピンクのゴムボールと砂場セットを持った母親らしき女性。女の子はべそをかきながら、覚束ない足取りで走り去ってしまった。その跡を追う母親は、警戒心剝き出しの横目で静生を睨みつけている。まずい、本当にまずい。

 さりげなく携帯電話を取り出した母親が、小声で話し始めた。その間もちらちらとこちらを窺っているということは、今まさに通報されていると見て間違いない。一連の奇行は神のせいだなんて、どうせ信じてもらえないだろう。

 弁明を諦めて地面を蹴り、一目散に公園を後にした。死を受け入れることは難しい。だが普通に生きることもまた、こうも難しいものなのか。

 鈍色の空から、ぽつぽつと雨粒が降ってきた。傘がない静生は、雨の匂いが立ちのぼる表通りを無心になって疾走するより他なかった。

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