【一】《6》

 啞然とするしかなかった。彼女が言う神とは、神話や宗教でお馴染みの神様のことだろうか。〝カミ〟と呼ばれるものをあれこれ思い浮かべてみるものの、該当する存在が他にいるとは思えない。

「神だって? そんな馬鹿な」

『本当です。私の名はアマテラス。天からずっとあなた方を見ていました』

「アマテラス? 天岩戸に出てくるあの天照大御神あまてらすおおみかみ?」

『はい』

「太陽神と言われる、あの?」

『そうです』

伊邪那岐神いざなきのかみの左目から生まれたという?」

『えー、仰る通りです』

「えー、ってなんだよ。自分のことなのに返事を迷うなんておかしいじゃないか」

『ずいぶん昔のことなので、ど忘れしただけです。そもそも右目か左目かなんて、どっちでもいいじゃありませんか』

 そこはかとなく胡散臭いが、意識に直接語りかけてくるなんて芸当ができるのは、確かに神様くらいしかいないかもしれない。

「それで、神様が僕に何の用? 力がどうこうって言ってたけど」

『そうそう、つい脱線してしまいました。会話というのは案外難しいものですね。あなたに声をかけたのは重要なお話があるからです。ちょっとびっくりするかもしれませんが、最後まで落ち着いて聞いてくださいね』

「そんな前置き必要ないよ。今日は犬に追われて、職を失って、挙げ句の果てにはこうして自称神様と話してる。これ以上びっくりなんてできるわけないって」

『それを聞いて安心しました。実は、あなたは死んだのです』

「あっそ。そんなことでびっくりするわけ……、し、死んだ? 冗談はやめてよ。僕はほら、ちゃんと生きてる。こうして手足も動くし、さっき頰をつねったら痛かったし。第一、元気一杯腿上げをする亡者なんているわけないだろう?」

 今朝は社長や同僚とやり取りをしているし、先ほども少年たちと不本意な会話を交わしたばかりだ。相手も静生の存在を認めているので、実体のない幽霊というわけではない。そもそも死者が出向を言い渡されたり、辞表を提出したり、滑稽な姿を動画に撮られたりするはずがないではないか。

『あなたは普段と変わらず生き続けているように感じているでしょう。でも本当は、私の力で延命を施されているのです。現状をわかりやすく言うなら、終了間際に合流した人がいたから取りあえず三十分延長した、みたいな状況というわけです』

「僕の人生を二次会のカラオケみたいに言わないでよ。そんな話、信じられるわけがないだろう。だったら僕はいつ、どうやって死んだの?」

 詰め寄ってはみたものの、静生の脳裡には思い当たる光景が鮮明に浮かんでいた。今朝の神社、野良犬、そして古びた長い石段だ。

『あなたのご想像通りです。亡くなったのは石段の下。野良犬に追いかけられ、足を踏み外して転落したときの衝撃が原因です。全身打撲、複雑骨折、脳挫傷。事故後から出社までの記憶がないのは、あの転落事故で死んでしまったからです』

 やっぱりそうだ。確かに今朝の記憶は、あの転落を境にぷっつりと途切れてしまっている。そして気がついたときには会社で自分の席に座っていた。

 おもむろに両手を広げ、じっと手の平を見詰めた。そこにはいつもと変わらない見慣れた手があり、すべての指は自在に動く。ぐっと拳を握れば、自分の手の温もりを感じることもできる。それなのに──。

「僕は、石段から転げ落ちて……」

 両手が激しく震えている。激務に何度となく追い詰められ、いっそ死んでしまったほうが楽だと思ったこともあった。しかし実際に死を宣告されてみると、己の反応に驚愕せずにはいられなかった。死にたくない。命が惜しい。周りの人たちと会えなくなるのが寂しくてたまらない。

「いや、あの辺は辺鄙へんぴな場所だけど近くに民家もあるし、人がまったく通らないわけでもない。僕が倒れていれば、すぐに誰かが発見するに決まってる。救急車だって呼ぶだろうから、そう簡単に死ぬわけが……」

『残念ですが、そうはなりませんでした。あなたは石段を踏み外した後、もんどりを打って転げ落ち、下の道路に投げ出されました。ひどい怪我でしたが、その時点ではまだ微かに息がありました。あのとき人が通りかかっていれば、あるいは助かったかもしれません。しかし……』

 固唾を呑まずにはいられなかった。口調から察するに、その先はさらにありがたくない話のようだ。

『直後にものすごいスピードで車がやって来て、あなたを轢いてしまったのです。御愁傷様でした』

「そんな……。滅多に車が通らない田舎道だよ? しかも道幅だって、車がやっと一台通れるくらい。そんな道をものすごいスピードで? 倒れている僕のことだって見えていただろうに……」

 何という不運。野良犬に追い立てられたとはいえ、足を滑らせた自分が悪いことはわかっている。だが、この世に留まる最後のチャンスまであっけなく潰されていたなんて。

「それで、君はどうして僕を助けたの? いくら神様といっても、死んだ人間を片っ端から助けるわけにはいかないよね」

『それは、まあ、そうなんですけれど……』

 彼女はしばらく沈黙した後、しどろもどろに続けた。

『自宅の前に人が倒れていたら、誰だって取りあえず助けるでしょう。そういうことです』

「自宅? 君はあの辺に住んでるの?」

『あの辺も何も、あなたは野良犬を追って私の家の敷地に入って来たではありませんか』

 なるほど、確かにお邪魔している。彼女の言う家とは、今朝立ち寄った神社のことに違いない。神を祀る神社は、人間界に建てられた神様の別荘みたいなものだ。彼女からしてみれば、自宅の玄関先に人が倒れていたからひとまず助けた、といった感覚なのだろう。

『とにかくあなたは、私が見ている前で最悪の不幸に見舞われました。そして、今もそうしていられるのは他ならぬ私のおかげ。少しは感謝してください』

 アマテラスが語る事実は、何一つ確証がなく、到底信じられる内容ではなかった。何しろひどい外傷を負って事切れた人間を蘇生し、しかも傷一つない元の身体に治したと言うのだ。

「待ってよ。事実を知る人間が一人だけいる。そいつを探し出して真実を問い質したい」

『あなたを轢いた運転手ですね。しかし、上手くいくでしょうか? 相手はあなたを轢いて逃げた人ですよ。仮に探し出せたとしても、事実を語らせるためにはまず轢き逃げを認めさせなければなりません。とてもあなたの期待に応えてくれるとは思えませんが』

 アマテラスの指摘はもっともだ。証拠もないのに、轢き逃げ犯が罪を白状するとは思えない。ということはやはり彼女の説明を鵜呑みにするしかないのか。せめて何か一つだけでも、事実を裏づけてくれる証拠らしきものがあれば──。

『私の言うことを無理に信じる必要はありません。しばらく経てば、自然と答えは出るでしょう。それよりも聞いてほしいことがあります。私はあなたに頼みがあるのです』

「僕に頼み? 神様なんだから人間の手なんて必要ないだろう」

 死の疑念がどんよりと渦を巻いているというのに、他人の頼み事など聞けるわけがない。本当に神様なら、せめて人並みには空気を読んでほしいものだ。

『そんなにへそを曲げないでください。どうしても嫌だとおっしゃるなら帰りますし、黄泉国よみのくにへもすぐにお連れしますから』

 縁起でもない地名が聞こえて、背筋にぞくりと悪寒が走った。

「よ、黄泉国って、まさか」

『あなたは事故で亡くなったのです。そして今は、私の力によってこの世に留まっている。私が帰れば力は失われますから、もちろんあなたは自然の摂理に従って……』

「い、いやだなあ、神様の頼みを断るわけないじゃないか。水臭いこと言わないで、どんどん頼ってよ。僕と君の仲だろう?」

『今日が初対面だと記憶していますが』

「でもほら、もう家にもお邪魔したんだし」

『それはあなたが一方的に』

「冷たいこと言わないでよ。君だって追い返さなかったんだから、迎え入れてくれたってことだよね?」

『まあ、私は基本的に誰も拒みませんけど』

「それなら親密な仲ってことで、うん、これからもよろしく。それで頼みって何?」

『……いいでしょう。どの道この頼みを任せられる人はあなたしかいません。そう言って頂けると大変助かります。実は、ある人物を監視して頂きたいのです』

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