【一】《5》

 我に返った静生は、全身のもどかしさに耐えきれずベンチから立ち上がった。今朝から何度目だろう。落ち込むたびに噴き上げてくる無尽蔵なエネルギーが、ぶつけどころを探して体内で暴れ狂っている。もう我慢の限界だ。

 静生は悩ましい唸り声を上げながら、その場で人目もはばからず全力疾走さながらのもも上げを始めた。

「げぇ、あいつマジキモいわ」

「でも笑えるじゃん。一応撮っとく?」

 逃げ去ったはずの少年たちが、植え込みの陰から携帯電話を差し向けているのが見えた。これはまずい。恥ずかしい動画を撮られた上、下手をするとこの醜態をSNSで世界中に拡散されかねない。しかしこの歯痒い全身の疼き、どうにも止めることができない。

『…………は、いかがですか?』

 女性の声が聞こえたような気がした。辺りを見回してみたが、近くにいるのは植え込みの向こうで笑い転げている少年たちだけだ。女性の姿なんてどこにもない。

 日頃からストレス漬けだった上、何といっても今日は会社を辞めた絶望の日だ。空耳くらい聞こえてもおかしくないし、むしろ幻覚が見えていないだけましかもしれない。

『おかしいですね、聞こえているはずですけど』

 またしても女性の声だ。しかも空耳にしてはいやにはっきりと聞こえる。

『もう一度お伺いします。力に目覚めた気分はいかがですか?』

 気分はいかが……? 空耳のくせに質問してくるとは図々しい。空耳の質問なんかにいちいち構っていられないし、万一答えているところを他人に聞かれでもしたら、見えない何かと会話をする不審者そのものだ。空耳は黙って聞き流す。それ以外の対応なんて絶対にあり得ない。

『本当に聞こえていないんですか? かなり急ぎましたし、不具合を見逃してしまったのかもしれませんね。それなら仕方ありません。私の声も聞こえないようなポンコツなら、この人の脳は溶かしちゃいましょう』

「ちょっと待て。脳を溶かすって何だ。空耳の分際で僕に喧嘩を売ろうってのか」

 思わず返事をしてしまった。脳を溶かすなんてことができるかどうかは別にして、いくら空耳でもあまりに聞き捨てならない挑発ではないか。

『ちゃんと聞こえてるじゃありませんか』

「聞こえてるよ、最初から。だからもう黙っててくれ。空耳と会話なんて頭がおかしくなりそうだ」

『心配には及びません。あなたは頭も身体も正常そのものですから』

「空耳に何がわかる! あぁ……、完全に独りで喋ってる。きっとストレスの溜め過ぎだ。とうとう僕は狂っちゃったんだ!」

『それより一所懸命やっていた腿上げはいいんですか? 発散し続けなければ、どんどん余分なエネルギーが溜まっていきますよ』

 足元に視線を落とすと、確かに空耳が言う通り足が止まっている。腿上げを止めてしまったからか全身は前にも増して活力を増しており、如何ともしがたいもどかしさではち切れんばかりだ。

 静生は動きづらい革靴を脱ぎ捨て、猛然と腿上げを再開した。

「あ、ありがとう。今日は朝からおかしくて、ストレスを感じると身体に力が……」

 はたと足を止め、鈍色の虚空へ向かって問いかける。

「余分なエネルギーが溜まると、どうなるの?」

『体内に溜めておけなくなった力は、行き場を失って大爆発を起こします。あなた方の世界で例えるなら、大体一ギガTNTトンくらいの爆発力ですね。水素爆弾一個分といったところでしょうか。あなたを中心とした半径五十キロ圏内は完全に壊滅します』

「ストレスの発散を怠ったくらいで大爆発? 水素爆弾一個分? 僕は本当にイカレたらしいな。こんなでたらめな空耳と普通に会話をしているんだから」

 おそらく夢でも見ているのだろう。そう、これは夢だ。とすると、なかなか奇想天外で愉快な展開ではないか。会社を追い出され、空耳と会話をした挙句ストレスで大爆発だなんて──。

 唐突に込み上げてきた馬鹿笑いが公園中に響き渡った。ひどく腹がよじれて息をするのも一苦労だ。

「おい、あいつ喋り出したと思ったら急に笑い始めたぞ」

「酔っぱらってるのかな。絶対に普通じゃないよね」

「俺、聞いたことある。頭がおかしくなるのはヤバいクスリのせいだって」

「マジで? だったらあいつ犯罪者じゃん。動画も撮ったし、警察に通報する?」

 内緒話のつもりらしいが、少年たちの会話は静生の耳まではっきりと届いていた。いよいよ笑っている場合ではない。確認のため、自分の頰を思い切りつねり上げてみた。とても痛い。ならば取りあえず、冤罪で捕まるのだけは回避したほうがいいだろう。

 静生は植え込みに隠れている少年たちに向かって、極力穏やかな声で話し始めた。

「君たち、おじさんはクスリなんてやってないぞ。あと、薬は決して悪いものじゃない。君たちも風邪をひいたり怪我をしたときは、薬を飲んだり塗ったりするだろう? 悪い薬があるんじゃなくて、正しい量や使い方を守らないと毒にもなるってことなんだ」

 諭しながら二、三歩近くと、植え込みの裏に屈んでいた少年たちは一様にたじろいで、早くも逃亡の体勢に入っている。

「待って、最後まで話を聞いてくれないか。おじさんはとても薬に詳しいんだ。薬というのは、とても身体が辛かったり、気持ちが沈んでどうしようもなかったり、そういった人生の窮地を救ってくれる頼もしい友達なんだよ。飲めば気分が良くなって、身体が軽くなって、心身の痛みも和ぐ。笑顔を思い出させてくれて、生きる気力を呼び戻してくれることだってある。それが薬なんだ」

 突然、少年たちの一人が静生を指差して叫んだ。

「やっぱりクスリやってんじゃん! 病院の薬は気持ちよくなったり、笑いたくなったりしないぞ!」

「大人のくせに嘘つきだし、きっとこいつキョウアクハンだよ。ネットで晒そうぜ」

 口々に悪態をついた少年たちは、静生に背を向けると火の粉が爆ぜるように散っていった。残された静生は追いかけるわけにもいかず、ただただその場に佇むしかなかった。

『あー、行ってしまいましたね。ネットで拡散されそうですけど大丈夫ですか?』

 再度、辺りを慎重にめ回してみたが、依然として女性の姿は見当たらない。

「大丈夫じゃないよ! でも追ったってどうするのさ。捕まえて説教? 携帯電話を取り上げてデータ消去? それとも平謝りして動画の拡散だけは勘弁してもらう? 冗談じゃない。元はと言えばこうなったのはお前、空耳のせいじゃないか!」

『私は何もしていません。難癖もいいところです』

「何もしていない? そうやって話しかけてくること自体が迷惑なんだよ。そもそもお前は何者なんだ。周りには誰もいないし、声は僕にしか聞こえていないみたいだけど、だからと言って空耳でもないらしい。いい加減に姿を見せろ!」

『それはできません』

「僕にちょっかいを出しているんだから、何か用があるんだろう? だったら出て来て、せめて名乗ったらどうだ。まさか幽霊だから姿がありません、なんて出任せで逃げるつもりじゃないだろうな」

『そんなことは言いません。私は幽霊ではありませんから』

「じゃあ何だ。物の怪か? 妖精か? それとも闇の忍者軍団の一員か?」

『神です』

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