【一】《4》

「出向の件、よろしく頼むぞ。すぐに自分の部署に戻って支度を始めたまえ。現地でも素晴らしい成果を期待しているからな」

 社長は一方的に言い含めて立ち上がると、棒立ちになっている静生に右手を差し伸べてきた。本来ならその手を力強く握り、凛々しい顔をして感謝と意気込みを述べるところだろう。

「申し訳ありません。このお話、お受けできません」

 両目をかっと見開いた社長は、差し出した右手をゆっくりと収めた。口元がひどく強張っている。骨を砕くような歯ぎしりの音が今にも聞こえてきそうだ。しかしその口から出たのは、意外にもなだめすかすような猫なで声だった。

「そうかそうか。留守の間、家族のことが心配なんだな。君には奥さんと、確か息子もいるんだったな。それなら君の家族の旅費と滞在費もすべて出そうじゃないか。どうだ、これ以上の待遇はないだろう」

 確かに家族のことも気になっていた。だがその気持ちは単なる家族愛ではなく、少し複雑なものだった。ここ一年ほど、妻とはあまり話をしていない。きっかけは二年前に始まった今回のプロジェクトだ。それに伴い、帰宅時間は遅くなり、夜更けに疲れ果てて帰宅するのが常となった。そんな日が際限なく続けば、どうしても家族への関心は薄れてしまう。妻も息子も半ば呆れているらしく、最近は次の休みを聞かれることさえもなくなっていた。

 大事な仕事を抱えているとはいえ、家族を蔑ろにしていいはずがない。新薬が完成間近となり、最近は早く帰れる日もちらほら出てきたが、それでも家族とは何となくすれ違ったままだ。そんな雰囲気の妻に、三年間も海外生活をしてくれとはとても切り出せない。一緒に行ってくれるどころか、無言で一人分の荷物を押しつけられるのが関の山だ。

「お気遣いありがとうございます。しかし、今回の件は辞退させていただきます。申し訳ありません」

 社長の気配が、ふっと消えたような気がした。静かに背を向けた社長は漫然と外の景色を眺めつつ、

「どうも私は、君を買いかぶっていたようだ。君には現実と向き合う強さがない。もう戻りたまえ。明日から開発部に君の席はない。異動先は追って知らせる」

 と、まるで独り言のように淡々と言い渡した。この戦力外通告は、限りなく解雇に等しい。考える時間も与えたし、会社としてできる限りの譲歩もした。しかしそれでもわがままを言うのなら、この会社に居場所はない、ということだろう。

「ああ、それと……」

 社長の低い声が、うな垂れた静生の後頭部に重くのしかかる。

「お前の頭の中にある新薬の情報は、すべて我が高志製薬の財産だということを忘れるな。おかしな真似をするなよ」

 社長の靴音が遠ざかって行ったかと思うと、奥の扉が乱暴に閉められた。社長室を出て、隣の控え室に移動したのだろう。

 静生は俯いたまま、じっと自分の靴の爪先を見詰めていた。やるせない感情が凄まじい熱となって胸に込み上げてくる。全身が燃えるように熱い。今なら目の前の重厚な机さえ、いとも簡単に叩き割ることができそうだ。

 静生は誰もいなくなった社長室で全身を震わせながら、そのぶつけどころのない赤熱を涙と一緒に呑み込んだ。


「ワレココニキテ、ワガミココロスガスガシ。ワレココニキテ……」

 重苦しい雨雲を見上げつつ、唱え慣れた呪文を何度も呟く。梅雨の晴れ間から覗く午後の陽射しは思いの外眩しく、来るべき夏の気配をふんだんに含んでいた。だがいずれ晴れ間は塞がり、行き場のないこの身に冷たい雨が降り注ぐだろう。

 傘を会社に置き忘れてしまったが、一本の傘のためにあそこへ戻る気にはなれなかった。不意に社長室の光景が蘇ってきて、力なく公園のベンチにうずくまる。それでも社長の冷たい声は、耳の奥でしつこく反響を繰り返している。出来ることなら頭の中に手を突っ込んで、嫌な記憶を直接引きずり出してやりたいくらいだった。

「うわ、ヤバいのいる」

 声のしたほうへ目を遣ると、数人の少年たちが滑り台の陰から静生の様子を窺っていた。背丈や顔つきから想像するに、小学三、四年生くらいだろう。サッカーボールを抱えているところを見ると、どうやらこの公園で遊ぶために集まったようだ。

 静生と目が合った少年たちは喚声を張り上げて一斉に逃げていった。

「あれ、きっとリストラだ! ジンセーをヒカンしてシンジューするんだぜ!」

 堪え難い羞恥を覚えると同時に、燃えるような熱が全身を覆った。不思議と全身に活力が満ち溢れ、じっとしているのがひどくもどかしくて仕方がない。そういえば先ほど社長室でも、机を叩き割ってしまいたくなるような同種の異変が起こった。行き場のないエネルギーの爆発的膨張。このままこのエネルギーを放っておくと、四肢が内側から張り裂けてしまうのではないだろうか。

「ち、違うぞ。悲観なんてしていないし、会社だって解雇じゃなくて自主退社……」

 静生は社長室を出た後、開発部に戻ってすぐに辞表を提出した。部長は目を丸くするばかりだったが、社長と話はついていると告げると、あの社長に逆らうのが怖いのかあっさり辞表を受け取った。手早く机を片づけて開発部を出ると、廊下には険しい顔をした裕一郎が待っていた。

「社長室で何があったんですか? 説明してください」

「何って、見ての通りだよ。この会社に僕の居場所はないらしい」

 自分でも声が震えているのがわかった。そのことに気づかされると、必死に踏ん張っていた気持ちがくじけてたちまち両目が潤んだ。

「居場所はないって、まさかそんな出任せを本気にしているんですか? 今回の新薬だって、完成させたのは静さんじゃないですか。みんなそう思っていますよ」

「ありがとう。現場のみんなには感謝してる。でもだめなんだ。いくら裕たちがかばってくれても、あの社長の意向なんだから……」

「それなら僕が社長を説得します。静さんのいない開発部なんてあり得ない」

 今にも社長室に飛んで行ってしまいそうな裕一郎の腕を咄嗟に摑んだ。しかし、彼の熱い視線にどう応えていいかわからない。

「止めないでください!」

 我ながら情けないとは思ったが、せっかく摑んだ裕一郎の腕を思わず放してしまった。しかしそれでも裕一郎を行かせるわけにはいかない。あの社長に目をつけられたら最後、彼の未来に取り返しのつかない傷がついてしまう。

「もういいんだよ。こうなったのは全部自分のせいなんだから。納得だってしてる」

「僕らはちっとも納得してませんよ。筋の通った説明をしてもらうためにも、僕は社長室に行きます」

 その毅然とした語調に、またも視界が潤んだ。悔しさや不安のせいではない。窮地の自分を頑なに庇い続ける裕一郎。その真っ直ぐな言葉と眼差しがあまりに眩しかったからだ。

「開発部には裕がいる。僕よりずっと仕事ができて、気配りも上手いし、人望も厚い。だから僕は安心してこの高志製薬を去ることができる。僕の気持ちも汲んでほしい。みんなを巻き込みたくないんだ」

 裕一郎は頭痛でも催したのか、きつく眉根を寄せた。

「静さんのそういうところは長所でもあるんですけどね。でもこういうときは、何が何でも踏ん張らないと! 社長と意見が合わないなら、死ぬ気で説き伏せてくださいよ。絶対に譲れない信念がある。だから揉めたんでしょう?」

「それはそうだけど……」

 口籠るしかなかった。言いたいことは痛いほどわかる。どうしても守りたいものがあるなら、一蹴されたくらいで挫けてはいけない。しかしこればかりは性分としか言いようがなかった。

「謙虚は美徳だと思いますけど、それが自分の首を絞めるようじゃ本末転倒じゃないですか。この世で自分の価値観や信念を守ることができるのは、自分だけなんですからね」

 そう言い残した裕一郎は、憮然として開発部に戻って行った。

 廊下に立ち尽くしていると、またしても凄まじい熱気が全身を覆い尽くした。暴力的とも言える熱、そして活力。これらは不甲斐ない自分に対する怒りのマグマ。この熱で跡形もなく蒸発してしまうことができるなら、どんなに気が楽だろう。

 更衣室でロッカーの整理をしていると、とめどなく涙が溢れてきた。下唇をきつく嚙んで、やるせない気持ちを必死に押し殺す。本当に会社を辞めてしまった。しかも、最も信頼していた裕一郎にも見放される始末。僕は明日からどうすればいい──。

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