【一】《3》
社長室の扉を前にした静生は、しばらくその場に立ち尽くしていた。二週間ほど前もここを訪れ、社長と話をしている。前回は仕事の件で直談判をしに来た。話を聞いた社長は平静を装ってはいたものの、表情には露骨な苦々しさが滲んでいた。今日の呼び出しは、その件が少なからず影響しているに違いない。
社長室の扉を開けた途端、視界が強烈な光の洪水に呑み込まれた。社長室の正面の壁は一面ガラス張りになっていて、広々とした部屋は新鮮な朝の陽射しで溢れ返っている。そのガラス壁の前には、窓外を静かに見下ろす社長の背中があった。
「失礼します、開発部主任の唯野静生です。お待たせして申し訳ありませんでした」
音もなく振り返った社長は整った口髭をふんと揺らすと、銀縁眼鏡の奥で冷たく光る
静生は全身をぎくしゃくさせて社長の机の前まで歩み寄った。
「進捗はどうだ?」
思わず視線が泳ぐ。世間話もなしにいきなり本題を切り出されるとは思わなかった。
「はい、
「よくやってくれた。私の無理難題をよく形にしてくれたな。君には格別の待遇を考えている」
「基礎組成を提案してくださったのは社長ですから。こんなことを言うのは失礼ですが、あの革新的なアイディアには驚きました。僕なんかより社長のほうがずっと開発に向いておられるんじゃないかと……」
社長は薄く微笑んでいるが、その口元に朗らかさは一切ない。むしろその歪な笑みは、静まり返った社長室を余計に凍りつかせている。
「あ、あの社長」
沈黙に堪えかねて口火を切ると、社長はすらりとした長身をどさりと椅子に預けた。五十代後半と社長としては若い部類だが、貫禄不足ということはない。ただ、いまいち器の大きさを感じられないのは、普段から不気味に引きつっている口元のせいだろう。
社長という地位まで登り詰め、誰もが認める成果を上げているだけに、有能だということを否定する気は毛頭ない。だがこの社長を前にして、この先もずっとついていこうという気には到底なれなかった。事実、社員の大半は気難しい彼を腫れ物のように扱っている。
「やっぱりこの薬は自社の独占開発にしましょう。いくら利益を見込めるからと言っても、わざわざ海外に……」
社長は、にべもなく静生の言葉を遮った。
「その話は前回で終わったはずだ。それより君から海外のことを切り出してくれたなら話は早い。予定通り今月、新薬のデータを先方に渡す。資料がまとまり次第、君も先方の研究所に飛んでくれ」
海外企業との部分提携の話は聞いていたが、海外赴任の話は初耳だった。
「ぼ、僕も行くんですか?」
「当然だ。あの薬を最もよく知っているのは君だろう? なあに、たった三年の海外暮らしだ。観光のつもりで楽しんできたまえ」
無下に言い渡した社長は、目を白黒させている静生を気にかける様子もなく暢気に独り笑いをしている。もちろん目は笑っていない。
「待ってください。僕はまだ行くとは……」
「嫌なのか? まあ、ここのところ世界中でテロが頻発しているからな。だが心配するな。出向先は万全の体制で君を迎えてくれる。しかも出向から戻った君を待っているのは開発部長の椅子だ。何といってもこの件は、社運を賭けた一大プロジェクトだからな。上手くこなしてくれたなら、それくらいの待遇は当然だと考えている」
三年後には部長。四十路を待たずしてそこまで出世できれば、ゆくゆくは目の前の男が鎮座している席も夢ではない。ずっと地味な人生を歩んできた静生にとっては、部長という役職でも充分眩し過ぎるというのに。
「提携先と共有する情報はどの程度なんですか」
「今回の件は、部分的な技術協力じゃない。新薬の情報はすべて渡し、現地で君を中心に改良を進めることになる」
「ということはつまり、事実上の譲渡……」
「いや、相手は地道な研究に定評のある生化学研究所だ。我々には無い技術や経験を多く有している。そういった人材や研究も、追々共有していくことになっている」
一応は釣り合いの取れた取引らしい。しかし今回渡すことになるデータは、静生が率いる研究開発チームが何年も心血を注いできた集大成だ。これまでにない画期的な効能を武器に、世界規模の製薬会社へと躍進できる可能性だってある。それほど重要な研究成果を、易々と交渉のテーブルに上げてもいいのだろうか。しかも相手は、常識や価値感に隔たりのある外国企業ときている。
「言いたいことはわかっている。先日、君がここで力説した国力云々の話だろう?」
二週間前、新薬が他社に渡るという噂を聞いた静生は、ここで社長を相手に持論を展開した。そのとき語った懸念は今も払拭されていない。
「君の主張もわからなくはない。だがその考えは、もはや古臭い過去のものだ。我々ビジネスマンは常に未来を見通さなければならない。時流に敏感でなければ、あっという間に勢いのある競争相手に呑み込まれてしまう時代だからな。君は研究者だから想像できないのかもしれないが、そんな君たちを補うために、経営に専念する私たちビジネスマンがいる。君が開発した新薬の社会的活用方法に関しては私に、餅は餅屋に任せたまえ」
もっともな話に聞こえるが、要は静生の主張を却下するということだ。確かにビジネスには明るくないが、今後の懸念を想像するくらいの常識はある。
「あの、仰る意味はよくわかります。でもやっぱりそれは我が社、ひいては我が国の製薬業界にとっても大きなマイナスになるのではないでしょうか」
社長の目つきがさらに険しくなった。以前、この話をしたときと同じ目だ。
「一企業といえど、業界と国家の発展を
急速に進みつつあるグローバル化の流れを盾に取られると、どうしても反論が鈍ってしまう。静生が言葉に詰まっていると、社長はここぞとばかりに持論を畳みかけた。
「冷静に周りを見てみろ。昔ながらの商店街は軒並みシャッター通りとなり、今や日本のどこにいても外国製品を目にしない日はない。それにこの国の企業にしても、他国で同じ事をやって生き延びてきたんだ。何も奇抜なことをやろうってわけじゃない。それなのに君は、我々だけこの島国に閉じ籠って自国民だけを相手に細々と商売をしろと?」
「いえ、そういうわけでは……」
巧みに論点をずらされてしまった。どうしても口では社長に勝てない。伝えたかったのは、国家への献身や全体主義といったイデオロギーの類いではない。あくまで自分とその周りが幸せになるにはどうすればいいか、という単純な思いだけだ。
今回の提携相手は海外の、しかもまったく知られていない企業だという。どういう理念や企業体質を持っているかわかったものではない。社長の言葉を借りるなら、情報や技術を渡した後に、こちらが呑み込まれてしまうことだって充分あり得るはずだ。
考えれば考えるほど、どうすればいいのかわからなくなってしまった。社長が言うように自分の考えは古いのかもしれない。現代をうまく生き抜くためには、柔軟で多様で先鋭的な思考が必要なのだろう。しかし今回の取引はビジネスの成果を追求するあまり、何か大切なものを置き去りにしているような気がしてならないのだ。
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