【一】《2》

 そういえば、あの野良犬はどこへ行ったのだろう。姿が見えないということは、辺りの茂みにでも潜り込んだのかもしれない。しばらく境内を探してみたが、野良犬の姿はどこにもなかった。

 あの犬とは縁がなかったのだろう。そう自分に言い聞かせ、石段を下ろうとしたときだった。境内を囲む低木の茂みが音を立てたかと思うと、その根元から一匹の白い子犬が現れた。生後間もないらしく目は開いているが、足取りは何となく覚束ない。細くて短い体毛は生え揃っておらず、身体に添ってしっとりと寝たままだ。

 足を止めて子犬の傍に屈み込んだ。子犬は念入りに地面の匂いを嗅ぎ回り、静生の足元でふっと顔を上げた。目が合った途端、静生の口元がだらしなく緩む。この胸のときめきは、赤ん坊だった息子をあの手この手であやしていたとき以来だ。五歳になった今ももちろん可愛いが、赤子の愛らしさは種族を問わず格別だ。

 思いも寄らない幸せに浸っていると、さらなる至福が畳みかけてきた。先ほど白い子犬が姿を現した茂みから、一匹、また一匹と子犬が連なって這い出て来たのだ。全部で五匹、白い子犬の兄弟なのだろう。薄茶、白黒、真っ黒など毛色は様々だったが、最初に現れた白い子犬と体格や顔つきが似ており、互いに気安くじゃれ合っている様子からもそのことが窺えた。最も人懐こい、最初に出くわした白い子犬をひょいと抱き上げてみる。子犬は別段嫌がることもなく、きょとんとした顔をしてされるがままになっている。ああ、このまま力一杯抱き締めてしまいたい。

 再び茂みが音を立てた。さらに兄弟がいたかとにこやかに振り返ってみると、ひどく薄汚れた茶色の成犬が殺気立った目をこちらに向けている。その痛々しく痩せた姿には見覚えがあった。ごみ集積所から跡を追って来た、あの野良犬に間違いない。

 異変に気づき、慌てて子犬を下ろした。ごみを漁っていた野良犬は、この子犬たちの母親に違いない。母犬はまるで鋭いナイフをちらつかせるかのように牙を剝き出すと、喉を荒々しく唸らせて静生を威嚇した。

「な、何もしてないって。ほら見て、君の子たちはみんな元気だろう?」

 話が通じないことくらいわかっていた。緊迫した空気をよそに、白い子犬は無邪気にその場で飛び跳ねたかと思うと、屈んでいる静生の膝に前足をかけてきた。そうして短い尻尾を忙しなく振りながら、二本足で背伸びをして執拗に静生の顔を覗き込んでくる。もしかすると、さっきの抱っこを催促しているのかもしれない。

 その様子を見た母犬は立て続けに咆哮を轟かせた。鋭い殺気が両耳をつんざく。静生のことを、我が子をたぶらかす犬さらいだと誤解しているようだ。犬相手に弁解の余地などあるはずもない。後ずさりで慎重に逃亡を試みる。しかし一歩下がった矢先、運悪くバランスを崩して盛大に尻餅をついてしまった。我ながら自分の鈍臭さを呪わずにはいられない。

「ご、ごめん。すぐ出て行くから」

 母犬は立ち上がろうとあがく静生に勢いよく飛びかかった。母犬のぎらつく眼が鼻先に迫る。無我夢中で母犬を押し退け、何とか立ち上がった。そのまま駆け出したはいいが、荒々しい息遣いがすぐ後ろに追っている。追いつかれたら最後、足や尻を思い切り嚙まれてしまうに違いない。痛いのは絶対に嫌だ。

 突然、身体がぐらりと傾いた。さっきまであった地面がない。どうやら石段を踏み外し、勢い余って宙へ放り出されてしまったようだ。こうなればもう抗う術はない。たちまち地面が眼前に迫ってきて、目の前が真っ暗になったところまでは覚えている。

 そして今、静生は会社で自分の席に座っている。あれほど高い石段から転げ落ちたというのに、傷はおろか痛みすら残っていない。しかも朝から着ているスーツには、綻びも汚れも一切見当たらなかった。

 おかしな点はそれだけではない。自分がどうやって出社したのか、まったく思い出せないのだ。今朝、神社に行ったことは覚えている。子犬たちと怖い母犬の記憶も鮮明だ。しかしなぜか、その後の記憶がまったくない。石段から派手に転落して気を失い、気がついたらすでにこの席に座っていた。

 頭を打って一時的に意識が曖昧になっていたとしよう。しかしよりにもよって他のどこでもなく、ここに座っているとは呆れたものだ。そこらを徘徊したり、痛みに耐えられず病院に駆け込んだり、取りあえず落ち着くために自宅に戻ったり。無意識の行動なんていくらでも考えられる。ところが蓋を開けてみると、いつもの電車に乗って出勤し、ちゃっかりタイムカードまで押して万全の体勢で机に向かっているとは……。

「またぼーっとしていますね。昨日のこともありますし、気分でも悪いんですか?」

「あ、いや、何でもない。ほんとに」

 裕一郎に肩を叩かれて、ようやく我に返った。今朝のことを考えていたら、またぼんやりとしてしまったようだ。無意識の出社問題は依然として謎のままだが、出社した以上、いつまでも油を売っているわけにもいかない。気を取り直して業務に取り掛かろうと立ち上がると、裕一郎がやれやれとでも言わんばかりに溜め息を漏らした。

 どうやら彼を心配させてしまったようだ。曲がりなりにも静生は、重要な社内プロジェクトを仕切るプロジェクトリーダーだ。裕一郎にしてみれば、朝っぱらから挙動不審な上司の姿なんて見たくないだろう。

「えっと、それで、何か用?」

「今すぐ社長室に来い、だそうです。会社で呼び出しなんて珍しいですね。静さん、なんかやったんですか?」

「僕が何かしでかすほど大胆な人間に見える?」

 裕一郎の表情を盗み見ると、目に同情の色が浮かんでいる。あの気難しい社長のことなので、たとえ勘違いだとしてもただでは済まないだろうと心配してくれているようだ。

「そういえばさ……」

 ふと先ほどの言葉が気になって、踏み出そうとした足が止まった。

「裕がさっき言った〝昨日のこともありますし〟って何? 昨日、変わったことなんてあったっけ」

「はいはい、そんなことは後回しです。まずは社長室に行ってください。あの社長をあんまり待たせると、ドアを開けた途端にクビだって怒鳴られかねませんよ」

 そう言って戯ける裕一郎を見て、胸のつかえが下りた。後回しで構わないということは大したことではないのだろう。

 静生は自分より五つ歳下の有能なサブリーダーを、心から頼りにしている。裕一郎は明らかに静生より賢く快活で、人望も厚く、しかも羨ましい気持ちさえ起きないほど眉目秀麗びもくしゅうれいだ。人は、自分とは絶望的にかけ離れている輝きには嫉妬を感じない。そのくらい裕一郎は、他の社員たちと比べてもひときわ眩しく輝いていた。

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