僕は神話を興す者〜未来神話須佐之男
塚本正巳
【一】《1》
ストレスとは何か。一般的には、外部刺激を受けたことによる緊張状態と理解されている。その際、体内にはストレスホルモンと呼ばれる物質が過剰に分泌され、人体に様々な悪影響を及ぼす。例えばアドレナリンやコルチゾールといった副腎皮質ホルモンがそうだ。
ただこれらは決して毒物ではなく、生命を維持する上で欠かせない物質だ。問題はストレスによる過剰分泌。ホルモンの過剰分泌は、外部刺激に対する自己防衛の反応と言われている。しかし、この分野はまだまだ解明されていない事象が多い。今後さらに研究が進めば未知のストレス物質や、より詳しいストレスの仕組みが解明されていくだろう。
僕は今、そこへ風穴を開けようとしている。文明の発展に伴って激しさを増していく人類とストレスの攻防。世界中の人々は早ければ今年中にも、その戦いの終焉を目の当たりにすることになる。そうなれば、この僕を長年苦しめてきた数々のストレスとも金輪際お別れだ。ストレスを完全に克服したとき、世界は僕の目にどのように映るだろう。それはきっと今のようなくすんだ世界ではなく、活力に満ちた色鮮やかな楽園に違いない。
だとすると、神様はなぜ僕たちにストレスという制御不能の厄介者を押しつけたのか。体内から宿主を蝕む寄生虫だって、宿主を殺したりはしない。宿主の死は自身の死を意味するからだ。にもかかわらず、ストレスは例外なく心身を蝕み、ついには精神を錯乱させ、ひどいときには自身を死の淵に追い込む。
ストレスを授かったことで幸福になった者など、この世に存在するのだろうか。もし一人でもいるなら、速やかに名乗り出てほしい。そうでないと僕は本当に、ストレスを完全に駆逐する最初の引き金を引いてしまうことになるのだから──。
「
はっとして辺りを見回すと、同じ部署の後輩であり、優秀な部下でもある秦
「へ……、呼び出し?」
机に向かったまま放心していた
「さっきかかってきた内線、ちゃんと伝えましたよね。今すぐ社長室に来るようにって。十五分も前に」
「そんなことあったっけ。参ったな」
今日は朝から何となく変だ。頭は多少ぼんやりしているものの、身体は軽く、いつものように重く
この嬉しい変調と関係があるかどうかはわからないが、確かに今朝はちょっと変わったことがあった。ただ、その事件が体調に影響を及ぼしているとはとても思えないのだが。
今朝、自宅の玄関を出た静生は、駅に向かういつもの道を左ではなく右に曲がった。近所のごみ集積所に向かうためだ。燃えるごみのポリ袋を集積所に置き、凝った肩を押さえて深々と溜め息をつく。燃えるごみの日のごみ袋は水分の多い生ごみが入っているのでなかなか重い。
そのとき、視界の端に動くものを見つけた。すぐに目を遣ったが、正体不明の動く物体はぎっしり積まれたごみ袋の裏に素早く消えてしまった。何となく気になり、近づいてごみ山の裏を覗き込んでみる。そこには茶色い毛むくじゃらの獣が、鋭い目をぎらりと光らせて待ち構えていた。思わず飛び退くと、毛むくじゃらは一目散にごみの山から飛び出して、あっという間に駆け去ってしまった。
今どき野良犬とは珍しい。どうやら集積所でごみを漁っていたようだ。最近は見つかるとすぐに通報、保健所行きとなってしまうので、彼らにとってはさぞ生き辛い世の中だろう。衛生面や子供の安全などを考えると仕方がないのかもしれないが、生きるためにごみを漁る切実な姿を見てしまうと同情しないわけにもいかない。
気がつくと、足が勝手に野良犬の跡を追っていた。取りあえず
今思えば、あのとき野良犬を追わなければよかったのだ。しかしそれは無理というものだった。今朝は連日の残業のせいで疲れがひどく溜まっていた上、家を早く出たのも仕事の遅れを取り戻すため。心の奥に押し込めていた現実逃避の誘惑が、出社を遅らせる口実を虎視眈々と探していたに違いないのだから。
野良犬を追ってしばらく行くと、水田が広がる町外れに出た。水田には若い稲が一面に生い茂っており、朝日を浴びて瑞々しい緑を輝かせている。稲の海原はそよ風が吹くたびに柔らかな波を描き、心地好い葉擦れのさざめきを奏で、その響きが通り抜けた空気は清らかに
慌ただしい日常に翻弄され続けているとはいえ、これほど穏やかな別世界が目と鼻の先にあったとは今まで気がつかなかった。そういえば最近は息子の遊び相手にもなってやれず、妻に優しい言葉をかけた覚えもない。起きている時間のほとんどは仕事に費やされ、家には仮眠をとるために帰っているようなものだ。
そんな生活が二年ほど続いているせいか、身体はもとより心も相当参っていた。もともとストレスを溜めやすい性格だが、現在の困憊はこれまで経験したストレスの比ではない。頭痛や吐き気、不眠、抜け毛、口臭、腹痛くらいではもう慌てることもなく、むしろ何かに追い立てられていなければ不安になってしまうといった有様だ。
静生は普段、製薬会社の開発部で新薬の研究に打ち込んでいる。そして皮肉なことに、現在開発しているのは精神の疲れを癒す抗ストレス薬だ。幸い研究は最終段階に入っているが、ストレスに打ち克つためにストレスで身を滅ぼそうとしている現状は考えれば考えるほど笑えない冗談のようだった。
静生が任された画期的新薬の開発プロジェクトは困難を極めた。普通の研究員ならとっくに頓挫していただろう。だが静生は諦めなかった。社長直々の命で研究開発リーダーに抜擢されただけに、どうしても期待を裏切りたくなかったのだ。
それに彼もまた、若い頃からストレスに悩まされ続けてきた人間の一人だ。自分の研究によって、同じように苦しんでいる多くの人たちを救うことができるかもしれない。そのことを思い出すと、どれほど辛い日々が続こうとも途中で投げ出す気にはなれなかった。
清らかな水田を左手に望みながら、なおも野良犬の跡を追って田舎道を進む。右手は鬱蒼とした森になり、そこから漏れ聞こえる小鳥のさえずりが連日の激務ですっかり荒んでしまった心に沁み渡る。長い間忘れていた、ありふれた朝の爽やかさ──。
すっかり朝の散歩を満喫していたときだった。これまで淡々と小走りを続けてきた野良犬が、突然姿を消した。消えた辺りに駆け寄ってみると、右手の森の奥に向かって一本の脇道が伸びている。その薄暗い道は、森の中に続く石段の登り口だ。よく見ると石段の手前には、朽ちかけた木製の鳥居が立っている。どうやら石段を登った先には神社があるらしい。
百段ほどある石段は、人がやっと擦れ違えるほどの幅しかなく、しかも古びていてあちこちの段が欠けており、踏めば滑りそうな分厚い苔が所々に生えていた。辺りは鬱蒼とした森なので、陽が高く昇っても現在の陰気な雰囲気に変わりはなさそうだ。
野良犬はきっと、この石段を登って行ったに違いない。最初の段に足をかけた矢先、横風がひやりと頰を撫でた。嫌な予感がして後ろを振り返る。しかしそこにあるのは、閑静な田園風景と車通りのない田舎道。人の気配を感じたのは、どうやら気のせいだったようだ。薄暗く湿っぽい木陰の不気味さが、在りもしない不安を感じさせたということだろうか。
気を取り直してゆっくりと石段を登っていく。階段は運動不足の天敵だ。すぐにじっとりと汗が滲み始め、息も絶え絶えになっていく。ふと会社での仕事風景が思い出され、たちまち全身が
ようやく辿り着いた頂上は、細い無数の木漏れ日がゆらゆらと差し込む神社の境内だった。奥に本殿と
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