【二】《15》
この辺りはオフィスや学校が多く、先ほどまでいた駅前にあったような盛り場はほとんどない。広々としたタイル張りの広場は、人通りもなくひっそりと静まり返っている。落下中ぶつかりそうになったビルを横目に鬱蒼とした街路樹の歩道を抜けると、その先は車通りが多い大通りだ。
『いけません。ビルに戻って』
アマテラスに言われた通り
すかさず歩速を上げると、静生に気づいた黒ずくめは軽やかに身を翻して闇に紛れた。忍び足で駆け寄ったつもりだったが、変身した静生の足は硬質の金属装甲で覆われている。どれだけ慎重に走っても、足元が軽快なリズムを刻んでしまうのだ。
『くそっ! どうして足の裏をゴムにしてくれなかったんだよ』
『気づかれたのはあなたの行動が軽率だからです。せっかく望み通りに作ってあげたんですから、嫌ならその上からスニーカーでも履きなさい』
不毛な口論をしながらも必死に黒い影を追う。こんな口喧嘩ごときで爆弾魔を逃がしてしまっては目も当てられない。
黒ずくめはマンションや雑居ビルが林立する細い路地を、人並み外れた素早さですり抜けていく。だが静生も負けてはいない。普段はひどい運動オンチだが、変身中の今は体力が桁違いに増強されている。ひどく不恰好な走り方にもかかわらず、黒ずくめとの差はどんどん縮まっていく。もう一息でひらめく黒衣に手が届きそうだ。
このままでは追いつかれると思ったのだろう。路地を飛び出した黒ずくめは、中央分離帯を擁する片側三車線の大通りに出ると、迷いなくガードレールを跨いで車道に踏み込んだ。夜更けとはいえ、大きな国道だけに車の流れが途切れることはない。しかも昼間と比べると、どの車もスピードを出しがちだ。いきなり車道に出たりすれば、車との衝突はまず避けられない。
にわかには信じられなかった。気がつくと黒ずくめは大通りを越えた先、追って来た静生を置き去りにして反対車線側の歩道に立っていた。顔を覆う黒布の隙間から、不敵にぎらつく眼差しが透き見える。数秒前に繰り広げられた信じがたい光景が、再び脳内に蘇った。車道に飛び出した黒ずくめは激しいクラクションを合図に宙へ舞い上がり、行き交う車の流れを悠々と飛び越えてしまったのだ。
『ぼーっとしてないで、早く追いなさい!』
アマテラスの一喝で我に返ったが、その正気も黒ずくめの更なる奇行によりすぐに破られた。黒ずくめはこちらに背を向けると、身を屈めて再度飛び上がる体勢に入った。黒ずくめが向いている方向は、歩道沿いに設置された高さ二メートルほどの石垣。その向こうは皇室御用地の林になっていて、高さが四、五メートルもある木々がびっしりと生い茂っている。黒ずくめは車道のときのように颯爽と飛び上がると、林の上を難なく越えて御用地の中へ消えていった。
『厄介なところに逃げ込まれました。あの中は明かりがほとんどない上、鬱蒼とした林が広がっています。追うのは骨ですよ』
急かされていることはわかっていたが、驚愕の余韻が全身に絡みついてすぐには身体が動かない。
『──ねえアマテラス。あいつ、一体何者なの?』
間違いなく聞こえているはずだが、彼女はだんまりを決め込んでいる。
『幅が二十メートル以上ある大通りを軽々と飛び越えて、しかも林まで……。とても人間業とは思えない』
『今のあなただって、きっとそう見えますよ』
確かにそうだろうが、先ほどの超人的な跳躍を受け入れることとは話が別だ。自分以外にも、常識はずれの能力を持った者がいる。自分の力さえ今も夢のように感じているというのに。
『話は後です。今は不審者の追跡に集中しなさい』
訊きたいことは山ほどあったが、だからといって黒ずくめを放っておくわけにもいかない。人目につかない物陰に忍び込み、誰も見ていないことを確認して一気に上空へ飛び上がった。
黒ずくめが消えた林に直接降り立つと、そこは大都会の一角とは思えない、自然の香りが濃厚に立ち込める別世界だった。真っ暗で視覚がほとんど役に立たないため、必然的に聴覚が研ぎ澄まされていく。息を殺して気配を探っていると、慌ただしく遠ざかっていく遠くの駆け足を察知した。こんな場所で聞く足音といえば、先ほどの黒ずくめ以外に考えられない。忍び足でないということは、まさか静生がここまで追って来るとは思っていなかったのだろう。
木々の間を縫って逃げる足音を懸命に追いかける。しばらく追うと視界が開け、辺りは芝生の広場へと一変した。御用地の中心付近に到達したらしい。月明かりが周囲を柔らかく照らし出す。芝生の先に無数の光が浮かんでいるのは、大きな池がビル群の灯りを反射しているせいだ。
ぴんと張り詰めた空気の中、黒い一点だけが窓に張りつく小蠅のように動いている。すかさず地面を蹴って、百メートルほど先を行く黒ずくめに勢いよく飛びかかった。たちまち差は縮まり、静生の右足が黒衣の背中を蹴り飛ばす。予想外の重たい蹴り心地。強烈な不意打ちを食った黒ずくめは俯せに倒れ込んだまま、芝生の地面を激しく滑っていった。
黒衣の懐から何かがこぼれて黒ずくめの傍に転がった。朧げな月明かりの下でも、それが何なのかはすぐにわかった。忘れたくても忘れられるわけがない。黒ずくめが持っていたのは、駅で見たものとまったく同じカーキ色のナイロンバッグだった。
『あのバッグを取り上げて!』
アマテラスが叫ぶや否や、黒ずくめは起きざまに勢いよく肩をぶつけてきた。静生の胸の金属装甲が甲高く鳴り、後方へ十メートルほど突き飛ばされる。装甲の重量を考えると、これほど激しく突き飛ばすのにどれほどの力が必要だろう。先ほど大通りで見せた大跳躍といい、もはや黒ずくめは人間とは思えない。しかも体当たりの瞬間に鳴り響いた、金属同士がぶつかり合うような衝突音──。
『ね、ねえアマテラス』
『何ですか』
『もしかしてあいつ、人間じゃないの?』
『さあ、ご自分で確かめられたらどうです』
『自分でって、どうやって……』
もちろん答えは返ってこない。次の行動を決めきれずにいると、先ほどまで逃げに徹していた黒ずくめが体勢を立て直して襲いかかってきた。静生のしつこい追跡を見て、逃げ続けても埒が明かないと判断したのだろう。
こちらから先制の飛び蹴りを食らわせた手前、話し合いを持ちかける雰囲気でもない。できれば争いたくはなかったが、こうなれば応戦するしかないようだ。
迫る影の突進をかわそうと、必死に横へ飛び退く。しかし外見は洗練されたメタルヒーローだが、中身は鈍臭い静生のままだ。回避がワンテンポ遅れてしまい、その場に残っていた片足が黒ずくめの突進と激しくかち合った。またしても派手な金属音が鳴り響く。
片足を払われる形になった静生は、バランスを崩してあえなく倒れ込んだ。頭上に気配を感じて天を見上げると、目の前は夜空よりずっと暗い闇。遂に絶望の深淵に呑まれたか。いや、これは闇ではない。黒ずくめがまとっていた黒衣が悠然と宙を舞っている。すれ違い様に足が引っかかったことで、黒衣は派手に裂けてしまったらしい。
黒衣が地面に落ちた瞬間、静生はさらなる衝撃を目の当たりにした。視線の先に現れた黒ずくめの正体。それは、重厚な金属装甲を身につけたもう一人のメタルヒーローだった。
「ま、まさか本物のアクセリオン──」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます