2,結衣編

「憂鬱だな。」

小田島結衣は、そんな事を呟いていた。

とにかく何をやっても憂鬱なのだ。勉強したって、家の手伝いをしたって、憂鬱である。気分が沈み込んで晴れるということがない。これは多分、医学的に言ったら、うつ病とか、そういうものと考えられるのかもしれないが、原因はちゃんとわかっている。

昔は壁に貼ってあったカレンダーを見て、気合を入れていたものであった。司法試験まであと何日とか、本気で考えていたこともあった。でも合格してもなんだろうと今は思う。レベルの高い大学へ行って、司法試験にも合格して、弁護士事務所に就職できるはずだったのに。なんということだろうね。面接試験の終了後、こんな電話がかかってきて。

「あなたの努力は本当によくわかりました。ですが、残念ながら当事務所の方針には合いませんので、、、。」

何でかと聞いてみると、容姿端麗では無いからということであった。

それを聞かされたときは、もう自殺しようと思うくらい落ち込んだ。弱い人の味方である法律事務所のはずなのに、容姿で差別するとは信じられない。そんな事を言われて、結衣はすべて物事に、自身がなくなってしまったような気がした。

そんなわけで結衣は、東京で一人暮らしを辞めて、梅ケ島の実家へ戻ってきたのである。法律関係の仕事をしたいと言っても、やる気はまるで出ず、頑張ろうと言う気にもなれなかった。仕方なく、母が一人で切り盛りしている小田島旅館の手伝いということで、実家にいさせてもらっているのであるが、他の従業員や仲居さんもおり、ほとんど彼女のすることはなかった。なので結衣は1日中寝て過ごすようになり。余計に彼女の容姿は醜くなっていった。小田島旅館に来る客も、一日一組程度だし、みんな他の人達が手伝うから、自分なんて必要ない。もう死んでも良いのかもしれない。結衣はそう感じていた。

その日、いつもどおりに、母と朝食を食べていた結衣であったが、母がいきなりこんな事を言いだした。

「今日は新しいお客様が見えるから、結衣も手伝ってね。ふたりとも男性だけど、事情がある人たちみたいなの。一人は足の不自由なところのある方だから、よろしくね。」

普通なら嫌だというと思うが、何故かその日はわかったと結衣は言ってしまったのだった。もう近所の人たちにお母さんにいつまでも苦労させるなとか、良い大学を出たのにもったいないとか、そういう事を言われてばかりだし、そんな事をするのなら自殺したいと考えてしまうのが常であるが、この日結衣は、母の手伝いをすると言ってしまったのである。

「じゃあ、お母さんの手伝いをするということだから、あんたは若女将ということになるのよ。ちゃんと着物を着て、しっかり着付けてね。」

母から訪問着を渡される。着物は、多少着る人のサイズが違っても切られてしまうものだ。結衣も、母の見様見真似で着物を着付け、母に続いた。茉莉子さんと一緒に結衣はその二人が泊まっている部屋に挨拶に行った。まず、ふすまを二回叩くと、

「何だなにかようでもあるんか?」

と、ヤクザの親分みたいな喋り方で声がしたので、結衣はびっくりする。でも、母は、何も怯むことなく、ふすまを開けて、

「影山様と、磯野様ですね。私どもは、女将の小田島茉莉子と、こちら若女将の結衣でございます。まだ半人前ですけど、よろしくお願いします。」

と、丁寧な挨拶をして二人に座礼した。なぜか知らないけど、この時間ではまだ早すぎるのではないかと思われるのに、部屋には布団が敷いてあった。そして、その上に、なんとも言えない美しい男性が座っていた。これには結衣もびっくりだけど、容姿で差別を受けたことのある彼女は、ちょっと、彼に対して敵意を感じてしまった。母が、結衣に挨拶をしなさいといった。結衣は、ちょっと口ごもりながら、

「あ、あの、若女将の、小田島結衣です。」

とだけ挨拶をしておく。

「こちらこそよろしくお願いします。磯野水穂です。」

と、美しい男性は言った。それ以上言わなかった。結衣は思わず驚いてしまう。何でと思ってしまった。普通の客であれば、結衣によく太ってますねとか、お母さんの二倍くらいありますねとか、そういうからかい文句を言うはずだ。お母さんの手伝いをすればそういう文句が出てくるのに、この男性は、そのような事を全く言わないで、自己紹介だけしたのだ。

世の中にはこういう人もいるものか。美しい人となるとだいたい私のことはデブとか、太り過ぎとか言ってばかにするはずなのに?結衣はちょっと意外そうに彼を見た。

「お前さん、水穂さんの顔を見て、何をやってるんだ?」

不意に隣に座っていた、ヤクザの親分みたいな喋り方で、杉ちゃんが言った。

「ああ、ゴメンなさい。ちょっとボケっと。」

結衣は思わず言う。

「そういたしましたら、今夜は、山の幸を召し上がっていただきます。山菜とキノコ鍋と、猪鍋がございますがどちらにいたしましょう?」

茉莉子さんがそう聞いた。

「じゃあ、山菜とキノコ鍋にしてください。肉は、水穂さんどうしても食べれないので。」

と、杉ちゃんが答えた。肉を食べない、と聞いて結衣は驚いてしまった。男性であれば肉が大好きな人が多いのに、この人は食べれないとはちょっと意外だった。

「わかりました、では、18時に用意させますので、お二方とも食堂へ来てください。」

茉莉子さんがそう言うと、

「了解いたしました。」

と、水穂さんは静かに言った。その喋り方も実に静かだ。体育会系の教師や、弁護士事務所の威張っている人たちとは、ぜんぜん違う。結衣は、そんな静かな男がいるのかと思ってしまうくらいだ。

「夕飯のときにまたお呼びしますから、ゆっくりくつろいでくださいませ。」

と、茉莉子さんは言って、二人は部屋を出た。結衣は、なんだか名残惜しいというか、その美しい男性と、もっと長く居たいと思ってしまったが、それはできなかった。

そして、数時間経って、夕食の時間がやってきた。小田島旅館では部屋ではなく食堂で食事をすることになっている。個室にはなっておらず、広間の中で食べるのだ。18時になると、杉ちゃんたちはちゃんと食堂にやってきた。結衣は、本当に山菜鍋で大丈夫なのかと思ってしまったが、杉ちゃんと水穂さんは、ちゃんと椅子に座った。結衣は、母の命を受けて、杉ちゃんたちの鍋にチャッカマンで火をつけた。鍋が煮上がるまで、客の相手をしなければならないのだが、とりあえず二人に対して、

「今日はどちらからお見えになりました?」

それだけ聞いてみる。

「僕らは富士市から来た。」

と、杉ちゃんは答えた。

「あら、意外に近いところからお見えなんですね。お二人は観光ですか?まあこのあたりは何も無いけど、、、?」

結衣は思わずそう言ってしまう。

「いやあ、観光というわけではないんだけどねえ。僕らは、ちょっと理由があって、療養させてもらおうと思ってこさせてもらっただけで。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「なにか事情があるんですね。この時期、イノシシ鍋を指定してくる方はよくいるんですけどね、山菜鍋を指定する方は少ないですよ。」

結衣がそう言うと、

「ごめんなさい。僕が事情があって肉は食べれないんです。」

と、水穂さんが言った。

「そうなんですか。人に言えない事情があるんですね。なんかそういう事情がある方を初めて見ました。なんか、すごい綺麗な方だから、日本以外の国家から来られたのかな、なんて思っちゃった。」

結衣は、にこやかに言った。

「なんか教育関係者が、人並みの幸せが得られないでつらい思いをしている人はいっぱいいるって、よく言ってましたけど、吹聴しているのではないかしか見えなくて、当時は何も気にしないでそのまま聞き流してしまっていましたが、本当にそういう人が現れるとは。」

「はあ、まあ、今の教育というか、そういうことは経験をしなければわかりませんよね。それは、仕方ないことなんじゃないですか。」

水穂さんはそう結衣に言った。

「ああ、もう沸騰しているから、食べちゃおうぜ。おしゃべりしていたら、みんな焦げちまうぞ。」

杉ちゃんが鍋を見ながら言った。

「ああごめんなさい。じゃあ、ゆっくり召し上がってらして。後で、ご飯を持ってきて差し上げますから。」

結衣はそう言って、杉ちゃんたちの前を去った。杉ちゃんたちは、熱くなった野菜やきのこを、食べ始めた。杉ちゃんの方は大食漢のようで、ガツガツと食べているのであるが、水穂さんは少ししか食べなかった。そればかりか、食べ物を口にいれると、咳き込んでしまうようである。

「ほら、せっかくここに来て、食べさせてもらってるんだから、ちゃんと食べて、恩返しするんだぞ。」

と、杉ちゃんがそう言っていた。水穂さんはそうだねと言いながらも、咳き込んでしまうのだった。

「ほら、結衣。あの二人に、ご飯を食べさせて。」

と、茉莉子さんが、結衣に言った。板長さんに、ご飯の入ったお櫃を渡されて、結衣は、すぐにもう一回食堂に出た。

「はい。ご飯を用意いたしました。それでは、どうぞ。」

結衣は、御膳の上においてあった茶碗に、白いご飯を盛り付けようと思ったが、水穂さんが、何も食べてないのを見て、

「あら、それなら、雑炊のほうが良かったじゃないかしら。ちょっとまってくださいねえ。すぐに用意して差し上げますから。」

と言って、鍋の中にご飯を全部入れた。

「なんか、飯盛女みたいだな。」

杉ちゃんが呟くと、

「まあ、私そんなに色っぽく見えたんですか?」

結衣はすぐに言った。

「いやあ、色っぽいと言うか、そういうことではなく、サービス精神が旺盛なんだなと思ってさ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「さあどうぞ。雑炊ができましたよ。ゆっくり食べてください。美味しいですよ。それでは、どうぞ。」

結衣は、杉ちゃんと水穂さんの前に、雑炊の茶碗を置いた。杉ちゃんも水穂さんも器を持って、

「いただきます。」

と言って、雑炊を口にした。水穂さんはせまた咳き込んでしまう。

「せっかく梅ヶ島温泉へ来たんだから、今までのこと忘れて、食べることに集中すると良いよ。」

杉ちゃんはそういうのであるが、水穂さんは、咳き込んだままだった。

「そんな、ご飯も食べられないほど、辛い思いをしている人なんて私、初めてみました。」

結衣は驚いてそう言ってしまう。

「まあ、みんなご飯なんて当たり前に食べているものだけど、こうして食べれないやつもいるんだよな。なあ水穂さんよ、ここへ来たんだから、もうさ、誰もお前さんの事を、変な身分だとか、銘仙の着物着てるとかいってばかにするやつはおらんよ。だから、思い切って、自分を生かすために、何ができるか考えよ。」

杉ちゃんが一生懸命そう言っているのを見て、結衣は、水穂さんが抱えている事情というものが結構深刻なんだと言うことを知った。

「事情って、なにか嫌なことがあったんですか?学校で、体格のこととか、いじめられたとか?それとも、家庭内で問題があったとか?いずれにしても、この梅ヶ島温泉は、そういう事情を持った方がいっぱい来るんだって、母が言ってました。私は、人間は平等だと思ってます。だから、こういうところに来て、静養されたり、気持ちを楽にされたりしてもいいと思います。だから、ここでは、気兼ねなく、羽を伸ばしてください。」

「まあそうだねえ。」

杉ちゃんは、ちょっとため息をついた。

「最近の若いやつは、学校で同和問題について習わないんだね。もう解決済みと考えているんかな。それとも、もう学校の先生がいらないとでも思ってるのだろうか。それは言わせないよ。だって水穂さんは、そういうところから来たんだから。」

同和問題。確か大学で習ったことがあったことはあったが、それが何であったかは結衣も思い出せなかった。本当に学校で習ったことなんて、すぐに忘れてしまうもので、それを実社会で活かせる職業なんてあるんだろうかと思ってしまうほどだ。

「ごめんなさい、私も、勉強したはずなのに、思い出せないわ。」

結衣は思わず言った。

「そういうことなら、思い出さなくて大丈夫ですよ。それは、思い出せないほうが帰って幸せなのかもしれない。知らないほうが幸せであるってことは、きっといくらでもあると思います。足を踏み入れないほうが良い。特に若い女性であるあなたには。」

水穂さんが、口元を、布巾で拭きながらそういった。その一部が赤く染まっているのを見た結衣は更に驚いてしまったが、一生懸命我慢して、同和問題を思い出そうと頭を捻っていた。

「そういうことなら、お前さんは、真剣に考えようとしている頭のある女だな。ただの興味本位でどうのというやつじゃないらしいね。」

杉ちゃんが、結衣の顔を見てそういう。

「そんなこと言って。私は、いつもこういう顔してますよ。それでは、行けないんですか?それに私だってこれでも法律とか勉強してきたから、少しは世の中のこと、わかってるつもりですよ。」

結衣はそういったのであるが、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「ははははは。ああお前さんは、そういう立場だったわけね。まあいくら人のために役に立ちたくてそういう高尚な学問学ばせてもらったってさ、こういう人の前ではなんの効力も無いってことを覚えておけ。本当に、救われたい奴らほど、そういう学問している人の前から遠ざかっていくもんだよな。学問で人を救えるなんて、そんな馬鹿なことは考えないほうが良い。本当に人の役に立ちたかったら、自分のことは全部犠牲にする覚悟を持って臨んだほうが良いよ。それができないなら、すぐやめろ。」

「そうですか、、、。」

結衣は、杉ちゃんに言われてそう言ってしまう。

「そうそう。だって、いろんな偉い人がいるけど、偉いことをした人って、ほとんど弱い立場の人とは接しないでしょ。日常的なことは全部誰かにやってもらって、それで自分の研究に没頭していられるから、えらくなれるってわけよ。一般的なやつは、食事も、洗濯もなんでも自分でしなくちゃいかん。つまりだな、生活していくだけで精一杯なんだ。そんなやつに、ノーベル賞取った偉いやつと、話ができるか。水穂さんだってそうだったわけよ。だから、病気になるわけでしょ。そういうわけだから、人間、やっぱり身分を考えて行動しなくちゃだめだよね。」

「そうか。私も、そうだったと思えば良いのかな。」

結衣は、杉ちゃんにそう言ってしまった。

「あたしも、こんな旅館の一人娘に過ぎないのに、偉い人の学問、つまり法律を勉強しようなんて思っちゃったから、幸せになれないのかな。」

「そうですか。ご自身の事を不幸だと思ってらっしゃるんですか。」

水穂さんが優しく言った。

「でもご心配なさらないで。あなたは少なくとも、自分の足で立てるわけですし、やりたいことがあればそこへ動けるでしょう。それなら、大丈夫です。それができないのに、やろうとしてしまったら、大惨事になるけれど。」

「そうなんですか?」

結衣は、思わず言ってしまう。

「ええ、少なくとも、それができない身分では無いのでしょう?」

水穂さんが結衣に聞いた。

「ちょっと待って。あなた、身分と言ってますが、身分制度は疾うの昔に撤退したはずですけどね。もうそれで差別されないって、国のいちばん大事な法である、憲法でも保証されてるはずだって。」

結衣は、やっとそこだけ思い出してそう言うと、

「いえ、そんなことありません。まだまだ、水穂さんみたいな人を馬鹿にする風潮は残ってる。水穂さんは、病院に行けなくてここへ来た。病院に行っても、家の病院に、連れてくるなって追い出されるのが落ちだ。銘仙の着物着てればそうなっちまうの。そういう歴史的な身分ってあったんだよね。ほら、牛や豚の皮を処理したり、下水の工事をしたりしてた。」

と、杉ちゃんに言われて、やっと全容が頭の中から出た。そうか、そういう人が集まる地区を同和地区と言うんだっけ。それは大学の教授がどこかで言っていたような気がする。

「そうだったんですね。私は何もわかりませんでした。でも、もうそういう差別はなくなったと思っていたんです。」

結衣は正直に話した。

「いやあ、銘仙の着物を着ていると、まだまだ嫌がられることはよくある。それに、そういう身分の人は助けてもらいたくても、相手が同じような差別を受けると辛いから、助けを求めることもできないんだよな。」

杉ちゃんに言われて、結衣はなんだか後頭部を殴られたような衝撃を受けてしまった。

「そうなんですか。今の法律が何でも解決してくれるようなわけでは無いんですね。」

「何をいうとるんじゃ。そんなもん絵に描いた餅で、そういう援助を本当に受けたい人は、今頃どっかで泣き寝入りするしか無いんだ。だけど、ここにいる水穂さんは、僕らにとっては大事な人だから、それでここへこさせてもらったわけなんだよ。わかるかい?」

杉ちゃんに肩を叩かれ、結衣ははいと小さな声で言ったのであった。

「僕は、銘仙の着物しか着ることができないです。」

水穂さんが小さな声でそういった。結衣は、そうなんだと水穂さんが持っている事情を初めて理解した。そして、初めて、法律の勉強をしてきて、それが効力を発揮しない事例があるんだと言うことを知った。

「でもあたしは、水穂さんのような人を、なんとかしてあげたいと思います。だって水穂さんは、きれいな人だもん。決して銘仙の着物しか着られないということは無いと思いますよ。そうならないように、あたしまだ頑張りたいなと思います。」

「はあ、そうか。」

杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせた。

「そんなことしても、意味はないと思うけど。」

杉ちゃんがそう言うが、

「いいえ、あたしは、これでも、弱い人の味方になりたくて、勉強をしてたんです。でも本当に必要とする人はあったことがなかった。今、こうして会うことができたんですから、きっとなにか意味がありますよ。あたし、もう一回頑張ってみます。本当に今日はありがとうございました。」

結衣はそう言って、雑炊を、鍋から取って、水穂さんの器に入れ、

「さあどうぞ。」

今度はニッコリしながら言った。

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