1,武子編

やっと寒くなってきて、冬の到来だなと思わせる寒さの日であった。風邪も流行っているみたいだけど、それだってやっと正常に季節が動いてくれた証拠だと言って、喜んでいる人のほうが多いだろう。それにしても今年はおかしな年であった。本当に、いろんなところでその言葉が聞こえてくる年であった。

製鉄所では、いつもどおりに、ブッチャーこと須藤聰が、水穂さんに薬をあげたり、ご飯を食べさせるなどの世話をしていたのであるが。

「水穂さん大丈夫ですか。まあ、この時期ですからね。埃っぽいのはわかりますが、ちょっとねえ、ご飯くらいちゃんと食べてくださいよ。」

ブッチャーは、まだご飯が大量に入っている器を見てそういったのであった。

「食べたのはたくあん一切れじゃないですか。ご飯も、豆腐もなんにも食べてないでしょ。そんなに、俺が作った料理はまずいということですかね?」

水穂さんは咳き込みながら、急いで首を横にふるのであるが、

「じゃああれですか。俺よりも、杉ちゃんのほうが良いとでも言いたいのですか?」

ブッチャーは、今度ばかりは頭に来たと思って言ってしまった。水穂さんは、なおも咳をし続けながら、

「そんなこと、ありません。」

と言った。

「そういうことなら、ちゃんとご飯を残さず食べてくださいよ。俺達は、ただ遊び半分でお料理作っているわけじゃないんですよ。ちゃんと、栄養についても本を読んで考えたりしてるんですからね。それなのに、たくあん一切れしか食べないなんて、こんな裏切りは無いですよね。」

「ごめんなさい。」

ブッチャーがそう言うと、水穂さんは、咳をしながらそれだけ言った。

「ごめんなさいじゃないですよ。少しは、一生懸命作った人の事を考えてください。杉ちゃんの料理と比べて見れば、確かに劣るかもしれないですけど、俺だって、ちゃんと考えてやってるんですから。」

ブッチャーがそう言うと、

「何が劣るだって?」

車椅子の音がして、杉ちゃんが四畳半にやってきた。ブッチャーは、もう我慢ができなくなってしまったらしく、

「まあ確かにね、杉ちゃんは、いろんな料理のことも知ってますし、味付けだって、色々熟知しているのは認めますよ。だけどね。俺だって、ご飯を作るのは、いい加減にやってるわけじゃないんですよ。俺も、姉ちゃんに言い聞かせていますけれどね。やっぱり、病人がする恩返しは、介護者が作った食事を、一生懸命食べることじゃないかなあ。ほら、介護の仕事って、ホント、報酬が足りなすぎるというか、やり甲斐のない仕事として有名ですけどね、それに対して、唯一の報酬というのが、美味しいって言って、食べてくれることだと俺は思いますけどね。」

ブッチャーは、そうなみなみと語っていると、

「ほらまたやった!」

と、杉ちゃんの高い声がしたので、びっくりする。

「ブッチャータオルと薬持ってきて。」

杉ちゃんにそう言われて、ブッチャーは、またやるのかと大きなため息を付いた。枕元にはタオルが山のようにおいてあるが、こうなってしまったときに備えてそうしてあるのである。急いでブッチャーが杉ちゃんにタオルを渡すと、杉ちゃんが水穂さんの口元に、タオルを当てて、

「あーあ、またやったよ。」

と、大きなため息を付いた。タオルが赤く染まってしまったのを見て、ブッチャーも杉ちゃんも嫌な顔をする。

「水穂さん横になりますか。ほら、薬飲んで、安静にしてください。本当に、困ってしまいますから。」

ブッチャーが、薬の入った水のみを渡すと、水穂さんはそれを受け取って、中身を飲み込んで、倒れるように横になった。

「やれやれ。」

と、杉ちゃんが、水穂さんに毛布をかけてやると、

「寒くなりましたから、もう一枚布団追加しましょうか。」

とブッチャーが押し入れの中から、掛ふとんを一枚出してきた。水穂さんは少し咳をしながら、

「どうもすみません。」

と言った。

「どうもすみませんって、そういうことはできるんですか。ご飯はなんにも食べないのに、謝ることはできるんですね。それなら水穂さん、俺から少し提案があるんですけどね。ちょっとどっかの温泉でも行ってきたらどうです?もちろん、水穂さんが、温泉街みたいなうるさいところは嫌いなことは知ってます。そういうことなら、山奥の小さな温泉郷とか、そういうところに一週間くらいのんびりしてたらどうですか。」

ブッチャーは、頭にきてしまって、そう言ってしまった。

「それは僕も大賛成。温泉大好きだし、山奥の温泉は、みんな人が良いし。」

杉ちゃんがすぐ話に割って入る。

「そういうことですから、二人で温泉行ってきてください。そんなに遠いところは嫌だと言うんだったら、静岡県内でも、秘境温泉はいっぱいございます。」

ブッチャーはそう言って、スマートフォンを出して、

「えーと、静岡県の湯治場は、、、。」

と調べ始めた。

「わーい嬉しい。温泉は気持ちいいからね。」

杉ちゃんだけ一人ニコニコしている。

「ほら、ここに書いてありますよ。転地療養受け付けますって。えーと、ここは梅ヶ島温泉ですね。ああ静岡駅から、バスで一時間だそうです。タクシーで行けば大丈夫ですね。じゃあ、予約取りますから。ここでゆっくり過ごしてきてくださいね!」

「梅ヶ島温泉?」

水穂さんが聞くと、

「あの、静岡の北の方にある温泉だね。それにしても、一時間で行けるとは、知らなかった。よし、じゃあ、僕と水穂さんの二人で行ってくるわ。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「じゃあ、ここへ行ってきてくださいね。えーと、梅ヶ島温泉の、小田島旅館。部屋数は、少ないですけど、そのかわりちゃんとしたおもてなしをしてくださると思いますから、そこで思いっきり体を休めて来てください。きっとすごいごちそうが出ると思いますから、もう残さず食べてくださいよ!じゃあ、行ってらっしゃいませ!」

ブッチャーはそう言ってスマートフォンの予約のボタンを押してしまった。水穂さんは、嫌そうな顔をしていたが、杉ちゃんは、平気な顔をしている。

「本当にね。こんなふうに僻地へ療養に行くなんて、明治時代じゃないんですから、もうしっかりしてくださいよ。俺、こんなことするなんて、恥ずかしいですよ!」

ブッチャーは、大きなため息を付いて、支度を早速始めている杉ちゃんを見た。水穂さんのほうは、動けないで、そのままでいた。

翌日。

山奥の小さな一軒宿という感じで、小田島旅館は梅ヶ島温泉に建っていた。ここが本当に静岡市なのかわからないほど、山の中に梅ヶ島温泉というものがあるのだった。

増村武子はその日も布団の中に寝ていた。親のすすめで、ここにこさせてもらったところ、便利なものは何一つない。できることと言ったら、携帯電話で、動画サイトを見るだけだった。この小田島旅館にはテレビもなければ、漫画雑誌も何も無いのだ。出される食物はといえば、山で取られた山菜鍋ばかり。たまにイノシシの肉が出ることがあるが、それだって極めて少量で、ほとんど食べた気がしない。どうしてこんな不便なところに親がいけと言うのか、よくわからないまま、増村武子は、この旅館に滞在していた。宿泊代は親が出してくれるというけれど、何をしたら良いのかもわからないし、何もすることが無いのだった。まあ、精神病院に入院させられるよりはマシか、と、武子は考えていた。

武子は、18歳であった。と言っても、年齢的に高校へ通うべき年齢であるのだが、高校へ通ってはいない。休学しているのだった。理由は、レベルの高い高校を無理して受験してしまったせいか、入学したら、何もやる気が無くなってしまったのだった。上級学校に進むことを怒鳴り散らしている教師にも、武子は共感がわかなかったし、成績成績と怒鳴り続ける家族にも、なんだかその通りにしようと言う気にもならなかった。彼女の家族は、こんなに落ちぶれてというか、落ちこぼれてと言っている。だけど、武子にしてみれば、もう疲れてしまって、何もすることができなくなったということだろうか。母が連れて行った精神病院の医者は、うつ病という診断を下した。医者は、入院させたほうが良いと言って、武子も、3ヶ月間入院させられた。と言っても、病院に入院させられるのは3ヶ月の間だけで、それ以上の入院は、現在では法律で認められていないらしく、武子は3ヶ月後に病院から出た。病院にいる間は、看護師がやることを指示してくれたから良かったが、家に帰ると何もすることがない。そして、やる気が出ない、勉強ができない、気力がわかないといった症状は、全く変わらないのだった。16のときに入院して、ついに18になってしまったが、体重はその前の2倍近く増えた。

そういうわけで武子は、小田島旅館にやってきたのである。まあ親としてみれば、こもってばかりいて、太り続ける彼女に、外へ出てほしかったから、自分をこんな秘境温泉に追いやったのだろうと武子は思った。つまるところ、親に捨てられたようなものだ。親にも捨てられて社会にも捨てられて、もう自分は死ぬしか無いのではないか。そう武子は思ってしまうのだった。だから旅館で出された素晴らしいごちそうも食べる気になれなかったと思われるが、薬の影響で逆に食べてしまうのだった。勉強ができない人間は食べてはいけないと担任教師は怒鳴っていたのに、皮肉だ。

すると、部屋の引き戸がガラッとあいた。誰だろうと思ったら、小田島旅館の女将の小田島茉莉子さんだった。

「はい。何でしょうか?」

武子が言うと、

「お隣のお部屋に、影山杉三さんと言う方と、磯野水穂さんという方が、ご来訪されます。ちょっと声がしたりすると思いますが、仲良くしてあげてください。」

と女将さんの茉莉子さんは言った。

「はあ、えーとそうですか。」

武子は、それだけ言った。

「それでは、了承していただけますか?」

茉莉子さんに言われて武子さんはその時は軽い気持ちで、ハイと言ってしまった。別に隣に誰かが来ても、どうってこと無いと思っていたのだ。精神科にいたときも、隣の人のことなんて、全く気にしなかったし、問題にもしなかったから。

「わかりました。では、お隣の、お部屋にお二人が来ますので、よろしくお願いしますね。」

茉莉子さんは武子さんにそう言って、部屋を出ていった。

それから数分後。旅館の玄関先で車の通る音がした。この界隈は道が狭く、道路をすれ違うのもやっとのときもあるのに、何故か、ワンボックスタイプのタクシーが来ているのが不思議だった。武子さんは、窓から玄関先を覗いてみたが、見えるようにはなっていないので誰が来たかはわからなかった。ただ、茉莉子さんが、ご挨拶しているのは聞こえてくる。

「それでは、影山杉三様と、磯野水穂様のお二人ですね。それではよろしくお願いします。」

「こちらこそどうぞよろしくね。」

「すみません。お世話になります。」

声の感じからだと男性二人のようだ。

「はい、それではお部屋へどうぞ。」

隣の部屋から、茉莉子さんの声が聞こえてきた。

「どうもありがとうな。」

やけに声の大きな男だなと武子さんは思う。

「お風呂は、時間ごとに貸切制です。二時間単位で貸し出してます。男女の区別はありませんし、お泊りのお客さんも三人しかいないので、ゆっくりくつろげます。」

茉莉子さんはそう言っていた。そうなのだ。ここの旅館のお風呂は、時間で決められている。それを客が指定することはできないが、それでも、狭い自宅の風呂よりはずっと楽であった。露天風呂は、用意されていない。それは、お湯が空気に触れるのを防ぐためだとか。

「おうわかったよ。じゃあ、しばらくの間よろしく頼むな。風呂の時間になったら教えてくれ。」

隣の部屋の男性はそう言っていた。なんだかヤクザの親分みたいな喋り方で、武子は少し怖い気もしたが、すぐに忘れてまた寝てしまった。

「増村様、お風呂どうぞ。」

茉莉子さんの声が聞こえてきた。もうそんな時間だったか。武子さんは、すぐにお風呂に入るためのタオルと浴衣を持って、お風呂場に行った。お風呂と行っても内湯一つしか無いので、二時間時間貸し切りは少し長過ぎるような気がした。でも、出たり入ったりを繰り返しながら、二時間風呂で過ごして、体も洗って、浴衣に着替え、一通りの物を持って、さて部屋に帰ろうかと、部屋へ戻ろうとした。自分が泊まっている部屋だからドアはロックされているはずなのに、何故か部屋のとがあいていた。武子さんはあれと思って、ドアを動かしてみるとドアは簡単にあいてしまった。武子さんは、中に入ってみると、中には草履が二足あった。ということは、部屋を間違えたのか。武子さんが引き返そうとすると、

「何だ。部屋を間違えたのか?」

とでかい声が聞こえてきた。武子さんが言い訳を考えていると、

「お隣の部屋の方ですね?」

今度は、静かな細い声が聞こえてきた。武子さんは、その声に更にびっくりして、

「あ、あ、あの、部屋を間違えました。今度はお二人がお風呂の時間になると思いますから、よろしくお願いします。」

と行ったのであるが、

「ああわかりました。また女将さんが、合図をくださると思いますから、ご挨拶ありがとうございます。」

と、先程の細い声が聞こえてきたので、武子さんは声の主が誰なのか見てみたくなった。ちょっと、部屋の中を覗いてみると、一人の車椅子の男性が、お菓子を食べていて、もう一人の男性が、昼間なのに布団を敷いてもらって、そこに寝ていた。その人はとても美しくて、思わずどこかの俳優さんのように見えてしまう。どこかの有名な人が、お忍びで泊まっているのだろうかと武子さんは思ってしまったくらいだ。

「何だお前さんは。人の部屋ジロジロ見て。なにか覗きに興味あるんか?」

杉ちゃんにからかわれて、武子さんは赤くなった。

「どうしたんですか?お風呂の交代時間なら、女将さんが合図してくれると思いますから、大丈夫ですよ。」

と水穂さんに言われて、武子さんは返事に困ってしまい、

「あの。あの、あの。」

としか言えなかった。それと同時に女将の茉莉子さんが、

「影山様お風呂が湧きました。」

と合図をしにやってきた。

「ああ、僕らは歩けないので、大浴場はご勘弁を。」

杉ちゃんが言うと、

「いえ、大丈夫です。男性の従業員がいますから、その人達に手伝わせます。」

女将さんは優しく言った。何故か、武子さんもその気になってしまって、

「あたしもなにか手伝いましょうか?」

と言ってしまう。

「はあ。手伝ってくれるんですか?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。あたし、何も経験は無いですけど、、、。」

武子さんはそういった。女将さんが呼び出した男性従業員に背負ってもらって、水穂さんは大浴場へ連れて行ってもらう。杉ちゃんの方は女将さんに車椅子を押してもらいながら大浴場へ向かった。風呂は、岩風呂だ。足の効く人でなければ一人で入れないはずだ。だけど、男性従業員たちは、水穂さんと杉ちゃんをお風呂に入れてくれた。杉ちゃんなんかはでかい声でソーラン節を歌い出すくらいだ。

「良いねえ、このお風呂、かけ流しだぜ。加温も、循環もしてないってよ。それに温泉だから、あったかいのはいつでも続く。」

「本当ですね。」

水穂さんは、それしか言わなかった。その後で男性従業員に体を洗ってもらって、もう一度風呂にゆっくり浸かり、二人は体を拭いてもらって風呂から出た。浴衣を着るのは、すぐに着られると杉ちゃんは言ったが、これも男性従業員がしてくれる。武子さんは、水穂さんに風呂上がりの丹前を着せてあげるのを手伝うことができた。その時の水穂さんの顔は、自分がこんな贅沢をしても良いのだろうか、という不安そうな顔だった。だから武子さんは、なにか言ってあげたいなと思ってしまって、

「良いんですよ。だって、あたしたちは、温泉に使って、体を楽にするために来てるんですから。」

と言ってしまった。

「そうですね。」

と、水穂さんは、そういった。

「でも、そういう資格がない人もいるんですよね。それに、こういうものを誰かの手伝いがなければ楽しめない人もいる。だから、そうなると、本当に楽しんでも良いのだろうかという気持ちになります。」

「そうなんですか、、、。」

武子さんは思わずそう言ってしまう。

「あたしは、みんなおんなじことしているから、みんなおんなじで当たり前だと思っていましたが、そういうことは無いんですね。そうなんだ。でも、あたしは、ここに来てるんだから、楽しんでもいいと思いますよ。だって、こんな山奥のこんななにもない旅館に泊まる人なんて、よほど大掛かりな事情を抱えている人でないと来ないでしょう。それくらい私もわかりますよ。だから、思いっきり楽しんでしまっても良いと思います。」

「そうですか。」

と、水穂さんは言った。それと同時に男性従業員が、水穂さんを背中に背負った。そしてはいいきまっせと言って、二人は、自分の部屋に戻っていった。武子さんは、女将さんの茉莉子さんと一緒に、二人が部屋に帰っていくのを見送った。

「なんだか、事情がある二人のようですね。」

武子さんは思わず茉莉子さんに言ってしまう。

「誰でも、楽しみを持てると思ってましたが、そうでも無いんですね。あたしは、そんなこと全然わからなかったけど、でも、手助けがあれば、そういうことができるってあたしはすごいと思いますよ。なんか、そういうお手伝いがしてあげられたらなって思いました。」

「ええ、そうですね。こちらの旅館にくるひとは、みんな事情がありますよ。みんな重い障害を持っていたりとか、なにか大事な事情があって、力を抜きたいとか、そういう人たちばかりですよ。だから、私達にできることは、うんともてなしてあげること。思いっきり応援してあげることでしょ。」

茉莉子さんは苦笑いをしてそう言っていた。武子さんは、あの美しい男性のことをずっと忘れられないと思った。そして、いつか私も、そういう人たちのお手伝いをしてあげたいという気持ちになって、自分の部屋へ戻った。


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