二人

第7話

「凛くん、おはよ〜」

 彼が倒れたあの日から、私は毎日お見舞いに来ている。夏休みなため、朝から会いに行くことが可能なのだ。

「......あ、はよざいます」

 彼がベッドから起き上がった。顔色が良さそうな彼を見て、今日も安心する。

「今日めっちゃ外暑かった〜」

「そうなんすか?」

「そうなの。ちなみに35度。溶けそうだよ〜」

 私は手持ち扇風機で涼んだ。どれだけ暑くても必ず彼に会いに行く。彼に会えるなら、夏の暑さなんてへっちゃらだ。一瞬一瞬を大切にしたい。

「咲笑ちゃん、夏休みの宿題は持ってきましたか?」

「もちろん!」

 昨日、私が数学の宿題が全然分からないと愚痴を吐いたところ、彼が教えてあげるから持ってきてと言ってくれたのだ。私は彼の体調が心配だったから一度断ったのだが、勉強を教えるくらい身体に障らないと言ったので、教えてもらうことにした。

 私はプリントを机に広げた。

「どこが分からないんすか?」

「全部!」

「....わかりました」

 彼は一瞬戸惑ったような顔を見せた。多分、特定の単元が分からないと言ってくると思ったのだろう。もしそうだったら私は苦労していない。

「まずここは二次関数っすね。覚えてますか?」

「.....若干?」

「...じゃあ始めから叩き込みます」

「はい」

 こうして私の夏期講習がスタートした。苦の夏期講習ではない、むしろ贅沢な夏期講習。世の高校生よ、羨ましいだろ。

 かといって、彼が優しく教えてくれるわけではない。時々、いや、結構な頻度でで、かなり冷たく教えてくる。それに加えて私の理解力が足りないため、その冷たさが沁みる。こんな私にずっと勉強を教えるのは、いくら恋人の彼であってもさすがに疲れそうだ。

 勉強を開始して、一時間経った頃だった。

「........友達との予定はないんすか?」

「え?」

 彼がいきなりペンを止めて聞いてきた。

「.....会いに来てくれるのは嬉しいんすけど、友達との時間も大事っすよ」

 彼の病気は彼と彼のご両親と私しか知らない。私の家族も梨花ちゃんや駿河もしらない。彼女たちも彼の病気を知っていたら、病室で一緒にお話したり、ゲームをしたりできた。でも、彼の病気を知らせるのは、彼自身もしたくないことだと思う。

「......一応遊ぶ予定はあるよ」

「ほんとっすか?」

「....うん」

 これは本当だ。でも今、私の頭には彼のことしかない。梨花ちゃんと遊びたいって気持ちがないわけではないけど、彼との時間のほうが大事だと思ってしまっている。

「........もし、俺のせいで時間を潰してしまってるなら」

「違うよ?私が来たいから来てるんだよ」

 その先を聞きたくなかった。私が想像する最悪の事態を提案してきそうだったから。

「林山さんには言ってください」

「.........え?」

 想像もしていなかった言葉が彼の口から出てきた。

「......なんで?」

 咄嗟に私の口から出てきたのは単なる疑問だった。

「....林山さんは、咲笑ちゃんの大切な親友っすよね」

「...うん」

「もし、林山さんが咲笑ちゃんと遊ぶ機会が減ってしまったら、咲笑ちゃんのことを心配するだけじゃなくて、何か悪いことしたのかなって思っちゃうんじゃないでしょうか」

 なんで言われるまで気が付かなかったんだろう。少し考えればわかることなのに。凛くんのことで頭がいっぱいだからって思っていたけど、本当は自分のことで精一杯だったんだ。

「......だから言ってください」

「......言っても.....いいの...?」

「お願いします」

 梨花ちゃんに伝えるだなんて考えてもいなかった。まだ彼の友達に言うのはわかる。でもそれよりも私のことを思って、私の親友に言うなんて。

「......林山さんってどんな人なんすか?」

「...え?....梨花ちゃん....?」

 彼が唐突に聞いてきた。梨花ちゃんに興味があるのだろうか。

「はい。どんな性格の人なんだろうと思って」

「.....なるほど....?.....でも凛くんは知ってるんじゃない?中学一緒でしょ?」

 今まで聞かれたことがなかったから少し困惑した。それに、中学一緒だった彼の方が絶対詳しいと思う。私はまだ梨花ちゃんと出会って三ヶ月くらいしか経ってない。

「.....一緒でしたけど、話したことないっす」

「えー、そうなんだ」

「はい」

 確かに、彼が梨花ちゃんと仲良くしようとは思わなそう。前提として彼は女の子とそもそも話さないんだから。

「...梨花ちゃんは、とっても優しいの。誰にでも平等に接するし、困ってたら必ず助けてくれる。私が落ち込んでたら励ましてくれるし、それに面白い。ほんとに、梨花ちゃんは最高の女の子だよ」

 私は彼女の行動を一つ一つ思い出しながら語った。

「......やっぱりそうなんすね」

「やっぱり?」

 私がそう聞くと、彼は頷きながら少し微笑んだ。

「なんとなく分かってました。咲笑ちゃんの友達だからそうなんだろうなって思ってました」

「......え?」

「だって咲笑ちゃんも最高の女の子じゃないすか」

 彼は少しだけ頬を染めて言ってくれた。

 私は感動で心臓がキュッとなった。彼が私のことをそう思ってくれていた嬉しさと同時に、梨花ちゃんのことも素敵な女の子だと思ってくれていたことに喜びを感じた。

「ありがとう凛くん。また、顔赤いよ」

「赤くないっす」

 彼のこの照れた表情をあと何回見ることができるのだろうか。いつか彼の頬から血色が消えてしまう。でも今はそれは考えないようにしよう。いつも通りの日常を送ろう。

「じゃ、勉強再開しますよ」

「お願いします!」

 私達は再びペンを握って勉強に戻った。


「疲れたあ。凛くん本当にありがとね」

 お昼になった。合計で三時間数学を教えてもらい、なんとか基礎は固まった。

「いいえ。咲笑ちゃん、お腹空いてないっすか?」

「ぺこぺこ.....」

 頭を使うと脳がどっと疲れる。なんでもいいからとりあえず固形物を体内に取り込みたい。

「じゃあ、一階に売店あるんで買いに行きましょう」

 彼がベッドから降りる素振りを見せて、そう提案してきた。

「あ、確かに売店あった!行きたい!」

 私達は病室の廊下を開けようとした。だけど、先に向こう側から開けられた。

「あら、愛原さん」

 彼のお母さんだった。手には大量の紙袋が握られている。

「こんにちは!お邪魔してます」

「今日も来てくれてありがとね〜。今から二人でどこか行くの?」

「お腹が空いたので、一階の売店に行こうと思ってまして」

「あら、そうなの?残念だわ〜、今日パンとか果物とか色々持ってきたのよ」

 その大量の紙袋の正体は、食料だったらしい。

 せっかく彼のお母さんが持ってきてくださったんだ。食べないわけにはいかないだろう。

「咲笑ちゃん、どうします?」

 彼が少しかがんで訪ねてきた。

 私は彼とお義母さんとの時間も大切にしたいと思ったので、病室でお義母さんが持ってきたご飯を食べようと思う。

「凛くんのお母さんが持ってきてくださったものを食べます!!」

「あら、本当?!嬉しいわ〜」

 彼のお母さんが私の腕を優しく掴んで喜んでくださった。

 彼はベッドに戻り、私とお義母さんは病室の椅子に座った。

「愛原さん何食べる〜?」

 お義母さんが紙袋を漁りながら、嬉しそうな声色で聞いてきた。

「パン食べたいです!!」

「メロンパンと、クロワッサンと、塩パンがあるんだけど、どれがいいかしら?」

「え〜、迷うな......。じゃあ、メロンパンで!」

「はい!どうぞ!」

「ありがとうございます!」

 焼きたてなのか、ホカホカしていてとても美味しそうだ。

「凛は何食べる?」

「塩パン」

「はいどーぞ!」

 塩パンもすごく美味しそう。塩パンは中が空洞になってて、もちもちしていて美味しいんだよな〜。

 私が塩パンをずっと見ていたせいか、彼が私と目を合わせてきた。

「ん??どうしたの凛くん?」

「塩パン食べますか?」

「え?なんで.....?」

 彼が塩パンを差し出してきた。塩の効いた香ばしい匂いが私の興味を更に湧き立てる。

「ずっと塩パン見てたので」

「.......ああ、ごめん!ただ単に美味しそうだなって思ってただけ」

 食いしん坊だと思われてしまう。いや、もう彼には思われている、と思う。でも彼のお母さんには思われたくない。

「じゃあ、半分ずつ食べましょう。俺もメロンパン食べたいんで」

彼はそう言うと塩パンを半分にして、私に渡してきた。

「........ありがとう」

 私はそれを受け取り、同様に私もメロンパンを半分にして渡した。

 彼はいつも私を見てくれている。私の心がまるで分かっているかのように。その彼の優しさに、今日もまた沼っていく。

「お母さん、微笑んじゃう」

 お義母さんが私達を見て優しく微笑んでいた。

 でも、お義母さんを置き去りにして自分たちの世界に入っていたのを、少し反省した。

「そうだ、愛原さん。パン食べ終わったら私と一緒に飲み物買いに行きましょう」

 お義母さんが弾むように提案してきた。でも、何か言いたそうなトーンだと私の勘が言っている。

「わかりました!」

 何も気づいていないふりをして明るく答えた。


「愛原さん今日暑いわね〜」

「ですね〜。日に日に暑くなってる気がします」

 お義母さんと一緒に病院内の自動販売機に向かっている。凛くんが俺も行きますって言ったけど、お義母さんが、心配だからという理由で説得していた。

「愛原さん、何飲む?」

「私は水飲みます!」

「あら、健康的なのね」

 お義母さんが財布からお金を出した。

「あ、いや、私が払いますよ!」

「いいのいいの。払わせて」

 お義母さんは私の手を止めて、水のボタンを三回押した。お義母さんも凛くんも水を飲むみたいだ。

「ありがとうございます」

「いいのよ。いつも凛のお見舞い来てくれてるでしょ?その御礼にはならないけど、受け取って」

「.....ありがとうございます」

 キンキンに冷えた水を両手でしっかり受け取った。手にその冷たさが沁みた。

「愛原さん、今日はねちょっとお話したいことがあるの」

 お義母さんは近くにあるベンチに腰を預けて、声色を変えて話しだした。

「.....はい」

 それにつられて私の身がキュッと引き締まり、ペットボトルを握る力が強くなった。

 お義母さんの隣に腰をおろし、自分の呼吸を整えた。

「........あのね、凛はすごく静かな子で、私は、いや、お父さんもあんまり笑ったとこを見たことなかった」

 何が彼を冷たくしているのだろう。彼のご両親でさえもあまり見たことのない笑顔を、私はどれくらい引き出せる?そもそも、引き出せたことがあったのか。

「.......凛はね....私達の実の子どもじゃないの。....凛が三歳のとき.....凛の両親が事故で亡くなっちゃってね....。だからかな.....凛が心から笑ってるのを...見たことがなかった....」

「........え.....」

 私は想定もしていなかった事実に、声が出なかった。彼が時折見せたあの静かな色の目は、その背景があったからなんだ。

「でも........凛があなたと話しているとき、泣いちゃいそうだった。......あんなに優しそうに微笑む凛を初めて見たから....」

 お義母さんは涙を溜めて、唇をギュッと噛んで優しく私に微笑んだ。その唇を解けば、気持ちが溢れてしまうのだろう。そのことに気づいて、私も鼻がツンと痛くなった。

「凛の笑顔をずっと見ていたい。凛があなたと嬉しそうに話す姿をずっと見ていたい。凛がこの先大人になっていくのを見届けたい」

 お義母さんは涙を零しながら、震えた声で空を見つめた。

「......でもね......でも.......凛は...........死んじゃうの」

「.......っ.....」

「.....凛の笑顔をずっと見ていることは......できないし......っ.......凛があなたと......嬉しそうに話す姿を......ずっと見ることはできない........凛が......っ...大人になる...のを...そばで....見てあげることも.....でき....ないの......っ....」

 お義母さんが嗚咽しながら、必死に声を出した。

 私は何を言うべきなのか、何をしてあげるべきなのかわからなくて、ただ背中をさすることしかできなかった。

「..........でも..もし.....あなたが........凛の.....隣にいてくれることによって.......凛の....笑った顔が少しでも.....見れるなら.....」

 お義母さんが私の手を強く握った。

「......どうか.....凛の..そばにいてあげてほしい.....っ...わがままなお願い....だけど.......許して.....くれないかしら.......っ.......」

 彼の笑顔を引き出せるのは、私しかいないと言われているような気がした。でもきっと私だけじゃない。彼女たちを思いながら、心の中で笑っているときがあるのかもしれない。でも私がそばにいることによって、最期まで彼の笑顔を、彼女たちに見せることができるのなら。

「....そばにいます....ずっと....」

 私は涙を堪えながら、お義母さんをそっと抱きしめた。小刻みに揺れるお義母さんの背中を優しく撫でる。

 私がお義母さんやお義父さんや凛くんの力になれるのかは分からないけど、少しでも彼らの笑顔が見れるなら、私はずっとそばにいる。

「....ごめんなさいね、愛原さん.....っ....こんなに...情けない姿見せちゃって...っ..」

 お義母さんが手で涙を拭きながら体を起こした。先程の悲しそうな表情はもうなく、少し微笑んでいる。

「いえ......お義母さんに寄り添えたことが、とても嬉しいです」

「愛原さんはとても優しいわね。こんなに優しい子の恋人になれたなんて、凛は幸せ者ね」

 お義母さんが私の頭を撫でてくれた。こんなことを言われたのは初めてで、彼と恋人になれた自分に自信が持てた。

「いえ、そんなことないです。私の方こそ凛くんのような素敵な男の子の恋人になれて幸せです」

 本当にそうなんだ。彼がいるから何でも頑張れる。彼の声を聞くだけで安心する。私は毎日、彼からたくさんの愛情をもらっている。

「嬉しいわあ。そうだ愛原さん、お菓子買いに行きましょう。泣いたあとはお腹がすくのよ、ふふふ」

「確かにお腹すきました。でもお義母さん、私のこと愛原さんじゃなくて下の名前で呼んでくださいね」

 ずっと名字で呼ばれていたから違和感はなかったけど、お義母さんとももっと近くなりたかった。

「あら。いいの?でも、下の名前で呼ぶのは、凛の特権じゃないの?あの子が女の子を下の名前で呼ぶの、初めてなのよ」

「そうなんですか。でも、いいんです。下の名前で呼んでください」

 彼が呼ぶ私の名前は特別だ。彼の優しい声で呼ばれる名前が好きだ。でも、お義母さんから呼ばれる名前も私の特別にしたいんだ。

「..........わかったわ。じゃ、咲笑ちゃん、お菓子買いに行きましょう!」

「はい!」

 



「ただいま〜」

 病室でしばらく談笑して、気づいたら午後6時になっていた。お義母さんがたくさんお話のネタを持っていたため、時間の流れに気が付かなかったのだ。しかも、その後お義父さんが来られて、再度話が盛り上がりこんな時間になってしまっていたのだ。

「おかえり〜。遅かったわね〜、どこ行ってたの?」

「あ〜、えっと、友達と.........お話してた」

 お母さんに凛くんのことは言っていない。言えていない。本当は彼が倒れた日に言うべきだったのに、彼の病気のことを私が言ってもいいのかわからなくて言えなかった。

「友達って梨花ちゃん?」

「あー、うん....!」

 お母さんが知っている私の友達の名前は数人しかいない。その中でも私は梨花ちゃんと一番仲がいいから、彼女の名前を出したのだろう。

「最近どこ行ってるの?家にいないことが多いじゃない」

「まあ.....図書館.....とか」

「そう」

 いきなり聞かれたから、良い言い訳が思いつかなかった。梨花ちゃんと話してたって言っても、どこで話してたっていう問題にもなる。もっといい設定を考えることができたのに。

「とでも言うと思った?咲笑?」

「え?」

 多分、何かがバレた。お母さんは勘が鋭いから何かと見透かされたかもしれない。

「本当は違うんじゃない?」

「........」

「話して?お母さんが聞いてあげるから」

 凛くんに許可をもらっていないのに、話してもいいのだろうか。許可をもらったのは梨花ちゃんにだけだ。いくら私の家族とはいえ、許可なしで言うことはダメな気がする。

「........ごめん、言えない.......ごめん」

「.........なんで言えないの?」

「........それは....」

 それは凛くんに許可をもらっていないからだと言えるはずがない。本当はお母さんにも相談したい、したいけど.....。ごめんなさい、お母さん。

 その時だった。ピロンと私の携帯が鳴った。

 通知を開いてみると凛くんからのメッセージだった。

 そこに書かれたメッセージは偶然にもほどがあるほどの言葉が並べられていた。

〈言うの遅くなりました。ご家族にも話してください。もしもう話してるなら、全然大丈夫っすよ〉

 なんでいつも凛くんは私を分かってくれているのだろうか。彼はいつも私のことを考えてくれている。なんて優しい人なんだろう。

「....言えないならいいわ。ごめんね、お母さんが」

「言える。話すよ、凛くんのこと。だから聞いて、お母さん」

 私は話さなければならない。ちゃんと、全部。お母さんは不思議そうな顔をして私を見たけど、私の顔から何かを読み取ったようで、静かにダイニングテーブルについた。つられて私も席につく。

 ちゃんと説明できるだろうか。それが少し不安だった。

「......まず、私は空先凛くんという方とお付き合いしてるの。彼は、サッカー部で、すごく頭もいい。そんな彼と付き合えて私はとても嬉しい」

「あら、咲笑の理想のタイプね〜。一度お会いしてみたいわ〜」

 お母さんはいつもの上機嫌で話を聞いてくれているけど、私が暗くならないようにあえて明るくしている気がした。

「.........うん。会ってほしい.........できれば早く、一日でも早く....」

「.......それって...」

「........凛くん.........病気なの。氷体病........なの」

「.......え?....」

 お母さんは氷体病という言葉だけは知っているはずだ。だってお兄ちゃんが言っていたから。でも、どんな病気かは知らないと思う。お母さんは滅多にテレビを見ない。ただ珍しい病気だということだけ知っている。

「........この病気ね、症状が悪化すると体が凍っちゃうの。治療薬もない、治せない」

「.....凍っちゃうって.....」

「........そう...........凛くん.........もうすぐ死んじゃう」

 お母さんは息を呑んだ。お母さんはどう思っただろうか。娘がもうすぐ死ぬ人と付き合っているということに、何を感じたのだろうか。

「咲笑」

 お母さんが立ち上がり、私の方に来て、優しく抱きしめてくれた。

 突然のことに、お母さんが何を考えているのか分からなかった。

「お母さん?」

「咲笑、泣きなさい」

「........え....?」

 突然何を言っているのだろう。突然泣きなさい、って言われて泣けるのなんて、せいぜい女優か俳優くらいだろう。

「.......辛いでしょ。愛する人がもうすぐいなくなってしまうって。それがどれだけ怖いか.....どれほど苦しいか」

「.......うん」

 お母さんはその辛さを経験したことがあるような言い方だった。でもその言い方は同情ではなく、そっと寄り添ってくれているようだった。

「大丈夫よ、咲笑。泣いていいのよ.....」

 大丈夫。私はその言葉に、自分の中で溜めていた何かがが溢れてしまって、頬に温かい雫が落ちてきた。

「.........どうしよう....っ...お母さん....っ......凛くんが......死んじゃうんだって....っ......いやだ.....っ......いやだよ.......っ....」

 お母さんは何も言わずに優しく背中を撫でてくれている。

「.......本当は.....っ....朝...おはよって......毎日、病室のドアを開けたとき......っ.....死んじゃってるんじゃないかって........冷たくなっちゃってるんじゃないかって......す.....ごく.....怖くって....っ...」

「...うん」

「...凛くん....今....苦しくないかな......辛くないかな....って.....毎秒.....毎日....頭の中で不安が.....渦巻いてて.....っ.....だから....ね....っ....あのね....っ...」

 感情が口にまとわりついて、自分の気持ちを言う事だけがやっとだった。

 私は、彼から病名を聞かされたあの日、泣いてすがった。私を置いていかないで、死なないでと。口に出すだけで何か変わると思ったから。それを彼に伝えたところで、彼の負担が増えるだけで、私の不安が消えるわけでもなかった。この不安は、彼といればいるほど強くなっていった。彼に言えるはずも、彼のお母さんに言えるはずもなかった。

 でも、私のお母さんは私の不安を見抜いてくれた。もう、泣いてもいいんだよと。それがどれだけ私の心を癒やしてくれたことか。

「.......うん.....うん......ごめんね、気づけなくて......ごめんね.....」

 お母さんの温かい手に、涙が止まらなかった。

 私もこんな温かい手を凛くんに伝えられたら。そう思った。だって彼が泣いてすがるところを見たことがない。見せたことがない。病名を知らされたときだって、私が泣く一方で、彼は涙を見せなかった。

 それなら、私が彼が泣けるような肩にならなければいけない。彼が自分の本音を吐き出せるように。

 私はお母さんの温かさを感じながら、そう決心した。





 翌日。今、午前十時。私は病院近くの公園のベンチに座ってある人を待っている。

「さーちゃん...!! ごっめん!おまたせ...っ!」

 梨花ちゃんが焦った様子で、息を切らしながら私のところまで走ってきた。

「ううん、大丈夫。突然呼び出してごめんね」

「全然。なんか重大な話っぽかったからいかないわけにもいかないでしょー」

 昨日私は、梨花ちゃんに〈話したいことがあるんだけど、明日会えない?〉と突然メールしたのだ。凛くんが言ってくれたように、梨花ちゃんに心配をかけないよう、なるべく彼が元気なうちに明かしておこうと思ったのだ。私から話すのは少しためらいもあるが、彼がいいよと言ってくれたのだから素直に話そうと思う。

「.....うん、じゃあ、早速話すね。早いほうがいいから」

「早い方がいい?」

 私の少し違和感のある発言に、彼女は怪訝そうな顔をし、私の隣にそっと腰をおろした。

「.....凛くんのことなんだけど....」

「........もしかして.....別れ....ちゃった....?」

 彼女が気まずそうに小さな声でそう聞いてきた。まさかそう返ってくるとは思わなくて、少し焦った。

「ううん...!違う違う。全然まだ付き合ってるよ」

「.....なら....いい...けど...」

 そう言って、私から顔を逸らした。彼女の顔には、空先凛と別れる以外の深刻なお話とは何なのかというセリフが書かれているように見えた。

「.....実はね.....凛くん.....病気なの」

 そう言った瞬間、横から見える彼女の瞳孔が小さくなり、息を呑む音が聞こえた。

 風が揺れ、夏にしては冷たい空気が、私たちの周りだけに漂っているように感じた。

「.....病......気.....?」

「....うん」

「.....空先....が...?」

 彼女は私の顔を見て、今にも泣きそうな顔をした。なんで彼女がそんな顔をしているのか分からなかった。彼女にとっては、ただ同じ中学で、高校になって少し面識ができて、私の彼氏であるだけだから。

「....うん....。それでね.......その......凛くん.....氷体病っていう病気....で...もうすぐ.....死んじゃう....の」

 私が泣かないように震える声で伝えると、彼女は強く私を抱きしめた。

「....梨花ちゃん?」

「...さーちゃん....辛いよね.....っ.....一人で抱えて、寂しかったよね....っ....どうしたらいいのか.....わかんなかったよね....っ....ごめんね...っ...気づいてあげられなくて..っ..」

 彼女は私よりも多くの涙を流していた。多分、彼女は、凛くんが死ぬということに対しての涙ではなくて、私が抱えている重大なことに、涙を流しているのだろう。

「....ううん....梨花ちゃんは....悪くないよ...っ....」

「.....っ.....さーちゃん」

 そう言うと彼女は素早く体を剥がし、真っ赤に腫れた目で私を見た。

「空先んとこ行こう。いますぐ」

「....っ....うん....」

 彼女はいつだって、私を守ってくれる。そう、彼女は私にとっての心友だ。




 

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