第6話

頭が真っ白で、気づいたら病室に座っていた。私は無意識に彼の右手を握っていた。

「.....凛くん...」

 救急車に乗って少し経つと少し症状が和らいだらしく、今は眠っているだけだそうだ。

 とにかく死ななくてよかった。あのまま死んじゃうんじゃないかと怖かった。

 その時、病室の扉が開いた。ここは個室なため、来るとしたら彼の知り合いか、家族か先生しか来ない。

「おや、凛の友達かい?」

 彼の両親のようだ。どちらも優しい瞳の人だった。

「......あ、えっと.....彼女...の愛原..咲笑....です」

「あら、そうだったの!あなたが彼女なのね」

 彼のお母さんが少したれた目で優しく微笑んだ。同時に彼のお父さんも優しく笑った。

「.......この子、彼女ができたとかは言ってこなかったけど、大切な人がいるって言っててね」

「そうそう」

 二人は凛くんを笑顔で見つめながらそう話した。その笑顔に彼の面影を感じる。

「....私たち、今から先生のお話を聞いてくるから、凛と一緒にいてくれるかしら?」

「......あ.....はい」

「この子、こう見えても寂しがり屋だから、ふふっ」

 お義母さんはそう言いながら笑っていたけど、どこか不安そうな表情が隠れていた。

「じゃあ、行ってくるね」

 二人は静かに扉を開け、私に手を降って病室をあとにした。

 再び病室に静寂が戻った。こんなにどんよりした気持ちなのに、窓から見える空はそれを嘲笑うかのように快晴だ。

 私は彼の手をそっと握った。ぬくもりがあることにほっとする。

 きっと大丈夫。大丈夫だ。病室内の穏やかな空気のお陰でそう思うことができる。

 その時、彼が私の手を握り返してきた。

「....り.....ん.....くん....?」

 私は身を起こして彼に近づいた。

 彼の瞼がゆっくりと開き、瞳が私を捉えた。

「......さ......え..ちゃん.....」

「わ、わかる?!ここがどこか分かる?」

「......病...院..」

 彼は少し間を置いてから答えた。

 私はほっとして、涙が溢れた。記憶がなくなっていたらどうしようかと不安に駆られていたのだ。

「....よかった.....ほんとによかった...」

 私は溢れてくる雫を手で取りながら、椅子に再び座った。

「........すいません...俺、倒れちゃって。せっかく咲笑ちゃんと.....出かけてた...のに」

「謝らないでよ..何も悪くないから。私の方こそ、何もできなくてごめんだよ」

 そう。私は彼の違和感に気づいていたのに無視していた。結果こうなってしまったのは、私のせいだ。

「....ちがいます........だから泣かないでください」

 彼が右手で私の涙を拭いた。私より凛くんの方が辛いはずなのに、彼の目に涙は浮かんでいない。私がじっと彼の瞳を見つめていると、ゆっくり起き上がって深呼吸をした。

「......そういえば、俺の母さんと父さんは見ましたか?」

 彼は気にかけている様子だった。表情から読み取るに、両親に会いたいという願望よりも迷惑をかけてしまったのではないかという心配をしているような感じだった。

「あ、さっきまでこの病室にいたんだよ」

「...もう帰った感じっすかね」

「ううん、先生の話を聞きに行っているみたいだよ」

「......そうっすか..」

 彼は何かを悟ったような表情をした。それに私は気づいてしまって、彼から目を逸らした。

 おそらく彼はまだ自分が今どういう状況かを知らない。でも、どこかが悪いんだということは分かっているはずだ。

「.....俺、まだ先生から何も聞いてないんすけど、いつ聞けるんすかね」

「.......いつ......かな..」

 彼の言い方が気になった。早く聞きたいと言うような言い方で、そこに恐怖はなさそうだった。それに私は戸惑いを隠せず、曖昧な返事になってしまった。

「........俺..」

 彼が何かを言いかけたが、それと同時に病室の扉が開いた。

「.........愛原さん、今出ていったばっかりだけど........って..凛?」

「.....母さん...父さん......」

 彼の両親だった。さっき病室を出ていったばかりで凛くんの病気の説明を聞くには早すぎる。なにかあったのだろうか。

「........いつ起きたの...?」

「.......さっき」

 彼の両親の表情が緩んだような、更に硬くなったような気がした。

「凛。実はな、父さんたちさっき先生の凛の状況を聞きに行こうとしたんだけどな、母さんがやっぱり凛も一緒に説明を聞いたほうがいいって言い出して帰ってきたんだ」

「.......そうなんだ」

 あとからでも凛くんは病気の説明をしてもらえるだろうに、彼のお義母さんは多分自分たちが先に聞くことに違和感を覚えたのだろう。

「.....凛.....体調が少し良くなったら、一緒に説明を聞きに行きましょう」

「........今でいいよ」

「.....体調は大丈夫なのか?」

「うん」

 凛くんはそう言って立ち上がった。けど、彼の両親は心配して車椅子に座らせた。

「.......咲笑ちゃん。行ってきますね」

 彼は私をそっと見てすぐに目を逸らした。私はそれに今まで感じたことのない冷たさを感じた。

「.......愛原さん、凛のためにありがとね」

「.......いえ.....そんな」

「じゃあ、行ってくるね」

 そう言うと、彼らは病室のドアを開け静かに出ていった。

 途端に怖くなった。もう、彼と会えないのではないかという不安が急にこみ上げてきた。そんなわけはないと分かっている。でも、さっきの彼の目の逸らし方が深く心に残ってしまってどうしようもなかった。



「........ん...」

 気づいたら私は病室の椅子に座って寝落ちしていたようだった。

 目を前に向けると、凛くんが私の方を向いてベッドに座って寝ていた。

「....凛く....」

 彼の名前を呼ぼうとしたとき、彼が私の手を握っていることに気づいた。その温かさに安心を感じた。まだ、彼はここにいるんだ。

「......凛くん..」

 彼は、自分の状態を先生から聞いて何を思ったのだろうか。私はまだ、彼がなんの病気なのかは知らない。氷体病であるという確信はまだない。間違ってる可能性だってあるし、ただの貧血の可能性だってまだある。なにも分からない。なにも知らない。

 ただ、彼が倒れてしまうまで何もできなかったことが悔しい。気づかないふりをした自分が許せない。

「......ごめんね.....凛くん...」

 私は彼の手を握り返した。ごめんって言っても過去は戻らない。彼がなんの病気でもないことを信じるしかない。

「.....ん.......」

 彼が目を開けた。数回瞬きしたあと私を見つめてきた。

「.....咲笑ちゃん....起きてたんすか....」

 彼が身体をゆっくり起こしながら言った。少しだけ微笑んでくれた。

「...おはよう..凛くん」

「........っす..........待たせてしまってすんません」

「......いいよそんな、気にしないで」

 私はいつもどおり接しているつもりだ。でもどこか、なにかが違う。

「.......お父さんとお母さんは.....?」

「......一応..帰りました」

「.....そっか..」

 何を話したらいいのか分からなかった。どうだった?って聞く勇気は私にはない。だから、何か話して地雷を踏むのが怖かった。

「........あの」

 沈黙の中、凛くんが私を静かに呼んだ。

「.....ん?...」

「....俺.........病.....気..らしいっす...」

「.........え...?..」

 あれ、分かっていたはずなのに。どうして?覚悟してたじゃん。なんで涙が溢れてくるの?

 涙が止まらない。声も出ない。それは、彼は氷体病であると確信してしまったからだ。


 凛くんは、死ぬ。


「.....氷体病ってやつらしいっす...」

「........うん....」

「....症状が悪化すると、最後....凍っちゃう...らしいっす」

「.......うん」

「.....治療法がないみたいで.....」 

「.....う.....ん..っ..」

「......俺.......もうすぐ死にます」

 私は急に力が抜け、椅子から崩れ落ちた。目の焦点が合わない。瞬きすらできない。

「咲笑ちゃん!?大丈夫っすか?!?!」

 彼がベッドから急いで降りて、しゃがんで私の背中をなでてくれた。

「....咲笑ちゃん.....?...」

「........」

「.....咲笑...ちゃん」

 声が出なかった。凛くんの顔も見ることができなかった。彼の顔を見たら実感してしまうと思った。

 彼と初めて話したときのことが蘇ってきた。彼の凛とした瞳が深く心に残っている。彼の瞳が好きだ。大好きだ。でも、今はその瞳が怖い。

「咲笑ちゃん」

 彼は私の頬を包んで、目を合わせた。

 だめだ。気持ちが抑えられない。彼を失いたくない。どこにも行かせたくない。

 私は咄嗟に彼に抱きついた。

「咲笑ちゃん?」

 彼は驚いたような声を上げた。それでも構わない。

「どこにもいかないで....っ.....死なないでっ......っ....凛くんと....ずっと....っ一緒にいたいの...っ」

「......咲笑ちゃん」

「....私...凛くんがいなくなったら...っ.....どうしたらいいかわかんないっ......大好きだから...っ...凛くんが...っいない世界なんて.....っ....そんな世界....私は生きたくないっ....」

「.....」

「.......だから.....っ......死なないで...」

 こんなことを言っても凛くんを困らせることは分かってる。だけど現実を受け止めたくなくて、ただひたすらに嘆きたかった。

「....ごめんなさい...」

 彼は、私が期待した言葉は言ってくれなかった。ごめんなさい。それは俺と離れる覚悟をしてください、そういう合図なのだと思ったし彼は冷たいと思った。

「......俺、死ぬことに対しての実感は正直ありません。でも、今、咲笑ちゃんが泣いているのを見て、本来笑わせなきゃいけない彼女を泣かせてしまっていることに、自分の病気の怖さを実感しています」

 彼は私の背中を優しく撫でながら、いきなり淡々と話しだした。

「......咲笑ちゃんは、どうしたいっすか」

「.......え?」

 一瞬なんのことを聞いているのかわからなかった。そう、たった一瞬だけ。

「..........俺と別れますか?」

 彼はおそらく、これ以上私を泣かせたくないと感じたのだと思う。そして同時に、私がこの先彼を失ってから生きることができるように考えたのだとも思った。

 だけど、凛くんと別れるなんて私には無理だ。それに。

「......凛くんがもし、いいって言うなら....私は凛くんのそばにいたい............凛くんを......一人にしたくない」

 私は彼から体を起こしてそう答えた。

 私はただ彼の隣にいたい。彼を支えたい。一瞬一瞬を彼との思い出にしたい。

「..........よかったっす......俺も同じ気持ちです」

 少しためて、彼はそう言って私の頭を撫でた。彼の少し冷たい体温がとても心地良かった。

「.....凛くん」

「なんですか?咲笑ちゃん」

 いつか、彼は私の名前を呼ばなくなる。彼の声で私の名前を聞くことができなくなる。私が彼の名前を呼んでも、返ってこなくなる。

 その日がどうか来ないでください。彼の声が私の胸を鳴らしてくれる。彼の声が私を安心させてくれる。

 いつまでも聴いていたい。いつまでも隣にいたい。

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