三の巻

芽吹き

 几帳の間を抜け、帳台の傍らに座す。ひそめた声で、呼びかける。

「――主上おかみ。東宮にございます。お呼びと聞き、参りました」

「ああ……こちらへ……」

 断って、とばりを上げる。

 やつれて白んだ顔。この秋に病を得て以来、ずいぶん痩せてしまった。薬師くすしの見立てでは、もはや年は越せないという。

 緩慢な深い呼吸の中、父が、おもむろに語る。

「……今朝、うらが届いた。践祚せんその兆しあり、とのことだ」

 息を呑む。診断は、間違いではないというのか。

「それならば、きっと、ご回復なされましょう。表向きのことは、わたしにお任せになられて、ごゆるりとお暮らしあそばされませ」

 ふっと、小さく笑みがこぼれる。静かで穏やかな声が呟く。

「そなたが、かようなことを申すとは――立派になったな、青星あおぼし

「いいえ、まだ至らぬところばかりでございます。父上には、もうしばらく、御帳台に居座っていただきませんと」

 元服して一年半。髪を上げたならば、駄々ばかりこねてはいられない。父の態度に思うところは多くあったが、反発する理由にはならないと、考えを改めたのだ。

 金色こんじきの瞳が、淡い微笑に細まる。枯れた指が、そっと髪に触れる。

「……そなたの、この姿を……石蕗つわぶきに、見せてやりたかった……」

「父上……」

 あまりに早く逝ってしまった母。己が生まれたせいで、儚くなってしまった。

「青星よ……まこと、すまぬことをした……そなたが生まれた時の占は、あまりに過酷であったのだ――臣籍にくだれば、思うまま、生きられたものを……」

 手を重ね、頬を寄せる。温かく微笑んで、柔らかく告げる。

「父上の、最も御側近くにいられて、幸せにございます。臣下となれば、こうしてお見舞い差し上げることも叶いませぬゆえ」

「嬉しいことを申す……」

 きらきらと輝く、金色の瞳。しかし、おもむろに閉じていく。息を大きく吸って、かすれた声が囁く。

「……いささか疲れた……少し、やすむ……」

「承知いたしました――どうかくれぐれも、ご自愛あそばされませ」

 手をふすまの中に入れ、挨拶を告げる。覇気なく呼吸する寝顔。削げた頬が、痛ましい。

 健やかな姿を再び見られるよう、心から願って、帳台をあとにした。


 しんしんと降る雪の中、すすり泣く数多の声が響く。

 痩せた胸が、ひどく緩慢に上下する。まるで命の締めくくりのように、静かに、ゆっくりと速度を落としていく。

 父の温かな手を握ったまま、霞んだ金色の瞳を見つめる。

 筋ばった喉が、深く吸って、言葉を紡ぐ。

「……我が一の子よ……強く生きよ……宿命さだめはあろうとも、ひとつではない……己の、進むべき道を……過つな……」

「はい、父上。御言葉、胸に刻みます」

 父が、微かに頷く。そして、虚空に目を向けると、穏やかに微笑んだ。

「ああ、石蕗――参ったか……」

 幸せに細まった目尻から、一粒、涙がこぼれる。ゆっくりと瞬いて、誇らしげな声が語る。

「見よ。立派な雄子おのこであろう……そなたが、命を賭して生んだ子ぞ。我が愛でたる、自慢の子よ」

 はらはらと、涙が頬を伝っていく。金色の瞳が、不意に輝いて、優しく笑む。

「……どうか、幸せに――」

 途端、光が父の身体を包み、急速に集束していく。

 毛並みの乱れた、白銀の狼。もはや、似姿を保つことすら、叶わない。

 化身して寄り添いながら、ひたすらに鼻面を舐める。子供のように甘え啼き、鼻を擦りつけた。

 声もなく、それでも微かに、耳と尾が振れる。

(――父上……父上……っ)

 しかし、やがて、ぴたりとやんだ。

 窺うように、鼻先で小突く。

 じっと見つめても、その腹が、空気で膨れることはなかった。

 鼻を、天へと向ける。大きく息を吸い、哀悼の音色を奏でる。途端、抑えきれぬ嗚咽が、あたりを覆った。

 きっと、父は、最も愛でる母とともに、幸せに在るだろう。それでも悲しくて、ただただ、遠く哭いた。


 帳台に座し、即位を言祝ことほぐ者達に相対する。父の五十日祭を終えて、忌明けしたというのに、どうにも実感が湧かない。

 信頼できる臣下は多くいる。

 しかし、はたして己に務まるものか――不安は、践祚から即位へと進むにつれて、否応なく募っていった。

「この度は、御即位の由、誠に祝着に存じます。誠心誠意、お尽くし申し上げる所存にございます」

「頼りにしているぞ、若竹わかたけ。ゆくゆくは、そなたのおいが、東宮となる。きさいとなる我が妃ともども、末永く、よしなに頼む」

「――は。この若竹、身命を賭して、お仕え申し上げます」

 御簾越しに、恭しく礼をする影が映る。たった二年前だというのに、逃げ出した春の日が、今は懐かしい。

「……朕が、そなたほどの歳であればな……」

 思わず、呟きがこぼれる。黙して促す気配。淡く微笑んで、言葉を継ぐ。

「せめて――亡き帝に、孫を抱かせて差し上げられていたらと、思ったのだ。何ひとつ……お返しできなかった」

 占の示した過ちの道へと進まぬよう、父は心を砕いていた。その親心を理解せず、勝手な空想で、自ら遠ざけてしまった。

 もっと寄り添って、もっと語らいたかった。

 春の野山を駆け回り、夏の川で水浴びをし、秋の狩りで競い合い、冬の雪原で奏でたかった。ともに丸まりくっついて、昼寝でもしたら、どんなにか幸せだっただろう。

 視界が滲んできて、唾を飲み込む。静かな声が、おもむろに語る。

「それならば、これからお生まれになる御子様に、お返し賜りませ」

 はっと顔を上げる。清廉な顔が、柔和に微笑んでいる。

「主上の為さりたかったことを、父として、為しあさばされませ。それが、さきの帝への手向けとなりましょう」

 こぼれた粒を、指先で拭う。鼻をすすると、明瞭に告げた。

「――そうであるな。そなたは、やはり頼りになる。礼を申すぞ」

「主上が御幼少であらせられた頃より、御側で、お仕え申し上げた身なれば」

 全く謙遜のない返答。吹き出しそうになるのを、必死にこらえる。息を詰めすぎたせいで、浮かんだ涙を払う。

「ああ、まこと――そなたは、そうでなくてはな」

「畏れ多きことにございます」

 恭しくも、仰々しい礼。それもまたおかしくて、久しぶりに、心から笑った。


 小袖を着て、しとうずと緋色の長袴を履き、ひとえを羽織る。重ねたうちぎの上に、打衣うちぎぬ表着うわぎ、そして唐衣からきぬを加え、さらに領巾ひれを肩にかける。

 ずっしりとした重みが、上半身にかかる。結い上げた髪に、宝冠も戴いているから、首が縮まりそうだ。

 しかし、心は晴れやかだった。無事に子供を抜けた証。とうとう成巫せいふするのだ。

 衵扇あこめおうぎを手にし、碁盤に上る。向かい合った母の、見上げる顔が、幸せに微笑む。

「あなたの腰結こしゆいをする日が来るなんて――時が経つのは、まこと、早いものですね」

 母の手によって、裳の小腰こごしが締められ、ついに完成する。

 降りて座すると、居住まいを正して、丁重にこうべを垂れた。

「母上様。十四年の長きにわたり、お育てくださいましたこと、誠に感謝申し上げます。これよりは巫子みことして、より一層励む所存でございますので、何卒お導きくださいますよう、お願い申し上げます」

白梅しらうめ――あなたこそは、次の大御巫おおみこ。期待していますよ」

 慈しみに満ちた、優しい母の面立ち。温かく微笑み合う。

 ふと、呼ぶ声がして、耳を傾ける。心に届く、玲瓏な響き。はっきりと、形を為す。

吾子あこよ。そなたの晴れ姿を、吾にも見せよ」

「――ただちに。大御神おおみかみ様」

 巻き上げて留めた御簾をくぐり、簀子縁へと進み出る。溢れんばかりに光をまとった姿に出会う。

「なんとまあ、愛らしきことよ。まこと、めでたい。――しらはぎよ。よくぞ、ここまで育て上げた。そなたに託したかいがあった」

「誠に畏れ多いことにございます。子を育てる母の喜びを賜りましたこと、心より、感謝申し上げます」

 母の露草色の瞳が、潤んで煌めく。寄り添って、尊い姿を仰ぐ。

 先日の帝の崩御により、青星が即位した。大御巫になった暁には、また顔を合わせることとなる。

 よき導き手となり、青星の助けとなれたら――民の暮らしが、よき政によって、幸せなものとなったら、どんなにか素敵だろう。

 母と、手を重ね合う。貴い光を浴びながら、幸福に溢れたひとときを過ごした。

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