二の巻
ためらい
託宣を聴き終えると、父が、おもむろに口を開いた。
「
「もう、そのような御歳で――子供の成長というものは、まこと、早いものでございますね」
慈しみ深い面立ちが、こちらに向く。
優しい微笑み。しかし、その瞳は、何かを見透かすような
「よろしいでしょう。
「有難く存じます。よろしく頼みます」
父とともに、頭を下げる。暗澹たる思いで、床の木目を見つめた。
常とは異なり、
気もそぞろになる芳香。思わず、尾が揺らめく。
この四年、折々の参拝日を、指折り数えて、待ち望んでいた。それもこれも、
他愛ない話をして、庭の樹々や草花を愛でる。ただそれだけで、幸せだった。かけがえのない、大切なひとときだった。
元服しても、忍び込めはするだろう。しかし、白梅もいずれ、
互いに子供でなくなった、その時――露呈すれば、白梅は、社にいられなくなる。化身できない身では、生きる
春の麗らかな日差しに輝く、白い姿。近づけば、可憐な顔に、柔和な笑みが広がった。
「ごきげんうるわしゅうございます、
「白梅様、ごきげんよう」
いつもと変わらない挨拶。髪を上げれば、もはや叶わない光景。
淡くわななく息を飲み込む。
「――お願いがございます」
瞬く、長い純白の睫毛。ほのかな声が応じる。
「わたくしにできますことなら、何なりと」
「あなたを――妻にむかえたいのです」
ずっと、ともにいられる方法。
たとえ力を失っても、東宮妃ならば、全く問題にはならない。即位までには、まだ時がある。じっくりと、立后の筋道を立てておけばいい。
血色の滲んだ赤い唇が、はっと震える。
その柔い膨らみに口づけたら、どんなにか甘かろう。抱き締めて、その白い肌に鼻をうずめたら――。
無意識に、一歩踏み出す。
途端、白梅が
「お許しくださいませ、青星様……いいえ、東宮様。わたくしは、
「あなたに不自由はさせません。わたしが必ず守ると、ちかいます」
純白の尾が、萎んで縮こまる。微かな声が、こぼれて告げる。
「……どうか、わたくしのことは……一時の戯れと、お捨て置きくださいませ」
「……たわむれ、などと……」
どうして言えようか。
優しい微笑みも、恥じらう愛らしさも――白梅のあらゆる全てに、心躍らぬことはないというのに。これほどに、焦がれてやまないというのに。
視界が滲む。喉が震えて、声がかすれる。
「……あなたにとって、この四年は、たわむれほどの価値しかなかったのですね。まことに、心の声が聴こえているのなら……わたしがどれほど、あなたを恋慕っているか、知っているはずでしょうに――」
ただ、日々をともに在りたい。それだけのことが、どうして叶わないのだろう。
白梅は、
――これほどにも、恋しくてたまらないのに。
「ああ、おうらみします、白梅様! わたしには、ただあなただけと、願っていましたのに!」
弾けて絶叫する。駆け出すまま、板戸を引き開け、似姿を放り出す。
「――東宮様……!」
若竹の呼び声。引き離して、森へと分け入る。
(白梅! 白梅っ! ああ、どうして……!)
遠く、悲泣に吠える。ひたすらに、冷たい樹々を駆け抜けた。
板張りの床に、染み込んでいく雫を見つめる。
涙が、止まらなかった。四年もの間、ずっと恋慕ってきた、かの心を、酷く傷つけたのだ。止まるはずがない。
しかし、ありのままを語るわけにはいかなかった。青星はまだ東宮で、己もまた、修練中の
泣きじゃくり、恋しさに身を震わす。もし、高貴な姫であったならと、空しい願いが、胸を苛む。
(……でも、数多いる姫君と
青星の語る、絢爛豪華で雅な暮らし。
只者並みに、憧れは募っても、静かな日々に慣れた身では、遠く感じられた。所詮は、卑しい己が身だった。
心を振り絞って、ただただ泣く。このまま枯れてしまえばいいとさえ思う。
と、呼び声が、鼓膜をかすめる。玲瓏に響く音色。耳を立てれば、心に、深く聴こえてくる。
「――
廂から出て、簀子縁へと進む。
まばゆい空に、燦然と輝く尊い姿が、浮かんでいた。
「……
美しい、という言葉だけでは足りないほどに、貴い景色。
慈しみ深い声が、優しく語る。
「おお、吾子よ――なんと哀れな。
泣き濡れた心の声が、胸に立ち上る。
明らかに、言動を間違えた。もっと、よく立ち振る舞えていたら、笑い合って、別れられたかもしれないのに。
「吾が愛でたる子よ。ほれ、吾が
光輝く細腕が伸び、柔らかく豊かな胸に収まる。白い指先が、はらはらとこぼれゆく雫を、丁寧に拭っていく。
「そう泣くでない。――考えてもみよ。そなたらは、大御巫と帝となる者。折々に顔を合わせ、語らうこともできよう。いかなる争いにも巻き込まれず、ただ心のみ、通わせられるのだ。なんと清く、美しきことよ」
凛々しい、あの笑顔。心の華やぐ、あの涼やかな声。
この社でなら、誰憚りなく、言葉を交わせる。託宣ののちの、ほんの
皓々と照る瞳を見つめる。喜びに潤んだ視界で、尊い顔を拝する。
「まこと、愛らしき微笑みよ」
満足げな笑み。なめらかで暖かな手が、頬に触れる。
「日々、健やかに過ごせ――いとしき吾子よ」
柔らかな唇が降り注ぐ。
光る息吹きとともに、尊い力が、身の内に染み渡っていく。満たされて、歓喜に打ち震える。
「吾は、常にそなたを見守っている。それもこれも、そなたを愛でるゆえ。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
おもむろに、貴い姿が遠のいていく。
心地よさに溶けながら、輝く美しい光を見送った。
丸まったまま、ぼんやりと樹々を眺める。新芽の萌え出た枝が、今は橙色に染まっている。
もう、このまま、いずこかへ逃げてしまおうか。
狩りさえできれば、喰うには困らない。縄張り荒らしは掟破りだが、己だけなら、なんとかなるだろう。衣も、家も、獣の姿なら不要だ。
そう、車を
(……いっそ、だれかに飼われてしまおうか)
あの玄い狼達の中には、重い咎によって、宮中を追放された貴族もいると聞く。雇われるために、毛色を変える染料まで売っている、と。
そうして、密かに、家族を匿うこともあるらしい。
買う金はなくとも、働き手のほしい飼い主は、きっと賄うだろう。その借金を返しながら、命尽きるまで、過ごせればいい。
ふと、若竹の遠吠えが聞こえる。強く伸びやかな発声。はぐれた者を呼ぶ時の音色だ。これでもう、何回目だろう。
ずっと、探してくれている。それも、
その忠誠には、せめて報いてやらなければならない。発つならば、別れを告げてからだ。
ただ、無駄に吠えたせいで、喉がからからだった。それに、まだ練習が足りなくて、頼りないのだ。届くかは、微妙なところだった。
(……父上のように、立派にできたら……)
群れの先頭に立ち、鼻面を高く掲げて奏でる様は、まさに
また、ひと啼き。確実に、近づいている。匂いも追いつつ、進んでいるのだろう。
若竹が吠えて、父が痕跡を嗅いで――そんな、詮のない想像が、頭に浮かぶ。
あの父が、わざわざ道理を踏み外してまで、探すわけがない。替えは、いくらでもいるのだから。
頭をもたげ、鼻面を空に向ける。
微かに漂ってくる、闊達な匂い。それ以外は、小鳥のさえずりさえも、生き物の気配は、何ひとつ感じられなかった。
(……ここは、なんと冷たいのだろう……)
清らかだが、潔白で、一点の穢れも赦されない。そんな命など、あるはずがないのに。
可憐で控えめな微笑みが、心に浮かぶ。
確かに、白梅ならば、当てはまるかもしれない。
(もはや、会うこともない……あの、喜びに満ちたひとときは――)
悲しく、鼻を鳴らす。あれほど啼いたのに、切なさは増すばかりだ。一体、何を思い違えていたのだろう。
近くで、若竹の呼び声が聞こえる。
喉を振り絞り、かろうじて、あおと吠える。情けない音色だが、この距離ならば、届くはずだ。
はたして、灰銀の狼が現れた。荒い呼吸を繰り返しながら、駆けてくる。
『――東宮様!』
慮るひと吠え。よく知った、夏の日向の匂い。
途端、安堵が全身を包む。窺うように寄ってきた鼻に、鼻を擦りつける。甘えて啼きながら、鼻面を必死に舐める。
『若竹っ……若竹……!』
されるがまま、若竹は、何も吠えない。ただ、腰を下ろして、そっと鼻面を差し出した。
大きく口を開け、甘噛みする。それだけで、冷えた悲しみが、和らいでいった。離れて再び、鼻面を擦り寄せ、ひたすら舐める。
思うさま、ひとしきり終えると、若竹が静かに啼いた。
『御無事で、誠にようございました。
たまらず、子供のような啼き声を出す。
優しい色を宿す、
初夏の爽やかな風が、廂を吹き抜ける。頬をさする、瑞々しさ。しかし、東宮の居所であるこの薫風舎は、冷気に包まれていた。
父の静かな顔と、相対する。用向きは知っていたものの、いささか緊張する。
「元服の日取りが決まった。
「承知いたしました。よろしくお取り計らいいただき、誠にありがとうございます」
耳は立てたまま、尾をきっちり腰に巻きつけ、礼をする。
父は、ただ頷いて、日づけを告げた。そして、控えている東宮宣旨に、万事よろしく頼むと、淡々と言い置くと、あっという間に立ち退いた。
すっくと天を衝く、白銀の尾。威厳に満ちた、しかし冷たい背中。
今さら、親子の情など、期待していない。それでも、おぼろげに心がざらついた。
温まりもしなかった
「まこと、めでたきことにございます。
「
「当然にございましょう。主上と
ほっと、顔が緩む。
この
都には、慕ってくれる者達が、数多いる。その思いに寄り添うことこそ、己の為すべきことなのだ。
生まれた瞬間から、確約されていたも同然の妃。
ずっと、所詮は政の道具だと、思っていた。しかし、せっかく
(よき夫となろう……父上と母上のように――みなの心が、はなやぐ仲に……)
薫風が、柔らかく頬を撫でる。
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