第37話 ルナの提案
<ルナ視点>
夕方の薄明かりが窓から差し込む中、私はソファに寝転がっていた。
「燿、排水溝掃除してくれない?」
なんとなく、そんなことを口にした。
もちろん冗談のつもりだった。普通なら「自分でやれよ」と一蹴されるだろうし、それを期待していた部分もある。
けれど、耀は意外にも「ああ、分かった」と呟いて、すぐにシンクへ向かったのだ。
「……ホントにやるの?」
半信半疑の私は、ソファから身を起こし、彼の背中を見つめる。
「頼まれたんだから仕方ないだろ。」
面倒くさそうに言いながらも、その横顔にはどこか真剣な表情が浮かんでいた。
(こんなこと頼んで、本当にやるなんて思わなかったんだけど……。)
気付けば、彼がシンクの下にかがみ込んで排水溝を覗き込む姿に見入っていた。
彼の背中は無防備で、何故か頼もしさを感じさせる。
それが妙に胸を締め付けた。
「なぁ……これ、ヤバくないか?」
シンクの奥から彼の声が聞こえる。
ギクリとした。普段からサボっていることがバレたのだ。
「普通でしょ」
そう言ったものの、確かに少し放置していたのは事実だ。
「これ、普通じゃねぇよ。さすがに手ごわいな……。」
彼はため息をつき、スポンジで擦り始めた。
ゴシゴシと音が響くたびに、その真剣な表情が横顔に刻まれていく。
私はクッションを抱きながら、それを黙って見つめていた。
彼のゴム手袋越しの手つきは、どこか職人のような丁寧さがあった。
(何でこんなに一生懸命なんだろ)
「……ねぇ、無理そうならやめてもいいのよ?」
思わずそう口にしてしまった。
「いや、これを見過ごすのは無理だろ。俺の性分的に気になるし。」
彼の返事は予想外にあっさりしていて、それが余計に胸をざわつかせる。
(ただ頼んだだけなのに……こんなに真面目に取り組むなんて)
彼の姿を見ていると、不思議と自分が恥ずかしくなってきた。
適当に頼んでしまったことが申し訳なく思えてくる。
そのうち、耀は立ち上がってドラッグストアに行くと言い出した。
「え、わざわざ行くの?」
私が驚くと、彼は肩をすくめて言った。
「これじゃ埒があかない。専用の洗剤とか必要だろ。」
そう言い残して、彼はすぐに部屋を出て行った。
(本当に行くんだ……)
彼がいなくなった後の静かな部屋。
私は一人ぼんやりとその背中を思い返していた。
普段の口調は軽いけど、何事にも真剣に向き合うその姿勢が、どこか眩しく感じられた。
——30分後、彼は戦闘力の高そうな掃除用具を手に戻ってきた。
「随分買い込んできたわね」
「当然だろ。どうせやるなら完璧にしたいしな」
彼は笑いながら言うと、再びシンクの下にしゃがみ込んだ。
ゴム手袋をはめ、専用洗剤を吹き付ける。
シュワシュワと音を立てながら泡が広がり、それをブラシで擦る彼の手つきは、どこか器用で無駄がなかった。
「よし……これでどうだ」
黙々と作業する彼の姿に、私は思わず「ありがとう」と呟きそうになった。
けれど、それを飲み込む代わりに軽口を叩く。
「なんだかプロみたいね。」
「プロって……何のプロだよ。」
彼は苦笑しながらも手を動かし続ける。
(本当に不器用な人だな……でも、こういうところがいいなって思うのかも)
そんな自分の考えに驚き、慌てて視線を逸らす。
胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。
「終わったぞ」
耀の声に、私は顔を上げる。
「え、もう?」
覗き込むと、そこにはピカピカに輝く排水溝があった。
「こんなに綺麗になるんだ……」
「当たり前だろ。ちゃんとやったんだから」
彼はゴム手袋を外しながら、少し得意げに笑った。
その笑顔が、なんだか眩しくて目を逸らしたくなった。
「ありがとう。本当に助かったわ」
素直にそう言葉を紡ぐと、彼は「ああ」とだけ答えた。
(やっぱり、この人って不器用だけど優しいんだな。)
いつもは軽口ばかり叩いている彼だけど、こうして一生懸命な姿を見ると、不思議と胸が温かくなる。それが何の感情なのか、私はまだ自分の中で整理がついていなかった。
(でも、これがずっと続いてくれたらいいな……なんて、思っちゃダメよね)
排水溝の輝きに、そんな儚い願いを託す自分が少しだけ滑稽に思えた。
(この人、なんで私なんかのために……)
そう考えると、言葉にしにくい気持ちが胸の中で膨らむのを感じた。
普段なら絶対に口にしないようなことが、今なら言えるんじゃないかと思えた。
「……ねぇ、耀」
私は意を決して口を開いた。
彼が「ん?」と振り返る。
顔には排水溝掃除を終えた達成感がにじんでいた。
「一緒に住まない?」
その言葉を口にした瞬間、私の頬がほんのり赤く染まった。
「は……?」
耀はまるで聞き間違いをしたかのような表情で固まった。
<燿視点>
「……ねぇ、燿。一緒に住まない?」
唐突に出た提案に、俺の思考は停止した。
「えっと、どういうことだ?」
「だ、だから……一緒に住まない?」
ルナは少し視線を逸らしながら、もう一度繰り返した。
「いやいや、なんで急にそんな話になるんだよ!」
俺は動揺を隠しきれず、大きめの声を上げた。
「だって……」
ルナはうつむきながら、小さな声で続ける。
「アンタ、家事もちゃんとやるし、私よりしっかりしてるし……一緒に住めば、お互い楽じゃない?」
その理由に俺は思わずため息をついた。
「楽って……俺はお前の家政婦じゃないんだぞ?」
そう言いつつも、どこか真剣に考えてしまう自分がいることに気付いた。
ルナは不機嫌そうに唇を尖らせる。
「だって契約とか、怜ちゃんから私の面倒を見てって言われたでしょ?」
「そりゃ言われたけどさ、一緒に住むなんて考えてなかったし……」
どうしたらいいかわからず言い訳ばかり並べた。
でも、一番気になることがある。
「もしかして、俺に悪いと思って……?」
「別にそんな意味で言ったわけじゃないし! 私だって、少しは手伝うから……」
声がどんどん小さくなっていく。
「お前なぁ……」
俺は頭をかきながら困惑した表情を浮かべた。
しかし、彼女はコロッと表情を変えて言うのだ。
「じょ、冗談だってば!」
「え?」
ルナは軽く笑いながら言ったが、その笑顔はどこかぎこちない。
「あはは、ごめんって。なんとなく、気分で聞いてみただけだから♪」
その態度に俺は疑ってしまう。
(冗談……か?)
俺は心の中で呟いたが、彼女の顔を見る限り、完全にそうとは言い切れないような気がした。ルナが視線をそらし、耳まで赤くなっているのを見て、俺は妙に胸がざわついた。
「……本当に冗談?」
試しに問いかけてみると、ルナは一瞬驚いたような顔をした後、勢いよく頷いた。
「そ、そうよ! 冗談に決まってるでしょ! ほら、アンタも疲れたでしょ? ソファで休んでていいから!」
早口でまくしたてる彼女に、俺は少しだけ笑みを漏らした。
「そっか……ならいいけど」
そう言いながら、彼はソファに腰を下ろした。
(冗談にしては、なんだか妙に本気っぽかったけどな……)
そのまま天井を見上げる耀の横で、ルナはキッチンに向かいながら自分の頬に手を当てた。鼓動が早まっているのが自分でも分かる。
「なんで私、あんなこと言っちゃったんだろ……」
「えっ?」
「あっ……いや、なんでもない!」
ルナは自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返している。
一方の俺は、彼女の反応がどこか優しかったことを思い出してしまい、余計に顔が熱くなっていくのだった。
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