第36話 掃除
「これで一通りの指導は終わりね」
ルナが眼鏡を外しながら言った。
目元に少し疲れが見えるのが、妙に新鮮だった。
俺は教わったことを頭の中で整理しようとしたが、どうにも考えがまとまらない。
「はぁ……ありがとう。なんか、大変だったな」
「本当よ。あんた、どんだけ話し下手なのよ。これで大学生なんて、先が思いやられるわね」
「ほっとけ」
そう言い返しながらも、俺は納得していた。
確かにルナの指導がなかったら、発表どころかゼミの資料を見直す気力すらなかっただろう。
「じゃあ、お礼に何かやりなさいよ」
ルナはソファに深く腰を下ろし、クッションを抱きかかえながら言った。その無邪気な態度に、俺は少しだけ呆れた。
「お礼って……何だよ?」
また食事を作れって言うのだろう。
いや、たまには趣向を凝らして一発芸でもしろって言わないよな?
ルナは少し考えた後、告げた。
「例えばそうね……あ、排水溝が最近詰まり気味でさ。掃除してくれると助かるわ」
「排水溝……?」
一瞬耳を疑ったが、ルナの目は真剣だった。
どうやら冗談ではないらしい。
「そんなので良ければ」
「ありがとう、やっぱり頼りになるわ」
そう言われた瞬間、断る選択肢は消えていた。
いざ、排水溝のフタを外し、ゴム手袋を装着して覗き込む。
そこには予想以上に頑固な汚れがこびりついており、長い時間放置されていた痕跡が如実に見て取れた。
「うわ……これ、なかなかの強敵だな」
暗い穴の中から何かがこちらを覗いているようで、思わず顔をしかめる。
だけど、こんなことで音を上げる俺じゃない。
スポンジと古歯ブラシで擦ってみる。
「どう……結構酷いでしょ?」
「そ、そうだな」
そんなことない……と言ってやりたかったが、汚れはびくともしない。
洗剤をたっぷりかけてみるも、滑りが良くなっただけで汚れ自体は頑として居座っている。
「これじゃラチがあかねぇ……」
「やっぱりこんなのムリよね」
「いや、諦めるのはまだ早い」
俺は立ち上がり、洗剤のボトルを手に持ちながら周囲を見回した。
流し台の下や収納棚に追加の掃除用具は見当たらない。
そこで決意した。
「ちょっとドラッグストア行ってくるわ」
そうルナに告げると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。
「えっ、わざわざ買いに行くの?」
「当たり前だろ。このまま放置してたら、いずれ水が詰まって大変なことになるぞ」
厳しいことを言ってしまったかもしれないが、事実だ。
だけど、ルナは感謝をしてくれる。
「ふーん……まぁ、助かるけど。ありがと」
ルナは軽く手を振って見送る。
その笑顔に見合った爽やかさとは、ほど遠い作業に挑むことになるのだ。
少しだけため息をつきつつも、俺は近くのドラッグストアへと向かった。
…………
……
「おかえり、どうだった?」
「あぁ、良さそうなモノ結構買っちゃったな」
帰宅後、袋を置いてルナに見せびらかす。
「最近は便利なモノがいっぱいあって、こういうの買ってみたかったんだよなー」
「へぇ、詳しいのね」
ルナに見せびらかすように説明すると、興味津々に聞いてくれる。
「おっと、掃除するの忘れないうちにやらないとな」
そう言い、戦闘力の高そうな掃除用具一式を手に再び排水溝に挑む。
専用ブラシに加え、強力な洗浄剤が仲間に加わったことで、汚れとの戦いに本腰を入れることができるのだ。
「良い音ね」
「お、分かるか? 掃除してる時の醍醐味だよな」
洗浄剤を汚れに吹き付けると、シュワシュワと音を立てて反応が始まる。
化学反応の泡が汚れを侵食し始める様子を見ていると、少しだけ希望が湧いてきた。
専用ブラシを握り、細かい隙間まで念入りに擦り続ける。
「おー、意外と取れるもんだな……」
一部の汚れが剥がれ落ちていく様子に達成感を覚えながらも、まだ残る頑固な箇所にはさらに力を入れて挑む。
汗が額に滲み、手袋の中が蒸れて不快感が増す中。
ようやく最後の汚れが取り除かれた。
ピカピカになった排水溝を見下ろし、思わず「よしっ」と小さくガッツポーズを取る。
「これで……うん!」
「どう? 終わった?」
いつの間にか背後に立っていたルナが、興味津々といった様子で排水溝を覗き込む。
「もちろんだ、見てみろ完璧だろ?」
ガンコな黒ずみや、ぬめりが無くなりツヤで輝いているようにさえ見える。
自分で言うのもなんだが、これ以上ない仕上がるだと思った。
「うん、ありがとう。すごく綺麗になってるわ」
ルナは心底感謝しているようで、俺の労力が無駄にならなかったと感じる瞬間だった。
排水溝掃除という地味な作業だったが、その成果に少しだけ誇らしい気持ちになる。
そして、掃除の片づけを始めると、ルナがぽつりと言った。
「燿、やっぱりあんたって頼りになるわね」
「……そうか?」
なにかのスイッチが入ったのか、俺を褒めてくれる。
「うん。燿が苦手だっていう話し方だけど、私も練習もできたし、掃除までしてくれる男なんて、なかなかいないわよ」
「そりゃ……どうも」
俺は少し照れくさそうに返事をした。
褒められて少々むずがゆい気持ちになりつつも、その空気が心地よくて、しばらく無言で座り続けてしまう。
夕方——窓から射し込む橙色の光が部屋を照らしていた。
穏やかな静けさの中、ルナがそっと近づいてきた。
いつもは堂々とした態度の彼女が、どこかためらいがちに立ち止まる。
「あのさ……また何か頼んでもいい?」
彼女の声が小さく、そして慎重だった。
その控えめなトーンに、俺は思わず視線を向ける。
「何だよ、今度は何をさせる気だ?」
軽くからかうように返したつもりだったが、彼女の真剣な表情を見て、少し後悔した。
「また……料理作ってよ」
ルナは少し俯きながら、ぽつりと呟いた。
その言葉には、どこか寂しさの色が混ざっている。
俺は戸惑いながらも、彼女の顔をじっと見つめた。
普段は強気で自信満々な彼女が、こうして頼りなく見えるのは珍しい。
そして、その儚さに心がざわつく。
「もちろん……いいぞ」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「ほんと?」
ルナが顔を上げ、こちらを見つめてきた。
目には微かな期待が宿っている。
「ああ。まぁ、気が向いたらな。」
照れ隠しのように軽く答えるが、俺の内心は少し動揺していた。
すると、ルナの唇がほんの少しだけ緩む。
嬉しそうに微笑む彼女の表情は、いつもとは違って柔らかくて温かい。
「ありがと」
その一言は、いつものルナよりもずっと素直だった。
その笑顔に釣られるように、俺も自然と笑みを浮かべていた。何の変哲もない言葉のやり取りだったはずなのに、胸の奥にじんわりと暖かさが広がっていく。
この瞬間、俺たちの間に流れる穏やかな時間が心地よく感じられた。
ルナの頼みを聞くことで、彼女の心に少しでも寄り添えたのなら、それだけで十分だった。
なのに、まさか、ルナからこのような提案をされるなんて思いもよらなかった——
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