第35話 指導

「まずは基本的なところからね。話し方のコツっていうのは、実はそんなに難しいものじゃないのよ。」


 そう言いながら、ルナはメガネを掛け、手に指し棒を持って教師然としたポーズを取る。白いシャツとタイトなスカートを身にまとい、その動きに合わせて布地がしなやかな曲線を描く。立ち姿のバランスが絶妙で、自然と目が引き寄せられた。


「なぁルナ」

「なに、質問は後で良いかしら?」

「いや……その格好じゃないとダメなのか?」


 質問はダメと言われたが、尋ねるも答えてくれた。


「こうした方が雰囲気出るでしょ? どうせ分からないことだらけなんだから、私が先生になって教えてあげるわ。」


 軽く肩をすくめる仕草まで様になっている。

 シャツの袖を少しまくり上げた腕は細く引き締まっていて、その指先が棒の先端を軽くなぞるたびに、どこか優雅さすら感じる。


「ほら、ちゃんと集中して聞いてなさいよ。」


 ルナの叱咤に、慌てて視線を資料に戻す。

 だが、その立ち姿の存在感が頭にこびりついて離れない。ピンと背筋を伸ばしながらも自然体な立ち方が、彼女のスタイルの良さを一層引き立てている。


「大事なのは、話のリズムと聞き手を引き込む間の取り方。それから……燿、どこ見てるの?」


 ルナがじっと俺を見つめる。ハッとして再び資料を見直すが、顔が熱くなっているのが自分でも分かった。


「い、いや、ちゃんと聞いてるって」

「ふーん。そう? まぁ、いいけど」


 ルナは小さく笑い、指し棒を机の上に置いた。

 その一連の動きが、妙に洗練されていて目を奪われる。


 そういえば、ルナって俺の奥さんなんだよな……。

 普段は無邪気な印象が強い彼女だけど、こうして見ると本当に隙がない。気付けば、また視線が彼女に吸い寄せられてしまっていた。


「……まぁいいわ、話に戻るわね」


 そう言うと、自分の机から小さなノートを取り出した。それはどうやら彼女が配信用に使っている台本らしい。


「台本って……お前、配信でアドリブばっかりだと思ってたけど、こういうのちゃんと用意してるんだな」


 俺が感心したように言うと、ルナはニヤリと笑った。


「当然でしょ。いきなり何も考えずに喋ってたら、視聴者が離れていくわ。最低限の準備はしておくのがプロとしての基本よ」


 彼女の言葉に、俺は少し驚いた。

 普段のルナの態度からは想像もできないほどの計画性だ。


「具体的には、どうやって作ってるんだ?」


 やはり自信があるのか、鼻を鳴らして答えてくれる。


「例えば、話したい内容をまず箇条書きにするの。こういう流れで話すとか、ここで笑いを入れるとか、自分なりにポイントを押さえておくのよ」

「ほうほう……」


 彼女はノートを開き、書かれている内容を指差す。

 そこにはびっしりとメモが書き込まれていた。

 流れるような文字の横には、小さなイラストや記号も描かれていて、彼女らしい工夫が感じられる。


「まぁイラストは必要ないだろうけど、絵コンテだと思ってもいいわ。このメモを元にして、本番ではアドリブを加えながら進めるの。要は保険みたいなものね」

「へぇ……結構細かいんだな。俺なんか、台本とか考えたこともないよ」


 俺が苦笑いすると、ルナはため息をついた。


「だから失敗するのよ。特に緊張しやすい人は、話の流れを忘れた時に戻れるポイントが必要なの」

「そっか、話し方は奥が深いんだな……」


 彼女の指摘に、俺は少し肩をすぼめた。

 確かに、前回の発表では準備不足が原因で大失敗した。

 それを思い出すだけで、胃がキリキリと痛む。


「でもさ、配信とゼミの発表って全然違うだろ? 視聴者と学生じゃ、聞いてる人の求めるものも違うし……」


 ゼミの発表なんて、堅苦しい内容ばかりだ。

 だけど、ルナの配信は基本エンタメ。誰もが愉しさを求めてやってくるのだから、空気感が違うはずだと思った。


 俺の疑問に、ルナは少し考え込んだ。


「確かにそうね……でも、本質的な部分は一緒だと思うわ」

「本質的な部分?」

「そう。話す相手をどう楽しませるか、どう興味を引くかってことよ」


 ルナは少し身を乗り出しながら続ける。


「例えば、ゼミの発表だったら、単にデータを羅列するんじゃなくて、それがどれだけ面白いか、重要かを分かりやすく伝えるのが大事よね?」

「まぁ、そうだけど……」

「だったら、そのために小さな工夫をすればいいのよ。配信と同じように、ちょっとした例え話を入れるとか、聞き手が飽きないようにアクセントを加えるとかね」

「な、なるほど……」


 彼女の言葉に、俺は少し目を見開いた。


 確かに、データを読み上げて事実を述べるだけではつまらない。資料を見れば誰でも分かる。

 要するに、ただの報告会になってしまうのだ。


「それで例え話か……そういえば、ルナも配信でよくやってるよな」

「そうよ。例えば、難しい話をするときは、視聴者が身近に感じられるような例を出すの。たとえばゲームの話題とかね」

「なるほど……確かにそれなら分かりやすいかもな」


 まぁ、連想ゲームのようなものだろう。

 ルナは簡単には言うが、それがどれだけ難しいのか分かっていないんだろうな、とも感じてしまう。


 だけど、彼女の話を聞きながら、俺は少しずつ自分の発表のイメージを膨らませていく。


「じゃあ、実際にやってみましょうか」

「え、もうやるのか?」

「当たり前じゃない、インプットよりもアウトプットが大事なのよ」


 ルナは机の上にノートを広げ、ペンを持って俺に向き直った。

 彼女の真剣な表情に、少し気後れしながらも俺は資料を手に取る。


「まずは、発表で話す内容を箇条書きにしてみて。どんな順番で話すのか、大まかな流れを考えるの」

「箇条書きって言っても、どこから手をつければいいんだ……」


 そう言いながらペンを走らせるが、なかなか思うように進まない。

 ルナが隣に座り、ノートを覗き込んでくる。


「どれどれ、ふぅん……?」


 彼女の顔がすぐ近くにあることに気付いた瞬間、心臓が妙に早くなるのを感じた。


「ちょっと貸して。こういう時は、まず大きな流れから書き出すの」


 そう言って彼女が俺の手からペンを取ろうとした時、指先が触れ合った。


「「あっ」」


 思わず手を引っ込めると、ルナも一瞬だけ動きを止める。


「……ごめん」

「あ、いや、気にすんな」


 気まずい空気を振り払うように俺は頭を掻いた。

 だが、その一瞬で感じたルナの温もりが、なぜか頭の中に残って消えない。


 その後も、何事もなかったかのように続けた。


「ほら、ここね。この部分を最初に持ってきて、導入部分にするといいんじゃない?」


 ルナが再び身を乗り出し、ペンを動かし始める。その仕草に目を奪われながらも、俺はなんとか集中しようとする。


「で、次に研究の目的を簡単に説明して……ここで聞き手の興味を引くために、このデータを使えばいいんじゃない?」


 彼女が指差す資料に、俺も顔を近づける。ノートの上に視線を落としながら、ふと顔を上げると彼女との距離が近すぎることに気づいた。互いの呼吸が感じられるほどの距離だ。


「……。」


 一瞬、互いに視線がぶつかる。ルナの大きな瞳が揺れているのが見えた。


「あ、えっと……」


 ルナが慌てて顔をそらし、ペンを持つ手をわずかに震わせているのが分かった。俺も胸がドキドキして、言葉が出てこない。



 距離を感じながらも進む作業。

 なんとか気を取り直し、作業に集中しようとするが、妙に意識してしまう。


「こ、この資料、次はどうすればいいんだ?」


 わざとらしく資料を指差すと、ルナが頷いて答える。


「この部分は結果をまとめるところに使うといいわね。あと、聞き手が飽きないように……」


 彼女が説明を続ける間も、俺の頭の中は先ほどの触れ合いや視線の交錯でいっぱいだった。だが、それを悟られないように必死にメモを取る。


「ほら、いい感じにまとまってきたじゃない。あと少しよ。」


 ルナが少し笑顔を見せる。その笑顔に気を取られそうになるのを振り切り、俺はなんとかペンを動かし続けた。


 そして、微妙な空気を振り払って——


「できた……のか?」


 俺がノートを閉じると、ルナが満足げに頷いた。


「いいじゃない。これならしっかり伝わると思うわ」

「……ありがとう。ルナのおかげだ」


 俺が礼を言うと、彼女は少し照れくさそうに視線をそらす。


「別にいいのよ。どうせ私が気になってたんだから」


 その言葉に、また胸が熱くなる。

 この微妙な空気をどうにかしたいと思いつつ、俺は笑って答えた。


「お前、意外と世話焼きだな。」


「何よそれ。お礼を言うならもっと素直に言いなさいよ。」


 いつもの調子に戻った彼女の言葉に、俺は少し安心しつつもどこか物足りなさを感じていた。


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