第32話 帰り際
食事を終えて、俺たちはリビングのテーブルに並んで座っていた。
ルナは自分の使った箸をくるくると回しながら、どこかぼんやりした表情で食卓を見つめている。
「……ふぅ、お腹いっぱい」
小さくため息をつきながら、ルナが呟いた。
俺も食器を片付けながら彼女をちらりと見る。
「お前、そんなに食べて平気なのか?」
「はぁ……燿、女の子にそういう事言っちゃう?」
「あ、いやそういうつもりでは」
「平気だもん。ちゃんと消化するし」
ルナは少し拗ねたように言い返してきた。
申し訳ないと思いつつも、その態度が妙に可愛くて、つい口元が緩んでしまう。
「いや、別に悪いとは言ってないけどさ」
「じゃあ何よ」
「そんな美味しかったんだなと、少し嬉しく思っただけだ」
「燿が作った料理なんだから美味しいに決まってるじゃない」
どこからその自信は来るんだと苦笑しつつ、俺は言った。
「あー、ほら、食器片付けるからそこどいてくれ」
俺が促すと、ルナは面倒くさそうに立ち上がり、ソファに移動する。
食器を洗うのは俺だろうなと思っていたから、自然と俺も身体が動いていた。
片付け終えて戻ると、ルナがソファに寝転がっているのが目に入った。
クッションを抱きかかえたまま天井を見つめているその姿は、どこか気だるげで、それでいて安心しているようにも見えた。
「どうした、何ボーッとしてんだよ?」
俺が声をかけると、ルナはゆっくりと視線をこちらに向けた。
「燿ってさ、ホント優しいよね~」
「なんだ急に」
「だってご飯作ってって言ったら作ってくれるし、急に連絡しても応じてくれるし」
「そりゃあ……仮にも夫婦なんだから当然だろ」
夫婦ってこういうものじゃないだろうか。
いや、人によるのかもしれないし、俺がそういった考えに縛られているのかもしれない。
だから言い訳に近い答えを告げると、ルナは言うのだ。
「ふーん、うちで家事してくれたらいいのに」
「は?」
突然の発言に、俺は思わず間抜けな声を上げてしまう。
「だって、燿の料理美味しいし。私、家事とか苦手だから……」
「いや、俺がいちいちお前の家に来て家事するわけないだろ……」
そう言い返すと、ルナは少しだけムッとした顔をした。
「じゃあなんで今日は作ってくれたのよ」
「それはたまたま配信でルナの家に来たからだ、それ以上でも以下でもない」
なんだか下手な言い訳な気がした。
ルナは「そう」と言い、視線をこちらに向けずに言うのだ。
「……だったら、いっそ一緒に住む?」
「……は?」
さらに突拍子もない言葉が飛び出し、俺は固まってしまう。
ルナはそんな俺の反応を面白がるように、ニヤリと笑った。
「あっはは、冗談よ、冗談。そんな顔しないでよね」
「当たり前だろ……」
胸の奥が妙にざわつく。
冗談だと分かっていても、彼女の言葉が引っかかるのは何故だろうか。
そのやり取りの後、俺たちの間に微妙な沈黙が漂った。
言葉が途切れた理由が気まずさからなのか、単にお互い何を言えばいいのか分からなくなったからなのかは分からない。
ただ、静まり返った部屋の空気は妙に重く感じた。
そんな中、ルナがぽつりと呟いた。
「燿が私と一緒に配信してくれる相手じゃなくて、家事をしてくれる相手だったら……って、そんなの都合が良すぎるか」
その言葉はまるで、彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
だが、その内容が妙に引っかかった俺は、思わず口を開いた。
「なんでだよ」
自分でも理由は分からない。
ただ、なんとなくムッとしたような気持ちが言葉に滲んだ。
「はぁ……お前、そんなこと誰にでも言ってんだろ」
仮にもネットのアイドルだ。
しかも、誰にも知られていないが美少女だ。
そう言われれば、嬉しさのあまりに寄ってくる男は多数いるだろう。
だけど、ルナがぴくりと反応する。
「はぁ!? そんなわけないじゃない!」
彼女の声が跳ねるように響き、俺は驚いた。
ルナは顔を赤くして、目を大きく見開いている。
その表情が、なんとも必死すぎて、逆に俺は少し冷静になった。
「はいはい、分かってるって」
適当に流そうとした俺の言葉が、さらに彼女を苛立たせたらしい。
「分かってないし!」
ルナの抗議に、俺は思わず小さく笑ってしまった。
「おい、そんなに怒るなよ」
「怒ってないし!」
彼女の声はまだ熱っぽく、目の端が少し潤んでいるように見えた。
普段の強気な態度からは想像もつかないその姿に、胸が少しだけ痛む。
(あぁ、またやらかしたかもしれない。何でこんな言い方になるんだろうな、俺はいつも……)
俺たちはこんな風に口喧嘩みたいなやり取りをして、気づけば話を打ち切る形になってしまう。
本当はもっと違う言葉を掛けてやれたら良いのに。
だけど、俺はどう言えばいいのか分からなかった。
部屋には再び沈黙が戻った。
その沈黙が何分続いたのか分からない。
ただ、時間が止まったような、そんな不思議な感覚だけが残っていた。
「じゃあ……そろそろ遅いし、帰るわ」
部屋を出る準備をすると、ルナはこちらに駆け寄り言った。
「……今日はありがとう。もう遅いし、気を付けて帰ってね」
「おう、分かった」
だけど、どうしてだろうか。玄関までの足取りは重かった。
その時、ルナが再びぽつりと呟く。
「また……ご飯作ってね」
その声は驚くほど小さくて、寂しげだった。
いつもとは違う弱々しい声に、俺の心がぐらりと揺れた。
「……いいよ」
気づけば、自然とそんな言葉が出ていた。
ルナは驚いたようにこちらを見たが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「約束だからね」
俺も小さく頷き、彼女の部屋を後にした。
その笑顔が頭から離れず、帰り道の風がやけに冷たく感じたのは、気のせいだろうか。
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