第9話 ルナの気持ち

 足元がおぼつかず、しゃがみ込むと、耀が顔を覗き込んできた。


「なぁ、大丈夫か?」

「……大丈夫よ。」


 口ではそう言ったものの、自分の声が力なく震えているのが分かった。

 それに気づいたのか、耀はため息をついて首を振った。


「大丈夫に見えねぇよ。なぁ、とりあえず家まで送るぞ。どこに住んでんだ?」


 彼の声はいつもより真剣だった。

 普段は少しぶっきらぼうで軽い印象のある男だけど、今は違う。


「……家、ちょっと遠いのよ。わざわざ来たんだから」

「遠いって、どの辺だよ?」

「……都内の方」


 なんとか答えると、彼の顔が一瞬驚いたようにこわばる。


「都内? お前、こんな状態で都内に帰るつもりだったのか?」

「……仕方ないでしょ。ここまで来たんだから」


 自分でも無理をしているのは分かっている。

 けれど、それを言うのが悔しくて、つい反発するような声になった。


「仕方ないって、いやいや、考えろよ。お前、どう見ても帰れる状態じゃねぇだろ」

「でも……」


 言い返そうとするものの、ぐらりと視界が揺れて、再び力が抜けそうになる。


「ほら、だから無理すんなって。」


 耀が肩を貸してくれそうなそぶりを見せたけど、なんとなくその手を取るのが嫌で、少しだけ首を振った。


「だったら……安静にできる場所を探すしかないな。ネカフェとか、ホテルとか……」


 彼がそんなことを言い出した瞬間、私は反射的に眉をひそめた。


(何よそれ。やっぱり下心があるんじゃないの?)


 そう疑うのは自然な反応だと思う。

 見ず知らずの男に、そんな場所を提案されて、素直に受け入れられるわけがない。


 咄嗟に口を開く。


「それ、お金かかるでしょ? 無駄遣いはしたくないし……それにアンタ学生だし、そんな余裕ないでしょ?」

「まぁ、確かにな……」


 だけど、彼の顔をよく見ると、意外なほど真剣だった。

 ……いや、むしろ焦っているようにも見える。


(……本気で心配してるの? この私を?)


 それが分かった瞬間、自分が恥ずかしくなった。

 だって、彼の提案を聞いた途端に「下心だ」と決めつけたのは、間違いなく私の方だ。


(見ず知らずの女をここまで気遣ってくれる人なんて、普通いないわよね)


 なのに、彼は心配そうな目でこちらを見ている。

 それだけで十分なのに、さらに次の一言が私を追い詰める。


「じゃ、じゃあ……俺の家に来るか!?」

「は、はぁっ!?」


 今度は耳まで熱くなるのを感じた。


「……それ、何かイヤらしいこと考えてるんでしょ?」


 自分の声が少し震えているのが分かる。

 どうしてこんなに動揺しているのか、分からなかった。


「そ、そんなわけないだろ! お前がヤバそうだから心配してるだけだ」


 彼の即答には力がこもっていた。

 その真っ直ぐな目を見た瞬間、私は言葉を失った。


(……そう、そうよね。本当に心配してくれてるだけ。それなのに、私が変に意識してどうするのよ)


「……わかったわ。でも、変なことしたら怒るからね」


 自分でも情けないと思いながらも、そう釘を刺すしかなかった。

 彼は少し呆れたように肩をすくめて言う。


「変なことなんかしねぇよ」


 その言葉に、私はようやく安心した。

 彼の真っ直ぐな態度に、疑っていた自分が急に恥ずかしくなる。


 だけど、次の言葉でまた顔が熱くなる。


「よし、おんぶしてやるよ」

「ちょっ、何を考えてるのよ……」


 私は即座に拒否した。

 そんなの、恥ずかしくて無理に決まってるじゃない。


「強がるなって。今は無理する時じゃないだろ」


 彼の言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。

 体調が悪いのは事実だし、このまま無理して歩くのも限界がある。


(……仕方ないわね)


 しぶしぶ彼の背中に手を回すと、驚くほどあっさりと抱え上げられた。


「ったく、そんな頑張らなくていいんだよ。ちゃんと休んでくれ」

「……まぁ、案外優しいところもあるじゃん」


 彼の背中越しに聞こえる声は、不思議と安心感があった。


(……案外、居心地がいいじゃない)


 そんなことを考えながら、背中に体重を預けてしまう自分がいた。

 だが、一つだけ気に入らないことがある。


「ねぇ、さっきから“お前”って何よ」

「え?」


 彼が少し驚いた声を出す、無意識なんだろうな……まったく。

 そういう所を直せば少しは良くなるのにと思い、私はさらに言葉を続けた。


「なんか、腹立つのよね。それ、上から目線みたいで。私には“ルナ”って名前があるのよ」

「いや、別にそんなつもりで呼んでたわけじゃないけど……」


 彼は戸惑ったように言うが、私はしっかりと釘を刺す。


「だったら、私のこと“お前”とかじゃなくて、“ルナ”って呼びなさいよ」


 私たち、仮にも夫婦になったんだから。

 ——と言いたいけれど、悔しくてそんなこと死んでも言えない。


「……分かったよ。じゃあ——ルナ」


 なのに、彼の口から初めて自分の名前が出た瞬間、少しだけ胸が温かくなったのを感じた。


(……悪くないじゃない)


 自分でも信じられないくらい自然に、その言葉を受け入れている自分がいる。

 おんぶされている間も、不思議と落ち着いていられるのは彼の背中のせいだろうか。


(まったく、調子狂うわね。でも、少しだけ……安心してもいいかもしれない)


 そんなことを考えながら、私は彼の背中に身を預け続けた。


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