第8話 きっかけ

 しゃがみ込んだルナの調子は見て分かるほど悪そうだった。

 何度か声をかけたが、すぐに立ち上がれる様子もない。

 近くを行き交う人々は気にも留めず、ただ通り過ぎていく——


「なぁ、とりあえず家まで送るぞ。どこに住んでんだ?」


 そう言いながら俺は心の中で焦っていた。

 このまま放っておけるはずがない。それに、なんだかんだ言ってルナの頼りない姿を見ると、不思議と見捨てる気にはなれない。


「……家、ちょっと遠いのよ。わざわざ来たんだから」


 そう答えるルナの声は弱々しかった。

 さっきの強気な態度とは真逆で、まるで別人じゃないか。


「遠いって、どの辺だよ?」

「……都内の方」


 それを聞いて、思わず声が大きくなった。


「は、都内? お前、こんな体調で都内に帰るつもりだったのか?」


 自分でも驚くくらい苛立ちを感じている。

 いや、苛立ちじゃない……心配だ。それだけは間違いない。


「……仕方ないでしょ。わざわざここまで来たんだから」


 きっと俺に気を遣って遠くから足を運んできてくれたのだろう。

 そう思うと、いたたまれない気持ちになってくる。


「仕方ないって、いやいや、考えろよ。お前、どう見ても帰れる状態じゃねぇだろ。」

「でも……」


 俺が呆れて言うと、ルナは困ったように視線を逸らす。

 その様子を見て、俺はため息をついた。


「だったら、安静にできる場所を探すしかないな。ネカフェとか、ホテルとか……」


 自分でも思いつく限りの選択肢を挙げてみたが、どれも現実的ではない気がする。


「それ、お金かかるでしょ? 無駄遣いはしたくないし……それにアンタ学生だし、そんな余裕ないでしょ?」

「まぁ、確かにな……」


 俺は苦笑しながら同意するしかなかった。

 こんな時に金がない自分が情けない。


 だけど、俺は引き下がらなかった。


「じゃ、じゃあ……俺の家に来るか!?」

「は、はぁっ!?」


 勢いで口にしてしまったその言葉に、ルナが驚いたように顔を上げた。

 そして次の瞬間、警戒心丸出しの目つきでこちらを睨む。


「……それ、何かイヤらしいこと考えてるんでしょ?」

「そ、そんなわけないだろ! お前がヤバそうだから心配してるだけだ」


 俺は即座に否定する。だが、ルナの疑いの目は消えない。


「ほんとに?」

「当たり前だろ……俺がこんな状況で何考えるって言うんだよ」


 必死に説得する俺をルナはしばらく見つめていたが、やがてため息をついた。


「……わかったわ。でも、変なことしたら怒るからね」

「変なことなんかしねぇよ」


 一応了承を得たが、なんだか釈然としない気分だ。

 結局、信用されていないのが分かるからだろう。

 それでも、今は彼女をどうにか休ませることが優先だ。


「お前、ここまで来るのにどれくらいかかったんだ?」

「電車で1時間半くらい。そこから歩いて、あなたの家に近い場所まで来たのよ」

「1時間半も……なんでそんな無理して来たんだよ」


 俺の言葉に、ルナは一瞬だけ視線を逸らした。


「……それは……別に理由なんてないわよ」

「理由もないのにこんな無理するかよ」

「うるさいわね! そんなこと聞いてどうするのよ!」


 怒り半分、照れ隠し半分といった様子で声を上げるルナ。

 その反応に、俺はそれ以上突っ込むのをやめた。


「……まぁいいや。とりあえず今は、ちゃんと休める場所を探そう」

「ほんと、アンタって余計なお世話ばっかりね」

「お前が余計な無理をするからだろ」


 俺が言い返すと、ルナは小さくため息を吐いた。

 それでも、俺の提案を拒否しない時点で彼女も無理を感じているのだろう。


「……仕方ないわね。じゃあ、お願いするわ。ただし……」

「ただし?」


 ルナは俺をじっと睨みながら言った。


「何か変なことしたら、許さないから」


 しないって何度も言ってるのに、いつになったら信じてくれるんだ。


「分かってる、分かってるよ。心配しすぎだって」


 俺が苦笑しながら応じると、ルナはようやく肩の力を抜く。

 だが、ふらつき始める彼女の様子に気づき、俺は続けて言った。


「よし、おんぶしてやるよ」

「ちょっ、何を考えてるのよ……」


 顔を真っ赤に染めるルナだが、ただ俺は心配だった。


「強がるなって。今は無理する時じゃないだろ」

「……ほんと、しつこいわね」


 そう言いながらも、ルナはしぶしぶ俺の背中に手を回してきた。

 その腕の細さ、身体の軽さに驚きつつも、俺は歩き出した。


「ったく、そんな頑張らなくていいんだよ。ちゃんと休んでくれ」

「……まぁ、案外優しいところもあるじゃん」


 俺の背中から聞こえるその小さな声に、思わず苦笑が漏れる。


「お前が無理してるのが分かるだけだ。優しいってわけじゃねぇよ」

「ふぅん……」


 ルナのそっけない返事に少しだけ肩の力が抜けた。

 その時、彼女が突然ぽつりと呟く。


「ねぇ、さっきから“お前”って何よ」

「え?」


 俺は思わず歩みを止めそうになった。

 思わず聞き返すと、彼女は照れ隠しのように顔を逸らして言い直した。


「なんか、腹立つのよね。それ、上から目線みたいで。私には“ルナ”って名前があるのよ」


 俺の背中で彼女がわずかに動いたのが分かる。

 まるで、その言葉に込められた意味を伝えようとしているかのようだった。


「いや、別にそんなつもりで呼んでたわけじゃないけど……」


 歩みを進めながらそう返すが、頭の中では別のことを考えていた。


(“ルナ”って呼ぶのか……)


 ただ名前を呼ぶだけのことなのに、妙に重たく感じる。

 名前を呼ぶというのは、相手を特別な存在として認識する行為だ。

 少なくとも俺にとっては、ルナは婚活企画で知り合った相手で、しかもその後の展開で俺たちは結婚する羽目になったわけだが、それでも“ルナ”と呼ぶことには抵抗があった。


「だったら、私のこと“お前”とかじゃなくて、“ルナ”って呼びなさいよ」


 背中越しの声に少し強い調子が混じる。

 それが俺の中に微妙なプレッシャーを与えた。


(本当に“ルナ”って呼んでいいのか?)


 俺が彼女を「お前」と呼ぶことで、どこか一歩引いた距離感を保とうとしていたのかもしれない。でも、“ルナ”と名前を呼ぶことで、その距離が一気に縮まるような気がしていた。

 そんな変化を自分がどう受け止めればいいのか分からない。


 それでも、背中に預けられた彼女の重さが今は妙にリアルで、何かしら応えるべきだと感じた。


「……そうか。じゃあ——ルナ」


 名前を口にする瞬間、自分の声が少しだけ震えたのが分かった。

 たった一言なのに、妙に胸がざわつく。


「……」


 ルナは静かになった。

 背中越しにわずかに動いた気配があったが、何を考えているのか分からない。

 その沈黙が、逆にこちらの意識をくすぐった。


「……まぁ、悪くないわね」


 ルナが小さく呟いた。

 それだけなのに、妙に緊張が解けたような気がした。


(これで何が変わるんだろうな……)


 こんな状況にも関わらず、少しだけ俺たちの距離が縮まった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る