第6話 市役所にて

 次に向かったのは、市役所。

 俺たちは婚姻届を手に、言葉少なにカウンターへ向かっていた。

 駅前でのやり取りから一転、ルナも俺もどこか気まずそうに黙り込んでいる。


 こんな状況、普通ならもっと話し合ってから来るもんだろう。

 だが、俺たちは話し合いどころか、まともにお互いのことすら知らない。

 なのに、こんな書類を出そうとしているんだから、笑える話だ。


「こんにちは。婚姻届のご提出ですね?」


 カウンターの向こうにいた中年の職員が、にこやかな笑顔で迎えてくれた。

 いや、どうしてそんなに嬉しそうなんだよ。俺たちは全然笑顔じゃないのに。


「ええ、お願いします。」


 ルナがにっこりと作り笑いを浮かべながら答える。

 その堂々とした態度に、一瞬で俺が置いていかれる。


「あ、はい。では、こちらの用紙を確認させていただきますね」


 職員は丁寧に書類を受け取り、目を通し始めた。

 俺とルナは隣に並んで立ったまま、何とも言えない沈黙が続く。


「えっと……この欄、ちょっと訂正が必要ですね」

「あっ」


 職員が指摘したのは、住所欄の一部だった。

 確かに、お互いの住所が違ったままである。これでは一緒に居住しているとはいえず、結婚する前提条件を満たしていないのでは、そう思ったのだ。


「あら、ごめんなさい。私たち今は違う場所に住んでいるの」

「えっ」


 ルナはさらっと用紙を送り返す。

 その動きが妙に手慣れていて、俺は少し驚いた。


「そうでしたか、失礼いたしました」


 職員は申し訳なさそうに用紙を受け取る。

 それが気になった。


「住所って違っていても大丈夫なんだな……意外と詳しいな?」


 思わず漏らした言葉に、ルナが睨むような目を向けてくる。


「別に、こういう手続きに詳しいだけよ」

「そういうもんか?」


 法律とかに詳しいのだろうか、それだとちょっと怖いな。

 どうにも納得できないが、それ以上突っ込むのも面倒だ。

 だから俺はその場の流れに身を任せる。


「ふむ、ふむ……」


 職員は訂正箇所を確認し、再び書類を読み進める。


「はい、大丈夫そうですね。では、お二人の身分証明書を確認させていただけますか?」

「ええ」


 ルナがスムーズに身分証を差し出す。

 その間に、俺も財布から学生証を取り出した。


「……あれ、同い年なんですね」


 職員がふと漏らした言葉に、俺は驚いてルナの顔を見た。


「お前、俺と同い年だったのか」


 その瞬間、ルナがばっと書類を引き寄せて隠す。


「ちょっと、見ないでよ!」


 咄嗟に書類を隠す彼女の顔が、少し赤くなっているのが分かる。


「いや、なんでだよ? 結婚する相手の情報くらい確認するだろ、普通」

「関係ないでしょ! 必要なのは、この婚姻届を成立させることだけなんだから」

「はぁ? そんな冷たい言い方どうなんだよ。こっちは本気でこの書類出しに来てるんだぞ」

「私だって本気よ!」


 ルナが声を上げる。その大きさに、周囲の視線が一瞬だけこちらに集まる。

 俺たちはハッとしたように口を閉じ、少しだけ視線を落とした。


 その軽い言い合いに、職員が微笑ましそうに口を挟む。


「まぁまぁ、そういう細かいところから、お互いを知っていくんですよ。ご結婚って、そういうものですからね」

「そ、そうですね……」


 ルナが苦笑いを浮かべる。

 いや、俺たちの場合、そんな悠長な話じゃないんだよ。


「……とにかく、あなたに見られるのは恥ずかしいの」

「結婚相手だぞ? まったく、それくらい見たっていいだろ」


 俺がぶつくさ言うと、ルナは困ったようにため息をついた。

 そして小さな声でぽつりと呟く。


「……まだ、お互いに知らないことばかりね」


 その言葉に、俺も少し言葉を詰まらせた。

 そうだ、まだ俺たちはお互いのことを何も知らない。

 ただ、この状況をどうにかするために、半ば強引にここに立っているだけだ。


「……まぁ、それでも提出しちまえば、あとはどうにかなるだろ」


 俺がそう言うと、ルナはじっと俺を見つめ、やがて小さく頷いた。


「……そうね。それが私たちの第一歩だもの」


 彼女の言葉に、ほんの少しだけ緊張がほぐれた気がした。

 打ち解けるには程遠い俺たちだが、この書類を提出することで何かが変わるのだろうか。

 不安と期待が入り混じる中、俺たちは再びペンを手に取った。


「では、こちらに押印をお願いします」


 職員が指差した欄に、俺たちはそれぞれ判を押していく。

 押印が終わり、書類を再びカウンターに差し出した。


「これで完了です。ご提出ありがとうございました」


 職員がそう言って書類を受け取った瞬間、胸の奥に妙な感覚が広がった。

 達成感とも、焦りともつかない奇妙な感情だった。


「これで終わった……のか?」


 呟く俺に、ルナはふっと息をついて答えた。


「まだよ。これからが始まりなんだから」

「結婚生活の?」

「さぁね、それはあなた次第ね」

「なんだよその言いぐさ」

「ふん、じゃあ行くわよ」


 そう言って颯爽と歩き出す彼女の後ろ姿を見ながら、俺は一つだけ気になることがあった。


「はぁ……結局、名前は分からなかったな。」


 心の中で呟きながら、俺もその背中を追いかけた。

 まだまだ俺たちには、越えるべき壁が多そうだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る