七章、大団円にはまだ早い
第7話
完膚なきまでにスコーピオンを叩き潰し、明け方にアジトに帰還する。大きな仕事だったしこんなにも構成員が一度に揃ったので打ち上げでもしたいところだけれど、私達の間に漂うのはそんな雰囲気ではなかった。
帰るやいなやトイレに篭ったカイルが、それからずっとオエオエと聞いているだけでも痛々しい声を上げて吐いているからだ。ガチャン、とドアの開く音がして、ようやく彼がふらりと出てくる。
「……薬出なかった……」
「まあ、そうだろうね。数時間は経っちゃったもんね」
アダムが同情するように言った。無理矢理吐くのはさぞ苦しかったのだろう。大きな目は涙目だ。辛そうな様子を見て、私が飲まされそうになった分まで薬を飲んだカイルに責任を感じる。
「カイル、」
「イアン。俺、薬が完全に抜けるまで部屋にこもるから。誰も入れさせんな」
私が声を掛けようとしたのを遮って、カイルが一気に言った。
「おっけ。分かった」
「ありがと。お嬢もお疲れ。悪いけど、今日はもし怖い夢見て寝られなかったらアダムかイアンのとこ行きな。……俺の部屋隣りだから、うるさかったらごめんね」
にっこり笑ったカイルは私の頭をぽん、と叩くと私に何も言わせる前に去っていく。
ほんと、人の心配ばっかりして。悪夢なんかどうでもいいよ。自分のこともっと気にしなよ。
カイルは自分の部屋に帰った後、一度リビングに戻ってきた。
「これ、預かっておいて」
部屋に置いてあったのだろう、大量のナイフといくつかの銃がイアンの前のテーブルにガシャガシャン! と音を立てて置かれる。すぐ部屋に帰っていったカイルを呆気に取られて見送った。
「どうしたのこの武器」
私以外――アダムとイアンは、カイルの行動の意味を分かっているみたい。それ以外の構成員は、みんな一晩中働いていたから帰ってすぐに自分の部屋に散って既に眠りについていた。冷たいようだけれど、カイルはこのぐらい一人でなんとか対処できると信頼されてるってことだ。
「薬でハイになってた効果が切れると、死にたくなるほど辛くなるから。簡単に死ねる道具は手の届かないようにしてる」
アダムがぽつりと言った。
「そういうこと。お嬢も疲れてんだから寝な」
イアンが武器をデスクの引き出しにしまいながら安心させるように笑ってくれる。けれど私はぐるぐると考えてちっとも安心できなかった。
これから死にたくなるほど辛い症状にカイルは襲われるってこと? それを全部分かっていて彼は一人で部屋にこもるの? 一体、どんな気持ちで笑って行ったの。
あれ、そういえば。
「カイルがハイになってるときなんてあった?」
薬を飲んでから私だけがほぼずっと一緒にいたのに、普段と変わった様子なんてなかったけれど。
「さあ……。脈とかも速くなるし、本人は気づいただろうけどね。弱みなんて周りに悟られないようにするからなあ。一般的な飲み薬の血中濃度でいえば、一番高かったのは屋上から飛び降りる辺りから抗争中くらいじゃない?」
アダムが苦笑しながら見解を教えてくれる。ああ……戦闘狂だから、元々薬なんて飲んでなくとも戦っている最中のテンションはおかしいもんね。どうりで変わらないはずだ。
ということは、カイルは薬を飲んでもさほど快感は得られず副作用ばっかり味わっていることになる。ますます気の毒になった。
イアンに促され、私も自分の部屋に帰る。ベッドに入ってみても、体も心も疲れ切っているはずなのに寝付くことはできなかった。にっこり笑顔を作って隣室に一人閉じこもったカイルの顔ばかり思い出す。
「俺、前にぶっ飛ぶやつ打たれたことあるー。あれはきつかったねー」
そうだ、会議でそう言っていた。カイルが愚痴を零すところを私は聞いたことがない。人のためにちょこまかと動きながら、いつもうるさいくらい楽しそうにしている。仕事はまあ、戦闘狂だから楽しんでいるのかもしれないけれど、それにしたって拷問を受けても弱音一つ吐かなかったんだ。そのカイルがぽろりと「きつかった」と零すほど薬が切れる反動は辛い。
隣りの部屋と繋がる、何もない壁を見つめる。
ねえ、あんたは私の夢見まで心配するくせに、私には心配させてくれないの。そりゃあ私が一緒にいたって何もしてあげられないけれど。でも二人なら安心できることだってある。カイルだってそう思うから一緒に捕まってくれたんでしょう。
「俺も連れて行け」、そう言って敵との間に立ちはだかってくれた背中を思い出す。私、カイルがいてくれたから捕まっていてもすごく心強かったよ。私もカイルが辛い時に一緒に乗り越えたいって思っちゃ駄目なの。
「アアアアアアアァ!!!!」
静寂をつん裂くような叫び声がして、私は飛び起きた。隣りの部屋からだよね? 普段とは似ても似つかないけれどカイルの声だった。
いてもたってもいられなくなってドアを開ける。電気も点いていない暗い廊下には、イアンが座り込んでいた。
「出てくると思った」
とイアンは言った。
「イアンは何してんの」
彼が座り込んでいるのはカイルの部屋の前で、彼はドアをじっと見つめている。
「あいつに力で対抗できんのはうちだと俺だけだから。暴れ過ぎたり死のうとしたりしたとき止められるように見張ってる」
それで、イアンも同じように一晩中働いていたのにこんな固い床で不寝番してるのか。構成員思いな様子にますますこのリーダーが好きになる。
「あとは誰かがこの部屋に入ろうとしたら止める役目」
イアンが私に視線を向けた。
「お嬢、カイルはなんて言ってた?」
優しい声で諭される。
「……誰も入れさせるな、って」
「でしょ。俺が同じ立場でも、たぶん他の奴も、自分ならこんなとこ見せたくないって同じように思うからみんな放っておいてる。一人にすんのも優しさなんだよ」
他の構成員が酷い奴だなんて思ってない。思ってなかったけれど、ああ男のプライドって奴だ、と私には少々理解しがたかった。
「よほどのことがあったら頼まれてる俺がなんとかするしさ。お嬢は寝な」
イアンが微笑んでくれるけれど、その瞬間また叫び声が上がる。
「来るな! 来るなよ! ひっ……、来んなってば!」
目を見開いてドアを振り返った。カイル、怖がってる。そんな声聞いたことがなかったけれど、今の引きつった叫び声には間違いなく怯えの色が乗っていた。
本人に悪気はないのだけれど、こんなときでもカイルの声は本当によく通るのだ。これを聞かされて寝ていられる人がいるなら連れてきてほしい。
「イアン、私カイルと一緒にいたい」
イアンは初めて怖い顔をした。
「駄目って言ってんだろ。あいつ、全力で暴れるよ。あいつの力で全力だよ? お嬢なんて巻き込まれたら怪我するに決まってる。それを正気に戻って見たときに、一番傷付くのはカイルだ」
正論だ。イアンが正しい。私を心配して庇ってばかりだった彼が、自分が私を傷付けたなんてことがあったら悔やむに決まってる。でも、理屈じゃない。男にプライドがあれば女にも度胸がある。
「私はいくら傷付けられたっていい。カイルは私が辛いときに一緒にいてくれた。私も一緒にいたい! だってバディーだもん!」
イアンはその言葉に目を見開いて、私の頭をがしがしと撫でる。大きな、安心できる手。
「バディーかあ。カイルの口癖がうつったんじゃない?」
とイアンは苦笑した。
「そうだな、俺らは誰もカイルのバディーじゃねえもんな。付き合いが短くたってお嬢にしか分からないこともあるわな」
顎でドアを示される。
「行きな。何があっても俺が責任取るから。カイルが後から怒ったら俺も一緒に怒られてやるよ。ただ、途中で見捨てんな」
「何かあれば私の責任だよ。イアンありがとう」
イアンはますます乱暴なくらいぐりぐりと私の頭を撫でた。
「ごめんな、ちょっとまだお嬢のことなめてたわ。かっけえよ。カイルのこと頼んだ」
「ふふ、イアンはカイルのこと大好きだもんね。行ってきます」
「そんなんじゃねえよ、構成員はみんな平等だわ」
最後にからかって、イアンの焦る声を背中に聞きながらドアノブに手をかける。嘘だ、イアンは絶対カイルにだけ甘いよ。
会話で上がった口角を、努めてその位置で保った。怖いところへ行くときは、無理矢理にでも笑って恐怖を吹き飛ばすのがいい。そっか、だからカイルも戦うときに笑うのかもしれないね。根っからの戦闘狂だ、なんて自称するから真相は分からないけれど。
カチャン。
番人までいてぴたりと閉ざされていた扉には、鍵なんてかかっていなくてあっさりと開く。きっと何かあればイアンが突入するためだろう。
彼の部屋を訪れるのはこれが初めてだった。
「カイル」
カーテンの閉められた部屋にはその隙間から細く明かりが差し込んでいる。一晩中動いていたからすっかり昼夜逆転だけれど、外はもう日が出ている時間だ。
その薄暗い部屋の隅っこで小さく小さく膝を抱え、一点を見つめてカタカタと震えている姿に静かに呼びかけた。はっと顔を上げ、黒い目が部屋にいる私を確認する。そして見開かれた。
「……っ! 何で入ってきた! イアンは! 入れさせるなって言ってあっただろ!」
一瞬でカイルは激昂する。その音量は声で空気がびりびりと震えるほどだった。普段から怒らないカイルに怒鳴られるなんてもちろん初めてで、思わずびくりと肩が跳ねる。
「イアンはちゃんと止めたよ。私が無理言って入れてもらった。カイルは私が辛いときに一緒にいてくれたでしょ。自分が辛いときだけ一人になろうとしないで。一緒にいさせてよ。私達、バディーなんでしょ」
「だめだ、俺何するか分かんないから、出てって、早く」
「カイル? 大丈夫?」
カイルの言葉が途切れ途切れになって、急に目が虚ろになった。マフィアの社会で暮らしてきたけれど、薬の影響で錯乱状態にある人の傍にいるなんて初めてだ。普通じゃない反応が怖くて仕方ないけれど、後退りしそうになる足を必死でその場に縫いとめる。
「大丈夫なんかじゃないって! そこから、虫がどんどんどんどん湧いて出てるだろ!」
「虫?」
カイルは恐怖に歪んだ顔で何もない壁を指差した。見えない物を「そこにある」と確信した様子で言われるのはなかなかぞっとする体験なのだと初めて知る。カイルは幻覚を見ていた。典型的な離脱症状だ。
「とぼけてんのかよ! お前の後ろの壁からうじゃうじゃ湧いてきてるだろ! ああ! やだ! こっち来んなって!」
カイルは少しでも逃げようともがいてガン、ゴッと壁や床に体を打ちつける。そんなことをしてもカイルの後ろはもう壁だから逃げ場なんてない。
「やだ! いやだ! 上がってくるな!」
カイルが肌をばりばりと掻きだしたのを見て、呆然としていたけれど慌てて近づく。力の加減をしないから白い腕がみるみる赤くなっていった。
「そんなに掻いちゃ駄目だよ、虫はいないから」
「何言ってんだ、いるだろ、ほらこんなに! っああああ! 俺の中に入ってくるな!」
掻き毟る腕を止めた私をカイルが振り払う。叩かれた手がじん、と痺れた。
カイルは人にくっつくのが大好きだしえろい触り方もするけれど、乱暴にしたことは一度もない。そんなところから今の正気のなさをまた痛感する。
虫がうじゃうじゃ湧いてきて、どんどん迫り自分の体の中に入ってくる。それがカイルの見ている景色。そりゃいくら普段は虫が平気でも怖いよね。
「カイル、大丈夫だよ、虫は来ないし何も怖いことなんてないんだよ」
「もう、駄目だ……っ。虫が体ん中這いずり回る。俺の中どんどん食い荒らしてく!」
私達はせっかく二人でいたってお互いに一人だった。声は何も届かなくて、会話は成立していない。
何度振り払われてもまたカイルの手を握るけれど、彼の力じゃ私の邪魔なんて無視して動けてしまうので、彼の肌は血が滲むほど掻き毟られている。
けれど不意にカイルは手を止めた。私がほっとしたのも束の間、薬はまだ彼を休ませてはくれない。
「ごめんなさい……! ごめん、ごめんな! ごめんなさい、許してっ」
カイルは今度は呆然と宙を見つめて謝りはじめた。大きな目からは滂沱の涙が流れる。
普段なら涙なんて見せない、おちゃらけていても大人の男として振る舞う人だから、見てはいけない物を見てしまった気分になって胸が痛い。
「これしか……これしか方法がなかったんだ! 許して、ごめんなさい、ごめんなさい!」
カイルは私の知らない罪に囚われ続ける。泣きじゃくる小さな頭を繰り返し撫でた。
「大丈夫だよ、大丈夫だから。カイルが何をしていたって、私は全部許してあげる。謝らなくていいんだよ」
「ごめん、ごめん……!」
声は届かない。カイルは嗚咽を漏らすほど泣きじゃくり、うまく息ができずむせ返る。よしよし、と激しく震える背中を撫でた。
そんなに苦しまなくていいのに。何かは知らないけれど自分がしてきたことを悔いているんでしょう? 全部全部、いるのか分かんない神様に代わって私が許してあげるのに。
カイルは本当に頑張り屋だもの。いつもは貶しているけれど、傍で見ているから知ってるよ。
聞こえていないと知っていて囁き続ける。
あなたを許してあげる。
聞こえていたらむしろ照れくさくてこんなの絶対言えないなあ、なんて。
そろそろ身も心も疲れきって寝こけてもいい頃だと思うのだけれど、カイルの無尽蔵の体力が今回ばかりは悪く働いて彼を寝かせてはくれなかった。
突然カイルの目の色が変わる。まずい、と思ったときには私は棚に叩きつけられていた。
「……っ!」
離れるのはおろか、受け身すらも全然間に合わない。カイルの本気の力を思い知る。背中を強打し息が詰まった。視界を埋め尽くすように上から色とりどりのアニメのフィギュアが降ってくる。
ああ、棚に綺麗に並べていたようだったのに。今のカイルの目には大好きなそれすら映らない。
頭を打ってふらふらしたまま動けない私の胸ぐらを掴んだカイルが、今度は私をベッドに投げ飛ばす。自分を犠牲にしてまで私を庇ってくれた人が、爛々と敵意を燃やして私に暴力を振るってくる状況に震えが止まらない。
「お前が! お前があいつを! お前がいなくなれば!」
怒りのままに叫ぶけれど、カイルの目は私を見てはいなかった。今はまた幻覚と戦っているのだと推測する。ベッドに倒れ込み彼を見上げる私の首に、大きな両手が掛かった。ギリギリと首が絞まっていく。
痛い。苦しい。
でも、辛いのはカイルだもんね。
「…カイル。カ、イル」
「黙れ!」
怖いときは、笑え。
そうだよ、どさくさに紛れて人をベッドに押し倒しやがってさあ。
「ふっ、ばぁか。変態。黙んないよ」
「お前が死ねば……っ」
「乙女をベッドに連れ込んだ罪は重いからね。正気に戻ったらケーキ三つは覚悟してもらうから」
首を絞める手にさっきから力が入っていない。黒い瞳がぐらぐらと揺れているのが見えた。カイル、ともう一度呼ぶと、す……と焦点が私に結ばれてずっと合わなかった目が合う。
「……お嬢。ばか、何でいんの……」
「……おかえり」
一言呟いたカイルは私の上に倒れ込んできた。怖くて怖くて仕方なかった私は、眠りこけるカイルの腕の中でようやくわんわん泣いた。
ひとしきり泣いて、ず、と鼻をすする。気を失うように眠りに着いたカイルを起こさないようにそっと腕から抜け出た。そんなに気を遣って息を潜めずとも、気力体力を使いきったカイルはぴくりとも動かず眠っている。白い顔に手を翳し、思わず息をしているか確かめたほどだった。
改めて見ると部屋は悲惨な状況になっている。カイルが力任せに暴れたものだから、カーテンもレールごと壁から剥がれて傾いているし、机も椅子も全部倒れている。床はフィギュアとその他散乱した物で足の踏み場もない。起きたら片付け手伝ってあげよう。
悲惨なのは私の格好も同じだ。髪はぐっしゃぐしゃに乱れているし首には指で絞められた痕、あちこちに青痣とひっかき傷。胸ぐらを掴まれ投げ飛ばされたときにボタンも千切れて飛んでいったので、胸元は大きくはだけていた。
シャツの合わせを手で押さえながら静かにドアを開ける。やっぱりずっと部屋の前にいたイアンが、すぐに自分のパーカーを脱いで着せてくれた。
「頑張ったな。……おいで」
私の様子を見て全てを察したイアンが腕を広げるので、我慢できるはずもなく固い胸に縋り付く。泣ききったと思っていたのに、安堵でまた涙が溢れた。
イアンに啖呵を切った手前、泣きたくなかったのにな。
「お嬢、まじですげえよ。カイルが落ち着くの、前よりめちゃくちゃ早かった」
「そうなの?」
私にとっては果てしなく長かったけれど。部屋に入って三時間は経っていたんだ、と時計を見る。
「もちろん薬の種類も違うだろうから一概には言えないけど、それにしたって二錠飲んでたんでしょ? 明らかにお嬢のお陰だと思う。ありがとな」
「イアンは優しいね」
「お世辞じゃないっての」
とんとん、と背中を叩いてイアンは私を引き離す。
「さてお嬢、医者が来てるけど寝るより先にかかっとくか?」
「そうなの? じゃあそうさせてもらおうかな。大した怪我はないけど湿布とかほしい」
「おっけ」
イアンに連れて行かれたのはいつもの応接室。そこでチョコを食べてくつろいでいたのは背の高い痩せ形の若い男だった。質素なハイネックにパンツは上下真っ黒で、白衣も着ていない。お医者さんといえば白衣を着たおじいさんのイメージだった私はちょっと面食らった。
「お、来た。どーも、ディランです」
「初めまして、エリーです」
ディランは私を手招いて自分の前のソファーに座らせる。イアンは気を遣って出て行った。
「お嬢さん、根性あんね。あんだけ暴れてるカイルくんと一緒にいたんでしょ。俺そういうの好き」
聴診器を耳に掛けながらディランが言う。
「どうも」
まだ戸惑いながら会釈した。この人も顔はめちゃくちゃ良いけれど変な人の予感がぷんぷんする。ディランはさっと私の胸と背中を聴診すると服を下ろし、どこが痛いかその低い声で尋ねていった。
「頭打ったの? 意識ははっきりしてんね。手足にしびれは? ない? そう。あー、もし頭痛とか吐き気とか出たらすぐ病院行きな。ここだと検査とかできないから。他は傷も小さいしなんもしなくて大丈夫。洗って清潔にして、ぶつけたとこは痛かったら冷やしたり湿布貼っときな」
「ありがとう」
鞄から取り出した湿布薬を一袋、ぽーいと渡される。ありがたく受け取って部屋を出た。イアンがまた廊下で待ってくれていたみたいだ。
「頭、痛くなったり気分悪くなったりしたらすぐ言えよ」
「はーい」
「うん、じゃあもう寝な。一人で寝られる?」
カイルみたいなことを言うイアンに笑う。
「大丈夫だよ。たぶん疲れきってぐっすり。イアンもずっとお疲れ」
「おう」
傷に沁みるお湯に顔をしかめながらシャワーを浴びて、首やら背中に湿布を貼って、私は宣言通り夜まで熟睡した。お腹が空きすぎて目を覚ます。
部屋着のTシャツのままリビングに行きかけて、ちょっと考えて長袖のハイネックに着替えた。カイル、たぶん傷とか首の痕とか見えたら気を遣っちゃうもんね。でも私が勝手にしたことだから。
良い匂いがすると思ったらウィリアムがキッチンに立っていた。私を見ると優雅な微笑みを浮かべる。
「おはよう」
「おはよう。ウィリアムって料理するんだ?」
「趣味だよ。お嬢、昨日はがんばったね」
「え、ウィリアム知ってるの」
「まあ……お嬢が隣りの部屋で一番近いとはいえ、俺ら全員同じ廊下に面した部屋なんだから、あれだけ騒げば声は筒抜けだよね」
そりゃそうだ。なんとも恥ずかしくて頭を抱える。
「あの、カイルには言わないでね」
「前回の感じだと本人もなんとなく覚えてるだろうけどね。俺やアダムは言わないよ。ショウはたぶん寝てたし。ジャックはさっき起きてきてもう既にべらべら興奮してたから、たぶん会ったらいじられるんじゃないかな」
あの野郎。拳を握っていると、湯気を立てたお皿が目の前に差し出された。え、最高のサービスですね? いつもトーストをチンかコーンフレークだけなのに、温められたふわふわのバターロールには透き通って輝くコンソメスープが付けられていた。
「おいしそう! いいの?!」
「ふふ、召し上がれ」
「いただきます!」
優しい味が体に沁みわたっていく。
「他のみんなは?」
「みんな一回は起きてきた。主役がいないからそれぞれ適当になんか食べてまた部屋に戻ったけど。ああ、レオは仕事に行ったかな。お嬢とカイルが最後だよ」
「主役?」
「お嬢とカイルに決まってるでしょ。昨日はみんな頑張ったけど、二人は特に大変だっただろうからね。今夜はパーティーだよ」
えへ、そんなのあるんだ。そういえばウィリアムはさっきからずっと何やら作り続けている。楽しみだなあ、とおいしいスープをすすった。
バァン!
廊下の方で喧しくドアが開く。
「おっはよー! みんなお待たせ! カイルさん全快!」
起きるやいなや廊下で一人騒ぐ馬鹿な声がした。迂闊にもぽろっと涙がスープに落ちる。ウィリアムは料理の合間にさっと寄ってきて私にハンカチを渡し、またキッチンに戻っていった。
「よかったね、うるさいのがまた戻ってきて。安心したね」
一切茶化さず背中越しに私の気持ちを代弁する。ここにいたのがウィリアムでよかったと思った。ハンカチを持ち歩く紳士、素敵だ。
「おうカイル、お前飯より先に医者」
カイルがリビングに到達する前に廊下で通りすがったイアンにとっ捕まったらしい声がする。
「医者ァ?! だーいじょうぶだって!」
「駄目。ちゃんと診てもらえ」
「ちゃんとって何?! 闇医者じゃん! 怖えええ! こいつバカだもん! かかったらむしろ死ぬって!」
「いや人の体なんて切ったり貼ったりすりゃなんとかなるんだって。大丈夫大丈夫、俺それでやってきてっから」
「俺はどこも切ったり貼ったりしてもらう必要ねえよ!」
応接室に入ったらしくディランの声もした。この人達仲が良いから今まで何の問題もなかったんだろうけれど、アジトの防音って一切働いてないよね。全部筒抜けなんですが。というか今の会話は聞き逃せない。私そんな恐ろしい人に診てもらっていたの。涙も引っ込むわ。
「ディランはね。本当に頭が悪いからね。人体のことだけはおおよそ把握してるみたいだけど」
ウィリアムが穏やかにフォローしてくれるけれど、なんて心許ない言葉だろう。そりゃカイルじゃなくとも不安にもなる。
「内臓は無事そうじゃん。流石、筋肉あってよかったね」なんて聞こえてきて、昨日やっぱり服の下は殴られたりしていたんだろうなあと思った。
「ういー、緊張したあ」
なんとか五体満足で解放されたらしいカイルがリビングに入ってくる。食後のコーヒーをすすっている私と一番に目が合った。
「おはよ」
咄嗟にそれしか言えない。見せたくなかっただろうところを散々見てしまって、ちょっぴり気まずい。いつも部屋では半袖なのに私と同じように長袖を着たカイルの視線は、私の顔、腕、足、と来て、最後にハイネックに覆われた首で止まった。
「お嬢、ごめ」
「ストップ。カイルは一人で平気だったんでしょ。私が一緒にいたかっただけだよ」
昨日車でカイルに言われたのと同じ言葉を返す。カイルも気がついたようで、ぱちぱち、と瞬きをするとにぱっと笑った。
「ありがとー! 俺、お嬢大好きだわ!」
「え」
唐突な告白に固まる。
持っていたコーヒーがテーブルにダバー! と溢れて、布巾を持ってきたウィリアムがせこせこと拭いていった。はっ、元お坊ちゃんにそんなことさせてすみません。というかこの人いつも平静だけれど、何が起きたら動じるんだろう。
バァンとまたドアが開いて、ジャックが入ってくる。おいお前、今の会話のどの部分から聞いていた。
「ヒュウゥゥゥゥ! おーめでとーう! 今日は仕事の打ち上げとお嬢の歓迎会のつもりだったけど、二人の婚約パーティーにしちゃう?!」
ですよね! 最悪だ!!
「違う! カイルの性格知ってるでしょ! 今のはバディーとしてって意味で」
「えー! お嬢、俺の告白受け止めてくんないの。俺はラブのつもりですけど!」
「カァァイル! あんたは火に油を注ぐな!」
「お嬢、返事してやんなよ! 昨日はすっごい献身的だったもんね? 『全部許してあげる』って言って……」
「ちょっと!」
「ジャーック! 座れ」
「はい」
イアンが入ってきてジャックを一喝し、私は一旦救われる。ありがとうイアン! 神様みたいだよ。
私とカイルが起きたことで他の構成員も続々とリビングに集まってきて、広いテーブルにごちそうが並んでいく。レオも仕事から帰ってきた。
「おかえり」
「あ、お嬢、お疲れさま! 昨日は全然自己紹介とかしてなかったよね! 申し遅れました、レオです!」
「私もヘリから蹴り落とそうとしてごめんなさい。エリーです。よろしくね」
「うん、よろしく!」
「レオは何のお仕事を担当してるの?」
昨日の今日で大変だね、と尋ねる。レオはうふふ、と悪戯っぽく笑った。
「お嬢、俺の顔見たことない? 俺、州議会議員やってんの」
「ああ! どっかで見たことあると思ったら!」
こんなところにいるとは思わず気付かなかったけれど、若くして政界の実力者、大胆な改革と甘いマスクで市民の人気を得ている議員のことは私も知っている。
「こんなにあどけなくてクリーンな政治家に見えてるレオが、実は俺らの政界とのツテになってくれてる」
「そ。要領よく相手を油断させて情報を引き出して、それをうちらにまるっと横流し。他にも実はマフィアに都合が良いように制度を変えたりしてんの」
イアンとジャックが情報を補足してくれる。なんか妙に熱が入っている気がするけれど、うちの子自慢ってやつですかね。
「んで、俺のバディー」
気怠げにリビングに入ってきたディランが更に付け足した。
「この二人がバディー?!」
なんともお仕事上接点がなさそうだ。
「ということはディランもネーヴェなんだ。これで全員なんだね」
「せやで! そこ二人がおんなじ時期にファミリー入ったからってバディーになったん悔しいわー。俺もほぼ一緒やのに! バディーやからって二人組じゃなくとも三人でもええやんなあ? まあ俺にはアダムいるしええけど!」
「はいはい」
マーカス、あなたの愛はキャベツを切ってるアダムに聞き流されてますよ。みんなでグラスやお皿も並べれば、準備ができるのはあっという間だ。
「カイル、ショウ起こしてきて」
「はーい! ショウー、パーティーだよー? 眠いけどいい加減起きようねー」
「んん……」
「こら二度寝しないの、おっきー」
ウィリアムに頼まれたカイルがショウを起こしにいく。そこ二人とも二十代後半の男性ですよね? ママと子供なの?
普段数人で囲むテーブルに初めて十人が揃うと圧巻だった。みんなでかい、顔面が良い。
「あ、俺お嬢の隣りー!」
「はいはい分かったってば! そんなにくっつくな!」
あんたは照れとかないのかもしれないけれど、ジャックのにやにやがうざいんだって!
「そんじゃ、久しぶりに全員揃ったことだし。遅くなったけどお嬢のネーヴェへの加入と昨日の仕事の成功を祝して! か……」
「乾杯!」
「おい!」
カイルがイアンの挨拶に割り込んで彼にぺしぺし叩かれながらも、「かんぱーい!」と声が揃いパーティーが始まる。
「うわっ!」「うまっ」「おーいしー!」とまずはウィリアムの料理に舌鼓を打った。
「え、ウィリアムはシェフなの? すごすぎる。毎日アジトに帰ってきてごはん作ってほしい」
「あは、ありがとう。お嬢とカイルはほぼずっとここで泊まってんでしょ。二人だと何食べてんの」
「「肉」」
私とカイルの声が揃い、何人かが吹き出す。だって二人とも食うに困らない程度には料理ができるけれど、それほど得意ではない。でも外食はお金もかかるし。カイルがお肉好きだし簡単にお腹も満たされるしで、大体豪快に肉を調理して食べている。
続いて話は私が加入してからの仕事の話へ。
「うちには銃を扱うのを専門にしてる奴が誰もいないからさあ。お嬢が入ってくれてほんとよかったよね! あの早撃ち、間近で見てたら超すげえの!」
カイルが言うとみんな口々に同意した。なかなか構成員全員にお目にかかれなかったけれど、昨日でみんなの仕事ぶりは拝見しましたよ。イアンは拳でボコボコにしてたし、ウィリアムは長いおみ足で蹴り倒してたね。カイルもナイフだし、今どきここまで飛び道具を使わないマフィアというのも珍しい。
というかそれで戦闘能力最強と言われているってどういうことなの。一昔前なら一瞬で天下を取っていたんじゃないだろうか。
ショウ、アダム、レオ、ディランは一切戦闘には加わらなくて、マーカス、ジャックは仕事柄危ないところに行くこともあるので一通り銃は使えるけど得意ではないのだそうだ。
「そうそう、ジャックのヘリコプターにはびっくりした」
「ジャックはクレーンゲームが得意だから」
「クレーンゲームとヘリの操縦って一緒か?」
カイルにツッコミを入れる。だから私を吊り上げたってか。
「お嬢は車の運転できんの?」
「できるよ。みんなお嬢、お嬢って呼ぶけど、別にお嬢様じゃなくて普通の育ちだからね」
私が自分の生まれを話すとみんなも自分たちがファミリーに入った経緯を教えてくれた。
「俺とカイルとジャックとアダムは同じスラム街上がり」
「そう。拾われた時期は少しずつずれてるんだけどね。俺とかひょろひょろですぐ淘汰されそうだったから一足早く拾われたし、カイルはたくましかったから逃げ回っててなかなか拾われなかった」
「あっはっは、そう! 俺、アダムが突然悪い奴らに連れていかれた! って思ってたからさあ!」
イアン、アダムが話すのを聞いて野生児カイルが一人でもワイルドに生き延びるのを想像する。ああ、確かにどこででも生きていけそう。
「ウィリアムの話はしたっしょ。ショウは……」
「俺はネッスン・ドルマの構成員と娼婦の間にできた子ども。お前と同じだな」
「ショウのお母さんって美人そうだね」
「顔知らないけど。たぶんね。俺の顔が良いもん」
ショウは私を見てにやっと笑った。くそぅ、そんな台詞言ってみたい。
マーカスとディランとレオは六人からはだいぶ遅れてネッスン・ドルマに入ってきたのだという。
「めっちゃでかいファミリーがあるから憧れてな、わざわざ西から出てきた訳よ!」
「あれ、じゃあマーカスが来る前のアダムのバディーは?」
「いなかったよ。俺はいずれファミリーのためになるから、ってボスに頼み込んで大学院卒業まで学費出してもらってたから、裏切る心配がなかったしね」
「だから俺とアダムはしばらく相方いない者同士でバディーみたいに一緒にいたよねー!」
「カイルが勝手にくっついてきてただけだけどね」
「えー! アダム冷てー!」
いちゃいちゃする子犬とイケメンは中身の性格を忘れれば目の保養だ。
宴もたけなわ、お水が欲しくなって取りにいこうと立ち上がる。
「お水取ってくるけど欲しい人」
「お嬢、俺が行くよ」
「いいよ、そのぐらい自分で。ウィリアムはずっと料理してたんだから座ってて」
「俺ほしー!」
「俺も」
何人かの手が上がった。レディーにやらせまいと立ち上がりかけたウィリアムはほんとに紳士だ。ディラン、ジャック辺りはちょっとは遠慮しろ。
キッチンに入って新しくグラスを取り出していると、カイルが入ってきた。
「どうしたの? カイルもお水?」
「お嬢一人じゃそんなに一度に持てないでしょ」
手伝いにきてくれたのか。相変わらずよく気がつく。
そう思っていたら、とん、と筋張った片腕が私の後ろの壁に突かれ、カイルと壁との間に挟まれる。獣が、捕らえた獲物を目を細めて見下ろして妖艶な笑みを浮かべる。
「お嬢、今俺と二人きりになって緊張してくれた?」
カイルがキッチンに来たとき、心臓が跳ねた。図星だ。
「してない」
「あは、嘘。俺の言ったこと、意識してくれてんでしょ?」
「その話、イアンが終わりにしてくれたと思ったのに!」
「終わりになんかさせないよ。俺、本気だから」
固いまめのある掌が私の頬を愛おしげに撫でる。恥ずかしくて目を逸らしたいのに、私を見つめる瞳の熱が私を捉えて離さない。
「なん、何で……! そんなこと今まで言ってなかったのに!」
「何でって、だって好きだなあって思っちゃったんだもん。俺、お嬢が好き」
そう言われた瞬間、視界の端でにゅっと顔が生えた。かと思うと「フゥゥゥゥ! 聞いて皆ー!」と叫びながら去っていく。ジャックだ。
「……カァァイル!!」
「え、俺ぇ?! ジャックじゃなくて?!」
「所構わず好き好き言うあんたが悪い! まずはケーキおごってもらって、話はそれからだ!」
「え、デートの誘いじゃあん」
「違う!」
犬には人の言葉が通じないらしい。
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