六章、おとり作戦

第6話

「イアン! もうあかんて! またやられたわ!」

 またしてもアジトで給料泥棒の日々に戻っていた私たちの平穏を破ったのは、初めて聞く声だった。緊迫した状況を訴えているようなのに、どこかのんきに聞こえるのは西部に特徴的な訛りのせいだろうか。どれ、お目にかかろうと私もイアンがいるであろう応接室に向かう。カイルは声を聞き、とっくの昔に顔を輝かせてすっ飛んでいった。

 許可を得て入れば中にはイアン、ジャック、カイル、そして見た目年齢は私たちとほぼ同じ二十代くらいの西部訛りの男。つい癖でその体つきから戦闘力を予想する限りは、ひょろっとしているので荒事は不得手のジャックなんかと同じ非戦闘員に見えた。まあカイルも初対面はそう見えたからまるで間違っているかもしれないが。

「あ、新しく来た人やね! どーも、マーカスです。ネーヴェでは麻薬、ドラッグのブローカーやってます。お嬢さんはカイル君のバディーやんね? めっちゃ強いらしいやん。俺とかまた守ってもらう立場やわ、よろしゅう!」

 マーカスは気さくに話しかけてきた。随分と早い答え合わせ。今度の予想は当たったらしい。しかし、私が強いと吹聴しているのはどこの誰なんだ。カイルか? そんなに高く見積もられても困る。進んで危ない現場に行かされたい訳じゃない。

「そんなに強くはないですけど。エリーです、こちらこそよろしく」

「エリーちゃん? ええ名前やね!」

「お嬢だよ!」

 カイルがでかい声で割り込んでくる。いやそこは訂正しなくともマーカスが合ってるんですが。

「みんなお嬢って呼んでんの? かっこええやん! 俺もそう呼ばしてもらうわ」

 ああ……誰にも名前を呼ばれない環境が着々と整っていく。なんだか満足そうにうなずいているカイルの肩をどついた。

「ああ、そんでな、また俺の買い手を別のファミリーに取られたんよ!」

 仲良うさしてもろてたのに、またやでまた! と話を戻したマーカスはイアンに訴える。ジャックがへえ、と身を乗り出した。

「マーカスはその辺うまくやってて滅多に客逃さねえのになあ」

「せやろ? 俺も商売には自信あるんよ! この性格で人脈作るのはうまいから入手ルートも買い手もいっぱいあるしな? 一つぐらいなくなったかてすぐに困る訳とちゃうけど、こうも続くと腹立つわ!」

「アダムはなんて言ってんの」

 イアンが冷静に尋ねる。

「アダムは最近羽振りが良くて怪しいとこがあるって見つけ出してくれてん」

「どこ」

 そこまで分かったからここに来たんよ、とマーカスは言った。おや、私達のお仕事の匂いがする。

「Scorpion(スコーピオン)」

「ぶっ、ダサ」

「お嬢はお淑やかな顔して意外と辛辣やね?」

「あ、こいつお淑やかなの顔だけだから」

「カイル?」

「いたた、ごめん、にひ、ごめんって」

 だってスコーピオンって。サソリよ? 厨二病かよ。

 私に頬をつねられているカイルはみょーんと柔らかいほっぺを伸ばされながらまだ笑っている。やられるのが分かっているのに何で余計なこと言うんだろうね。言わずにはいられないんだろうな。

 数日後。私はマーカスと二人、路地裏で小芝居を打っていた。何でこうなっているんだろう。私の扱い、雑では? 頭の中では作戦会議の時点で他に誰も反対してくれなかったことに罵詈雑言を並べながら上辺で演技をする。

 他に誰もいないように見える薄暗い路地、目の前ではマーカスが私に営業をかけるふりをしていた。

「お嬢さん、この前あげたのもうなくなってしもたん? 売ってあげることはできるけど……今、警察の取り締まりもめっちゃ厳しなっててなあ。なかなか量が手に入らへんから値段も上がるんよ」

「二千ドル?! たったこれだけで?! 無理、無理無理払えない! お願い、今回だけ負けて! もう欲しくて欲しくて耐えられないの!」

 最悪だ、薬中の女の演技なんて! こんな育ちでもお薬には手を出したことないのに!

 会議でそう言うと、ジャックは「当たり前だ!」と言っていた。

「俺らだってみんなやったことねえよ! 売る側で誰がやんだ。一番やべえって知ってんのに」

「あ、俺は敵対するファミリーに捕まってぶっ飛ぶやつ打たれたことあるー」

 あれはきつかったねー、としれっと恐ろしいエピソードをぶっ込んでくるカイルに突っ込んでいたらきりがないので話は現在に戻る。

「ごめんなあ、俺も商売でやってるからこれ以上は負けられへんわ。こっちも命がけで入手してるからな? それ考えたら安いもんやと思うで。俺のとこから買うのが一番安いって保証するわ!」

 きっと普段からこのやり方なんだろう。譲れないところは頑として譲らないのに、マーカスから買おうと相手に思わせるように話す彼の口調は優しい。こんなの、私が本当の薬中ならころっとカモにされてしまいそうだ。

 ジャックといいショウといい、マフィアはそんなものだろと言われればそこまでだけどネーヴェって戦闘員以外も恐ろしい人しかいない。いやむしろ戦闘員より営業担当たちの方が分かりづらく悪人だから怖いかも。普段はふざけてばっかりなのになあ。みんなやり手なんだけどやり方がえげつないから絶対敵に回したくない。

 マーカスにそう言うと、「あの二人と一緒にせんといてや! 俺は優しい方やで?」と憤慨していた。マーカスは良い人そうだけど、自分で優しいとか言っちゃうのが余計胡散臭いよ。

 予定していた台本通り、今回の私とマーカスの交渉は決裂。私は薬を手に入れられなかった女として、見るからに治安の悪い路地をふらふらとうろつく。

 この辺りはスコーピオンの縄張りと思しきエリア。どこかで今のやりとりを見ていればきっと構成員が声をかけてくるという目論見だ。

暇になって、またしてもアジトでの作戦会議のことを回想する。

 スコーピオンは、ずっとマフィアの中で生きてきた私でも聞いたことがなかったような新参の小さなファミリーらしい。それが勢いづいているのはマーカスの客を横取りしているからだというのがアダムの推測だった。

「アダムってそんな営業面の情報収集とかもしてんの」

 サイバーテロだけじゃなかったのか、と尋ねると『マーカスのだけね』と返ってきた。

『俺とマーカスはバディーだから。俺が良さそうな人脈、入手場所の情報を拾ってきて、マーカスが人柄と商才でそれを活かす。逆にマーカスが彼にしか教えてもらえない秘密を聞いてきて俺に教えてくれることもある』

「アダムにもバディーがいたんだ?!」

 仕事柄、てっきり個人プレーなのかと。ジャックとイアンとか、ウィリアムとショウとかはお互い真逆のタイプのバディーだけど、お互い似た分野で補い合うバディーもいるんだなあ。

『そりゃあバディーはいるよ。ネッスン・ドルマにいてバディーがいない奴なんてほとんどいないんじゃないかな』

 アダムに言われ、カイルをちらりと見る。

「ん、何ー?」

「いや、何でも」

 じゃあバディーのいなかったカイルって思った以上に異色の存在だったんだなあと思っただけだ。

『で、ここからが厄介なんだけど。そんな小さなファミリーが、急にうちの客に手を出してくるっておかしいと思わない?』

 画面の中でアダムが真剣な顔をした。言われてみれば確かに。ネッスン・ドルマはこの国で裏社会に生きる者なら誰でも知っているような巨大ファミリーだ。普通は返り討ちにされるのが分かっていて滅多に手を出したりなんてしない。

『うちとライバルのOsiris(オシリス)が最近バックに付いたから、気を大きくして手を広げはじめたって噂がある』

 アダムが挙げた名はこの国を牛耳る規模の勢力であるいくつかのファミリーの一つだった。ネッスン・ドルマも含め、そこまで大きいファミリー同士が争えば両者ともに痛手は免れないので、暗黙の了解でお互いの縄張りを侵害しないようにしながら普段は表面上穏便に共存しているはずだ。

『たぶん親の監督不行き届きで子どもが悪さしちゃったんだろうね。で、ネーヴェが行ってスコーピオンだけ潰すのは簡単だけど、うちのボスとしてはオシリスがバックに付いてたって証拠を掴んで恩を売っておきたいって考えです』

 アダムの話を聞いていたメンバーは一斉に唸った。今日の会議はなんと私が会ったことのあるネーヴェの構成員が七人も揃っている。いつもは私とカイルしかアジトにいないのに。それだけで大きな仕事になると分かった。

「ほんと潰すだけなら簡単だけど、証拠掴むってめっちゃ難しくね?」

 イアンが言った。小さいとはいえファミリー一個潰すのを簡単とか言っちゃう辺り、流石戦闘力化け物集団だ。赤子の手を捻るようなものだと言わんばかりである。

「密約書とか盟約書とかあんだろうけどさ。それ掴む前にちょっとでも俺らが仕掛けてきたってばれたらスコーピオンはそのまま潰せてもオシリスには逃げられるっしょ」

「とかげの尻尾切りってやつだ!」

『お、カイル合ってる』

「んふふ~」

 良い子にお話を聞いていたカイルをアダムが褒める。そこだけ先生と生徒みたい。

『だからね、作戦は考えてきましたよ。ただ、お嬢に頑張ってもらうことになるんだよねー』

「え」

『まあ、カイル達もびたびたに周りに張り付くからさ。最悪、オシリスとの結び付きまでは得られなくてもいいよ。ただ、マーカスの客を横取りしてるっていう動かぬ証拠は欲しくて』

 状況からスコーピオンがやっていることは分かっているけれど、それで証拠もなしにうちほどでかいファミリーが小さなファミリーを潰すと周囲のファミリーの顰蹙を買うというのはなんとなく分かった。ならず者にもならず者なりのルールがあるのだ。

「え、でも私に拒否権は」

「「「ない」」」

 かくしておとり作戦決行となる。全く、か弱い乙女をおとりにするなんて。

 まあ何かあれば守ってくれようとは思っているのだろう。アダムの言った通り、ウィリアム、イアン、カイルの戦闘員三人は私がぎりぎり見える距離でずっと付いてきてくれている。

 しかしそんなうまく引っかかってくれるもんかね、と思いながら薬を求める女の演技を続けていると、スーツの男から声が掛かった。

 第一印象として、派手で軽薄で若そうなのにすごく萎びている。いかん、最近イケメンに囲まれすぎて目が肥えているぞ。私このままだとお嫁にいけないのでは、と一瞬で思考が駆け巡ってぞっとした。

「お姉さん、欲しいものあんの? さっき西部訛りの奴に振られてたっしょ。かわいそーに」

 あんたに憐れまれたくないわ。なんて思っても顔に出しちゃ駄目だ。これは来たでしょ。無謀な作戦だと思ったのにアダムはやっぱりすごい。

 薬が手に入りそうで必死になる女を演じる。

「そう、そうなの、あんた持ってんの」

「これでしょ」

 男は白い粉の入った袋を振った。いや知らん。見ただけでそれが薬かなんて分かんないけどたぶんそう。

「いくらって言われたの。俺ならあんな奴よりずっと安く売ってあげられるかも」

「二千、いや千ドル!」

 マーカスの提示していた値段は二千ドルだけど、つい低く言ってしまった。だってそれより安く売ってくれるって言うんならなるべく下げておいた方が良いって薬がほしい女なら考えると思って。そんなリアルさは要らなかっただろうか。イヤホンからは何人かが噴き出すように笑う音声が聞こえていた。のんきに眺めやがって、あとで覚えてろよ。

「はいはい、じゃあ……俺も苦しいんだけど、九百ドルでどう……なんて言うと思った?」

「!」

 突然向き合っていた体を反転させられ、気付けば首に腕が回って絞められていた。背中に男の体温が当たる。見ず知らずの男とこんなに密着するのは気分が悪い。

「お前、見ない顔だけどネーヴェの構成員だろ。新入りか?」

 チャラチャラしていたのは見る影もなく、冷ややかな声で耳元で囁かれた。バレてる。なんで? 私不自然な演技じゃなかったと思うんだけど。もしそうならアダムから注意があったはずだ。分からないけれどとにかく作戦は失敗。

夜の路地裏で、遠目に見れば男女がいちゃついているようにも見えるだろう。実際は私の首は絞まっているけれど。

「げほっ」

「この辺に銃とか隠し持ってんだろ……ほらあった、没収な」

 男の腕がワンピースをたくし上げ太腿を這い、ホルダーから銃を抜き取った。汗ばんだ無骨な手に肌を触られぞわりと悪寒がする。言いたかないけれど、ちょっとカイルを見習った方がいいんじゃないの。

「やめ、ろ!」

 踵を持ち上げ男の足を思いきり踏みつけた。男の拘束が少し緩む。

「いってぇなこのアマ!」

『あっ!!!』

 ガン! と後頭部を思いきり殴られ視界に火花が飛んだ。私が心配を掛けまいと声を出さなかったのに、イヤホンから思わず漏れたような怒鳴り声が聞こえる。これはカイルだな。

 顔を上げ待機している辺りを見ると、今にもナイフを抜き払って飛んできそうになっていた。あの仕事に関しては冷静で優秀にこなすカイルが。

 ちょ、どうどう。私平気だって。そんなに怒ってくれるの意外で嬉しいけれど、作戦があるでしょ。人より目が良いものだから、殺気がみなぎるのまで手に取るように分かる。

『お嬢! 大丈夫? ごめん、作戦変更して続行するからね。構成員が拐われたらこっちにも手出しする理由ができる』

『アダム! もういいって、お嬢殴られたんだからやり返していいはずだろ!』

『カイル、気持ちは分かるけど駄目だよ。道端で一対一で起こった争いなんてファミリーのことは関係ない、って逃げられる。相手を潰して立場が悪くなるのは規模がでかい俺らの方だ。アジトまで尾けよう』

 イヤホンの向こうで、カイルが声を荒げてアダムに噛み付いた。初仕事であれほど信頼を寄せていたアダムにカイルが逆らっている。それほど私がたった一度殴られたことに激怒していた。

 怒ったりなんてしない奴だと思っていたのに。出会ってまだ日は浅いけれど、いつもにこにこしてみんなを笑わせて、飲み物を淹れたりゴミを捨てにいったりと人のために動いている姿ばかりを見てきた。ナイフで切り殺すときすら笑っていて、声を荒げて怒るところなんて見たことがなかった。

 ありがとう。おかげで勇気が出たよ。悔しいから直接は言ってやらないけれど。

 私が暴れるものだから、ネクタイで後ろ手に縛って男は言った。

「ボスのとこに連れて行って俺の手柄にしてやるよ。アジトの場所から仲間から全部吐かせてやるから覚悟しとけ」

 お腹に力を入れて、震える歯を食いしばる。私一人で大丈夫だよ。みんなが来るの待ってる。

「女のエスコートの仕方も知らないの? 行くならさっさと連れていきなさいよ」

 挑発的に笑ってみせると、男はおかしそうに笑っただけだった。

「大人しそうに見えんのに、女でマフィアなんかやってるだけあって気の強え奴。可愛くねー。ま、すぐ泣くことになるだろうけど。マフィアの拷問。知ってんだろ?」

 男が抵抗できない私の頬をひたひたと叩く。

「結構可愛いから勿体ねえなあ。全部喋った上で明日には口に石詰められたボロボロの死体になってんだろうなあ。あ、その前にまわしゃいいか」

「……っ」

 つい悲惨な状況がありありと脳裏に浮かんでしまう。振り絞ったはずの勇気なんて一瞬で砕け散って、マイクに悲鳴が入らないよう噛み殺すので精一杯だった。

 路肩に車が滑り込んでくる。中へ押し込もうとぐいぐいと肩を押される。腕が使えずバランスを崩しながら後ろを振り返った。

(だ・い・じょ・う・ぶ)

 歯を食いしばって自分を抑え込んでいる相方を安心させようと声に出さずに口を動かす。背中を突き飛ばされ後部座席に倒れ込んだ。

『ごめん、俺無理』

『カイル?!』

 イヤホンにカイルの呟きが入ったかと思うとアダムの叫び声が聞こえる。何事かと振り返れば、瞬きのうちに開け放たれたドアの外でカイルが私を捕らえた男にナイフを突き付けていた。

「お、お前」

 男は私に対しての余裕を失い冷や汗をかいて青ざめている。

「お嬢は知らなくとも俺のことは知ってんだろ」

 カイルは男の頭を抱え、一ミリ動かせば首が切れる位置にナイフの刃を添えていた。ドスを利かせている声も初めて聞く。

「ネッスン・ドルマの、狂犬……!」

「正解。俺も連れて行け」

 カイルはナイフで男を脅して車に乗せる。自分は悠々と後部座席の私の隣りに乗り込んだ。敵のアジトへ連れて行かれるところだというのに、車内の形勢は逆転する。

「寄り道しようなんて思うな。あと振り返って俺たちを殺そうとなんてすれば俺のナイフはお前らの銃より早く動いて車内を血に染める。嘘だと思うならやってみればいい」

 カイルは立ち上がってひたひたとナイフで相手の首を叩きながら助手席に乗り込んだ男を脅しつけ、車を運転してきた男も青ざめると粛々とアジトへ向かっていくようだった。

 どすん、と隣りの席に腰掛けたカイルを見る。私の手首を縛っていたネクタイを解いてくれてからはこっちを見てくれない。いつ男達が振り向いて銃口を向けてきてもいいように、また、行き先を見ておくためにだろう。鋭く前を見据えたままの横顔だけが見えた。

 ねえカイル、今何を考えてんの。指示も無視しちゃってさ。

『カイル~! もう! そのままお嬢と潜入! カイルがいるならオシリスとの密約書も狙うから、ショウから連絡あるまで動かないようにね!』

 アダムが呆れたように叫ぶのが聞こえる。私一人で行くはずだったのに。付いてきちゃって、馬鹿なんだから。そう思っているはずなのに、胸の奥からどんどん安堵が湧いてきた。

 一人で怖い思いをしなくていいんだ。すぐそこに、カイルがいる。触れられる距離でカイルが息をしている。

 無意識に手が伸びて、そっとTシャツの裾を掴んでしまう。警戒しているカイルはぱっと振り返った。

「あ……」

 私、何をやっているんだろう。

 本当に大丈夫だったんだ。一人でだって。でもカイルが来たら安心して、もう一人にしないでほしいなんて思ってしまう。

 私の顔を見たカイルは目を細め、口角をゆるりと上げてみせた。

 ああ、大丈夫だよって安心させるための大人の笑い方だ。こういうときだけ大人ぶるの、ずるい。

 布地がぐしゃぐしゃになるほど裾を握り締めてしまっていた私の手はカイルに外される。そしてすぐに自分の手でぎゅっと握ってくれた。ナイフを握る位置にまめのある掌は硬いけれど温かい。冷えきっていた胸の奥がじわじわと温かくなっていく。カイルの反対側の手も伸びてきて、私の頭を撫でた。

「たんこぶ、できてる。ごめんな」

「平気だもん」

「うん、知ってたよ。お嬢は堂々としてたもんね。俺が離れ離れになんのやだった。だってバディーでしょ」

 馬鹿。泣きそうになるから、今そんな優しい声でそんな優しいこと言うな。

 車内で束の間訪れていた平穏は、スコーピオンのアジトに着くやいなや壊された。

「武器を捨てろ。両手を挙げて降りてこい」

 銃を向けた構成員に車をぐるりと囲まれ、いくらカイルでもナイフじゃ太刀打ちできずに蜂の巣になるのが見えている。カイルは無表情でカラン、と車外の床にナイフを投げ捨てた。私の銃は奪われたままだ。

 二人で手を挙げて降りていく。運転席と助手席にいる男達が勝ち誇ったような顔をして私たちを見ているのが腹立たしかった。二人じゃカイルには手も足も出なかったくせに。

「止まれ。素面でアジトに入れる訳ないだろ。これを飲んでもらおうか」

 白い錠剤が一錠と水を渡される。マーカスや売人が持っていた粉とはまた別だけど、どう見てもやばいドラッグだ。でも飲まないと中には入れてくれなさそう。くっそ……うちのファミリー、後で病院とか連れて行ってくれるんだろうな? 

 腹を括って受け取った錠剤を口元に運ぶ。その寸前で、横から伸びた白い手が錠剤をかっさらっていった。

「?! カイルっ」

 カイルが私の分の錠剤も奪い取って、二錠が開かれた口に投げ込まれる。ごくん、と喉仏が上下するのを見た。

「ちょっと、何やって」

「俺が飲めば戦力削ぐには充分だろ。中に入れろ」

 カイルは私を無視して無機質な瞳で敵を見据える。瞳にいつもの光がなくて、味方のはずの私までぞくりとした。

「ま、まあ狂犬が飲んだなら女一人ぐらいどうとでもなるか。……お前、一錠で勘弁してやったのに格好つけたこと、後で悔やむことになるぜ」

 及び腰の敵が中に入れてくれる。人質のはずなのにこの場を支配しているのはカイルだった。

 ガシャン、と私達を閉じ込めた部屋の鍵が掛けられる。私達は後ろ手に縛られたまま突き飛ばされ部屋の床に転がっていた。芋虫のようにもごもごと動いて、なんとか座る姿勢になる。

「カイル! 大丈夫なの?!」

「うん。ちょっと暑ぃぐらい。なんともねえよ」

 カイルは首筋にうっすらと汗を滲ませ笑ってみせた。確かに目の焦点もしっかり合っているけれど。敵には無表情で対応していたカイルが私にだけ向けてくれる笑顔で、カイルの思惑通り安心してしまう。

「私を庇うことなかったのに」

「え、俺そのために来てんだもん。怖いこと、嫌なことは俺が引き受けるよ。ね、アダム?」

『……カイルの好きにしなよ……。後で絶対医者にかかりなね』

「ほらね」

 いや、作戦通りじゃないからアダム呆れちゃってますけど。

『そういうのって飲んですぐのまだ効いてないときとハイになってるときはいいけど、効果切れたときが辛いんだからね』

 そうだった、安心してる場合じゃない。だからみんな中毒になるんだから。

「うえー、今そのことは置いておこうと思ってんだから、思い出させないでよアダム」

とカイルも顔をしかめて言う。

 私が申し訳なさでいっぱいになると、カイルはまた笑顔に戻った。

「どうしたの。今日のお嬢、しおらしいじゃん」

「……そういう役の演技だから」

「あー、あれね! お薬欲しい……って演技めっちゃ良かったわ! アカデミー賞狙える!」

「ふっ、煽ってんの」

「いやマジマジ!」

 こんなときだというのにカイルのおかげで笑みが溢れる。

 部屋の前の廊下をばたばたと人が通る足音がした。げらげらと笑う下卑た声や、言い争う声も。何でもないような音で、いちいちはっとドアの方を見てしまう。

「ぃよいしょー、よいしょー」

「え、何」

 間抜けな声に意識を引き戻されたら、お尻と足でにじり寄ってきたカイルが、私の背後に回って縛られた手の指先をちょん、と絡ませた。

「大丈夫だよ」

 声が聞こえて、背中に温かい体温が触れる。後頭部がぐりぐりと擦り付けられた。見えなくたって、声で今どんな表情をしているか分かる。また面倒見の良い顔をして大人ぶっているんでしょう。

「私は平気だよ」

「うん。俺が手を繋いでたいだけー」

 嘘つき。

 恐怖がどんどん和らいでいく。柔らかい声が、触れる体温が心を鎮めていく。私、カイルが来てくれなかったらどうなってたかな。

「一回繋ぐごとに二十ドルね」

「何ー! お前! 金取るのか!」

「当たり前でしょ」

 私の吹っかけた冗談にカイルはすぐに乗ってくれて、敵の手中にもかかわらずげらげら笑った。

 そんなことばかりもしていられない。突然ドアが開くと、カイルだけが呼ばれて去っていく。カイルは立ち上がる前に私の指をぎゅっと握っていった。馬鹿、こんなときくらい自分の心配しろ。

 カイルのいなくなった部屋はしんと静まりかえる。時計がないから時間が分からない。

「アダム、カイルが連れていかれてからどのくらい経った?」

『一時間経たないくらいかな』

 まだそれだけしか経ってないのか。一人の時間は長い。

 いやいや、カイルは何されてるか分かんないのに、私は待ってるだけでしょう。しっかりしろ。自分を叱咤しているとガチャン、とドアノブが下がってカイルが戻ってきた。

「ただいまー!」

 ぱっと見は元気いっぱいでほっとする。服の下は見えないけど。カイルは部屋の外で何があったか言おうとはしなかった。

「おかえり」

「お、お嬢、俺がいなくて寂しかった?」

「静かで快適だった」

「くぅぅ!」

 カイルが悔しがりながらも、一瞬ほっとしたのを動体視力の良い私は見逃さなかった。大方自分が連れて行かれている間に私が何もされていなくて安堵したんだろう。人のことばっかり気にして、自分の心配しなさいってのに。

 カイルはその後も二、三度呼ばれて、その度にけろっと帰ってくるけど心配で仕方ない。だんだん過激になっていくようで、三度目に帰ってきたときカイルの肩から上はずぶ濡れだった。

「大丈夫?!」

 水責め? どういうメンタルとスタミナをしてたらそんな満点の笑顔で帰ってこられるの。

「ぜーんぜん元気! お嬢、濡れるから近寄んないで~」

 相当咳き込んだんだろうか。明るく笑ったカイルは少し掠れている声に気付いて数度咳払いをした。水を吸った髪からぼたぼたと雫が垂れて、Tシャツの裾の方の乾いていた部分も濡れていく。

 クシュン。私から距離を空けて座ったカイルはかわいらしいくしゃみをした。そりゃそうだ、もう十月だもん。酸素不足になったからか、寒さからか、口角は上がっているけれどいつも桃色の唇が真っ青だ。ほんと、馬鹿。

 後ろ手に縛られているものだから苦労して立ち上がる。カイルは呼ばれるとひょいひょい身軽に出ていくけどどういう体してんだ。

「およ? お嬢どうした?」

 不思議そうに見上げてくる濡れそぼった子犬の背後に回って腰を下ろした。

「ん、なになに」

 そう言いながら私にされるがままになっているカイルの両脇に足を投げ出し、上半身で彼の背中にもたれかかる。ちょうど良い位置にあったので顎はカイルの肩に引っかけた。カイルの体温で温まった水が服に染み込んできて、じっとりと生ぬるく湿っていく。

「お嬢! 何してんの、濡れるって!」

 私にぴたりと張り付かれてようやく身動ぐカイルを顎で押さえつけた。動くな動くな、手が使えないんだから。

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。熱出るよ」

「えぇ……それ言うならお嬢もじゃーん」

「だから二人でくっついてたらあったかいでしょ」

 諦めたのか、カイルは大人しくなる。それでも、特に濡れている髪は私に付けまいとしているのか前屈みになって顎を膝に付けていた。

「お嬢ー」

「なに」

「当たってるよー? 胸ー」

「分かっとるわ」

 だから手が使えないんだってば。私だって使えたら腕を摩ってあげたりとかにしていた。この状況で温めようと思ったらこれしか思いつかなかったの!

「あと、俺の手もお嬢の股の位置だしさあ」

 そりゃあ、後ろ手に縛られてるからな、この変態。さっきからそんなことしか言えないのか。よくこの状況でそれだけ楽しめるもんだ。

「ちょっとでも動かしたら指切り落とす」

「えー、あいつらよりお嬢の方が怖えじゃん!」

 カイルはけらけら笑った。

「俺の理性が試されるぅ。おいショウまだかよ!」

『イアンとウィリアムはもうアジトの中に入ってるよ。あとはショウの合図を待ってるだけ』

「え! もうこの建物の中に二人が忍び込んでるの?」

『お嬢、しー』

 アダムからの報告に驚く。来るときにオートロックとかもあったけれど、そうかアダムがいればそんなものはないも同然だよね。

『カイル。無茶言うなよ、こっちはボスを色仕掛けで落とそうってんだ』

 ショウが通信に割り込んだ。

『うちの従業員がもうすぐボス寝かすから、あとちょっとイチャイチャして待ってろ』

「「イチャイチャはしてない!」」

 叫んだ声はカイルと揃った。顔が熱い。そうだった、すっかり忘れてたけど声は全部マイクに拾われて他の構成員にも聞かれているんだった。

 それでも、ショウの報告で俄然元気が湧いてくる。もうすぐ盟約書が手に入る。そしたらみんなが助けにきてくれるんだ。

 ショウの役割は今アジトとは別の場所で休暇中のスコーピオンのボスに取り入り、スコーピオンとオシリスが手を結んだ証拠の在り処を吐かせてそれを手に入れることだった。今頃ショウお抱えのナイスバディな従業員さんがハニートラップでボスを落としているのだろう。

 あれ、これってショウの手柄じゃなくてお姉さんが凄いだけでは。いや、お姉さんを危険な仕事にもその気にさせられるショウの手腕ということにしておいてあげよう。

 今度はなかなか呼び出されなくて、カイルの髪もすっかり乾いた頃。

 バン!

 ドアが勢いよく開いて男たちが入ってきた。今までカイルを呼びにくるのはせいぜい二人程度だったのに、大勢がばたばたと入ってきて思わず肩が跳ねる。くっついていたカイルには気づかれたんだろう。彼は咄嗟に小柄な背中で私を庇うように片膝を立て腰を上げた。無数の銃口が向けられる。

「二人一緒に来てもらおうか」

 脅されながらのろのろと従い、山ほど階段を上ってドアを開けた先はなぜか屋上だった。

「屋上?」

 カイルが尋ねる。

「お前に聞いてもちっとも話さねえからな。このお嬢さんに聞いてみようかと。しかもお前ら随分仲が良さそうじゃねえか」

 突風の吹き荒れる屋上で腕が使えずバランスを崩しながらよたよたと歩いていると、私の首には太い腕が回り、カイルはドンッと背中を突かれて端の方へと押し出された。

「危なっ。何するの?」

 呟いている間に私のこめかみにはコツ、と硬い金属が当てられた。丸いそれは銃口だ。

「狂犬。お前が喋らないならこの女を殺す。女の方でもいいぜ。女が喋らないならお前を撃ち殺す」

 突き飛ばされてもぎりぎり転ばずバランスを取って、美しい夜景を背に振り返ったカイルにも無数の銃口が突きつけられた。

「狂犬に一対一で銃なんて突きつけたって銃を奪われかねないからな。後ろにも迂闊に下がれないようにしただけで、お前らの条件は同じだ」

 なるほど、カイルはそれだけ警戒されているらしい。私は聞いたことがなかったけれど、一体どんな逸話が知れ渡っているんだろう。

「ふぅん、ビビってんの」

 なんて挑発し、屋上の端っこぎりぎりを平均台のようにしてひょこひょこ歩くカイルに合わせて銃口が動く。そんなものはちっとも制止になっていない様子だ。遠くでヘリコプターの音が聞こえていた。風が強く吹いて、カイルが「おっとと」とバランスを崩す。ぎゃああ。味方の私も肝を冷やすから馬鹿なことをするのはやめてほしい。

「さあ、どっちが話すんだ? 先に話した方だけ生かしてやる」

 囚人のジレンマってことね。幹部らしき男は勝ち誇ったように私たちを煽る。そう言われてもなあ。

「あんた達に話したら結局自分もファミリーに消されるだけだもの」

 話すメリットが皆無だ。

「お嬢の言う通り。ここたっかいねー。何階?」

「十五階だ。落ちたら確実に死ぬだろうな」

 男に脅されてもカイルはまだふざけてちらちら下を見ながら度胸試しをしている。男はしびれを切らしたのか、苛立ったように言った。

「そんなに飛んでみたいならお前から先に落とそうか? こっちも悠長にしていられないんでな。女はお前が飛ぶところを黙って見ていられるかな」

 男の腕が振られたのを合図に、銃の撃鉄を一斉に起こす音がする。ん? とのんきな声でカイルが振り返った。背中に背負った夜景と同じくらいに黒い瞳に輝きを宿して、その男は口角を吊り上げ狂った笑みを浮かべる。

 ほんと綺麗な人。こんなときだというのに思わず見惚れた。周りの男たちも息を呑んだから、みんな考えは同じだったかもしれない。

『時間稼いで!』

 今まで静かだったアダムから突然通信が入って、無茶なことを言われた。そういえばなんかイヤホンの向こうが騒がしいけど、これ時間稼いだくらいでなんとかなる状況か?! でもアダムの言うことだし、と咄嗟に叫ぶ。

「彼は高飛び込みの州大会優勝者だ!」

 カイルだけがぶふぉ、と吹き出した。

「そう、俺高飛び込み優勝してんだよねぇ」

 カイルが笑いを噛み殺しながら言う。男たちはぽかーんとしていた。その中で部下たちから振り向かれた幹部がいち早くひどいハッタリの衝撃から立ち直る。

「仮にそうだとしても、下はプールじゃなくてアスファルトだ。じゃあせいぜい最後にその実力を生かして宙返りでも見せてくれや」

 下ろされていた銃口が再びカイルに集まった。まずいまずいまずい。もうほんとに何も思いつかないんだって。この状況であんな平然としてるカイルの方が異常なんだから。

 どうするの、とカイルを見ると向こうも私を見ていて目が合った。今までの挑発的な狂った笑みが一瞬なりを潜め、優しい眼差しが向けられる。嫌な予感がした。

「お嬢!」

 突風にもプロペラの音にも負けない、よく通る声が届く。

「先に行って待ってるわ」

 胸がざわついた。まさかね。ここで死んだりなんてしないでしょ?

「カイ、」

 全員の注目を浴びた彼は口の端で舌を軽く噛むと、瞳孔をかっ開いて美しい唇を動かした。

「じゃあな!」

 震え一つない足がとん、とためらいなく床を蹴る。まるで近所に出かけでもするかのように簡単に、カイルは一瞬で視界から消えていった。キャーーーー、と道行く女性の悲鳴が聞こえる。

「カイル!!!」

 半狂乱で叫んだ。嘘だ。いっつも何されても平気で、死なないみたいな顔をしていたくせに。こんなところでこんな簡単に死ぬ訳ない。

下を確認しにいきたくて、男の拘束から逃れようともがく。男も圧巻の幕引きに油断していたのか、私一人じゃ何もできないと分かっているのか、首にかかっていた腕はあっさり外れた。

そこに通信が入る。何、もう全部遅いんだって!!

『お嬢!! 飛び降りろ!!』

「は? 誰?!」

 アダムじゃないことは分かったけど、プロペラの音がうるさすぎて聞こえない。

『誰じゃねえ、オレだよジャックだよ!! いいから今すぐ飛べ!』

 バディーのカイルを守れなかったからお前も秘密を漏らす前にすぐに死ねって? 分かったよ飛び降りますよ。

 冷酷な命令に自暴自棄になって、敵に止められる前に床の切れ目に向かって駆け出す。その勢いのままに地面から足を離した。

 視界いっぱいに広がる夜景。突風が吹き荒れ目を閉じる。

 一瞬宙に浮いた体は、すぐに胴に回った腕にがっしりと捕まえられた。

「ヨッシャ、俺ナイスキャッチ!!」

 カイルよりも更に高い声が頭上で響く。何が起きているの。閉じていた目を恐る恐る開いた。

 ビルから飛び降りたはずの私を抱えていたのは若い男。知らないはずなのになんかどこかで見たことのある顔だ。私の足はまだ宙に浮いていて、遥か下には豆粒よりも小さな車のテールライト。

 嘘、飛んでる。

 と思ったら私を抱える男の反対の手が縄梯子を掴んでいた。私の足よりも随分と長く伸びた男の足もはしごに乗っている。頭上ではバラバラと煩く回るプロペラ。私はヘリコプターから垂れ下がったはしごに乗った男に胴を引っ掴まれていた。

「お嬢~、重いから自分ではしご掴んで!」

 男はうぐぐ、と顔をしかめながら叫ぶ。何だこの失礼な奴! そりゃあ人間一人を片手で捕まえていたら重いでしょうけど。ウィリアムならレディーに向かって絶対言わないね。落とされても嫌だから掴みますけど!

『おいお嬢ー! レオはネーヴェの構成員で敵じゃないから振り落とすなよ!』

 イヤホンからジャックの声が聞こえた。

「なんでジャックは私がやろうとしたことを分かってるの」

 どこからか見えているとでもいうのか。

「嘘でしょ?! 俺助けたのに?! このお姉さん怖!」

 一緒にはしごにしがみついてる若い男が喚いているけれど、この場面で初対面なんだから知ったこっちゃない。構成員と分かったら落としはしませんよ。

『上だよ上ェ! お前らがぶら下がってるヘリコプター、俺が操縦してんだ!』

「嘘」

 ジャックが? 屋上にいたときからプロペラがバラバラうるさいとは思っていたけれど、待機していたのか。

『はっ、スゲェだろ! あのタイミングでぴったりお嬢を拾えるようにビルに寄せるこのテクニック! 意外と器用なんだぜ』

「だから飛び降りろとか鬼畜なこと言ってきたんだ」

『お前オレが死ねって意味で言ったと思ってたの?!』

「うん」

 喋りながらはしごが自動で巻き上げられて、私とレオと呼ばれた男は網に掛かった魚のようにずるんとヘリコプターの中に投げ出された。

「だって、」

『じゃあな』

 脳裏にカイルが笑って真っ逆さまに落ちていく映像が蘇る。

「ごめ……っ。ごめん、ジャック。カイルが! カイルが死んじゃった! 私、守ってもらったのに!」

 俯いてジャックの顔が見られない。イヤホンの向こうで聞いているはずの他の構成員も静かだ。私のせいで、彼らの大事な仲間を死なせてしまった。

「ごめんなさい!」

 どんな窮地だって『大丈夫だよ』と笑ってなんとかしてくれたカイルは謝っても帰ってこないのに。最低だ。

「お嬢、そんなに落ち込まないで」

 レオが自分も辛いだろうにこんな私の背中を撫でてくれる。

 誰も喋らなくて、さっきまで騒然としていた通信はしんみりしていた。

「だってよ、カイル?」

 突如ジャックが静寂を破る。だから、カイルは死んだんだってば。

「何とか言ってやりなさいよ」

 更に言葉を重ね、ジャックは堪えきれないように笑いを漏らしていた。

『いやー……まさかお嬢がそんなに悲しんでくれると思わなかったからさあ。思わず黙って聞き入っちゃったよねえ』

 イヤホン越しでも聞き間違えるはずのない、クリアでのんきな声が響いた。胸が震える。

「嘘だ。いくらいつも不死身みたいでも、あの高さから落っこちて死んでない訳ないじゃん」

『死んでなーいよ。お嬢、びっくりさせてごめんね。あの時、下でアダムとマーカスが布広げてくれてんの見えたから飛んだんだよ』

 声の相手と会話ができる。空耳なんかじゃない。

『カイルが屋上って言ったの聞こえたから、時間稼いで!って言ったでしょ』

 アダムも会話に入ってきた。

『んふふ、お嬢のハッタリのおかげで間に合ったよね。あれおかしかったなぁ!』

いつもの笑い声が繰り返し鼓膜を震わせる。

「……っ」

『……お嬢? もしもーし。……もしかして泣いてる?』

 カイルの声が一気に案じる声色に変わった。

「おー、泣いてる。あーあ、カイルがお嬢泣かしたァ」

 目尻にあった雫が一粒溢れ落ちただけだけど、ジャックが大げさに告げ口する。

『マジ?! ごめんごめんごめん!! お嬢、ごめんな? もっと早く言えばよかったな? そんなに心配してくれると思わなくて……!』

 俺は敵の目の前だから作戦を喋れなかったし、アダムは焦ってインカム投げ捨ててきてたからさあ、とカイルが大慌てで耳元で騒ぐ。眉を下げてうろうろしているのが目に浮かぶようだった。

「……」

「ちょ、うわあお嬢! ヘリから飛び降りようとしないで! せっかく二人とも無事に助けたのに!」

「離せ! こんなの恥ずか死する!!」

『わーお嬢死ぬな! ごめんって!』

 ヘリコプターから飛び降りようとした私の逃走はレオに捕まり阻止された。

『お前らほんとずっとうるせえな』

 私とカイルがわちゃわちゃと揉めていた通信にショウが割り込んでくる。

『こっちが必死にボス寝かして裏掻こうとしてる間にラブコメしやがって』

「ラブコメしてないし頑張ってんのはショウじゃないでしょ」

『今ちょうど金庫から盟約書盗ん……〈ショウ~! あたしこんなオヤジ相手に頑張ったでしょ? 早くごほーびちょーだい!〉ちょ、わーかった、分かったから。後でちゃんとあげるからちょっと黙ってて』

 ショウの通信にかわいらしい女性の声が混じった。おいおい羨ましい職場環境だな? ショウがごほん、と咳払いをする。

『盟約書! 手に入ったから! 敵は心置きなく潰してよし!』

『うお、マジ?! おっせえよショウ!』

カイルの声が跳ね上がる。他の構成員も沸き立つのが分かった。

『イアン! 行っていいよな?』

『おう。ネーヴェ、スコーピオンを潰すぞ!』

『っしゃああ、行くぞお前らー!』

 声だけでもカイルが真っ先に突っ込んでいくのが目に浮かぶようだ。結構痛めつけられてその後に十五階建ての屋上から落ちたのにほんっと元気だな。

「ほら。お前も行くだろ?」

 ジャックに投げ渡されたのは拳銃。しかもあちこち付いた傷や凹みに馴染みがある。

「これ、私の!」

「イアンが忍び込んでる間に見つけて持ってきてくれたんだよ。後でお礼言っときな」

 身に染み付いた動作で弾薬を確認した。全弾装填されている。そうだ、今回あいつらにまだ一発もお見舞いしてないもんね。

 眼下に見えるビルからは鬨の声が上がり、銃声や叫び声、爆発音が聞こえはじめていた。

「で? 下のお祭りに参加するだろ?」

「もちろん!」

 ジャックに無人になった屋上に下ろされる。

「俺ら非戦闘員は先帰って待っとくから!」

「はいはい」

 階段を駆け下りながら出会う敵を片端から撃ち抜いていった。一丁しか持ってない拳銃じゃ当然途中で弾切れするので、時々ご遺体から銃や弾薬を拝借していく。

 下りるほどに喧騒が近づき、カイル達の押しかけた一階が一番の激戦区だった。「お嬢の殴られた分ー! これもお嬢の分ー! あ、これもー!」と賑やかに叫びながらばったばったと人一倍切り倒している小柄な背中を見つける。

 おいおい私はそんなに殴られてないぞ。そもそも自分がやられた以上に今やり返してきちゃったし。

「カイル!」

 ぱっ、と見たかった血まみれの笑顔が振り返った。

「お嬢!」

 脇目も振らず駆けてくる馬鹿犬の背後を襲おうとする敵を撃ち抜く。ほんと、強いくせにいつも私まっしぐらなんだから。背中合わせになると、温かな体温が伝わった。

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