五章、お休みの日のハンバーガー

第5話

ウィリアムがショウを叩き起こして車を降り、カイルから順番にシャワーを浴びる。カイル程じゃなくても私にも血は付いていたし、全身硝煙の臭いがしていたので落ちるとほっと人心地ついた。

 部屋で髪を乾かし終わったところで、ノックが鳴る。

「はーい? どうぞ」

 なんだかんだ皆私が女だからと気を遣ってくれているのか割り当てられた部屋を訪ねてくることはなかったので、こんなのは初めてだった。かちゃり、と静かな音を立てて顔を覗かせたのはカイル。あんたノックなんてできたのね! と内心感動したのを隠しつつ迎え入れる。

 血はすっかり洗い落とされて、濃い灰色のスウェットの襟や袖から覗く白い肌が眩しい。黙っていれば本当に綺麗な男だ。くるんくるん、と毛先の緩く丸まった髪は乾かし足りないのかまだ少ししっとりしていて、傍を通られると石鹸の良い匂い。

「ふふ、カイル良い匂いするね」

 そう告げるとぱっと困ったような表情を浮かべたカイルが頬を掻きながら目を逸らす。顔がわずかに赤い気がした。

「さっきまで血生臭かったからそう思うだけじゃないの。バスルームにある同じの使ってんならお嬢も同じ匂いでしょ」

「そりゃそうだけど。自分じゃ分かんないし」

 カイルがぼそっと呟く。

「お嬢もいい匂いだよ」

「え? なんて? 聞き取れなかった」

「なんでもない!」

 なんなんだ、むきになって。

「そう? で、何の用事?」

 いろいろありすぎてわたしゃもうさっきから目蓋がくっつきそうだよ。用事なら早くしてくれ。

「いや、お嬢にとっては今日がファミリーに加わって初めての仕事だったから、様子見にきただけ」

「様子?」

「そうだよ。殺したり殺されかけたりしたことで怖がってないかなあとか、前のファミリーとやり方が違って困ってないかなあとか。見にきただけ!」

 心配いらなかった、お嬢めちゃくちゃ眠そうだしもう帰る! とカイルは言っている途中から一人憤慨して部屋を出て行こうとする。

「あはは、待って、待って」

 思わず笑ってしまいながら引き止めた。振り返ったカイルは頬を膨らませているものの大人しく留まってくれる。

「もう、何ー?」

「心配してくれたんだ? ありがとう」

「お嬢はお子ちゃまだから心配してるだけ」

「は? 歳変わんないでしょ?」

「俺二十八だけど。お嬢もっと下っしょ」

「にじゅうはちぃ?! 私二十三だよ。今年二十四になる。同じぐらいだと思ってたのに!」

 意外と大人なんじゃないか。童顔と子どもみたいな態度に騙されていた気分だ。

 カイルは椅子を勧めると回転するデスクチェアの上で小さく膝を抱え、ゆらゆらと揺れた。やっぱり子どもみたいな座り方をするなあ。私はベッドに腰掛け、そんな彼と視線を合わせた。

「抗争は前のファミリーでもあったから、死線で殺し合うのはもう平気だよ」

「そっか。最初に殺したときって覚えてる?」

 今夜――もう明け方だけど――のカイルの話し方はいつもより騒がしさが減って穏やかだ。そうしていると混じり気のない高めの声はとても耳触りが良い。

「覚えてるよ。そんなに昔じゃないもん。ボスの娘として拐われそうになって、たまたま護衛もいなくて、持ってた銃で撃った」

 だから聞かれるままに思い出なんて話してしまう。

「カイルは? 最初に殺したときって覚えてんの」

 ナイフが閃く度に人が死ぬ。あんなに鮮やかな殺人術を見たのは初めてで、相当場数を踏んできたんだろうな、とつい聞き返した。

「……いや? 覚えてなーい!」

 ふざけた口調でぽん、と声のトーンが跳ね上がる。

 ああ、これは覚えてるな。嘘つき。

 大体、戦闘狂とか自称して乱戦中に笑っているけれど、人を殺してなんとも思っていないなら私に「殺して怖がってないか」とか「最初に殺したときって覚えてるか」とか聞いてこない。自分が不安を経験したことがあるからこそ出る質問だもの。

 言いたくないならそう言っていいのに。詮索なんてしないから。マフィアなんて私みたいに親がマフィアとかじゃなければ、大概みんな過去にいろいろ抱えて入ってくる奴ばかりだ。聞かれたくないなら話を変えてあげるよ。カイルから振ってきた話題なんだけど。

「カイルって意外と世話焼きだよね? お子様っぽいから面倒見られてそうな感じがするのに」

「へへ、お嬢は俺のバディーだからね!」

「あんたそれ好きね」

「初めてだからうきうきだもん。大事にしたいんでございます。お嬢には嫌われてるけど」

 カイルは照れくさくなったのか話し方で茶化す。事あるごとに「バディーだから」とうるさいとは思っていたが、このふざけた男がそんな風に愛着を持ってくれているなんて露ほども知らなかった。

 なんでバディーが今までいなかったのか、とかなんで私と組もうと思ったのか、とかも聞かない方がいいんだろうか。まあ全部たまたまで、大した理由なんてないのかもしれないけれど。

「カイルのこと、別に嫌ってはいないよ。変態なとこは嫌だしうるさいけど、今日の仕事では頼りにしてた。これからもお願いします」

 少しは歩み寄ってもいいかな、なんて。

「そうなの?! お願いしまーす!」

 がばっと立ち上がったカイルが頭を下げる。

「うるさいうるさい。今言ったとこでしょうが。真夜中だからボリューム下げて」

 よほど嬉しいのか怒られてもカイルはにこにこだ。その笑顔をふっと消して彼が尋ねてきた。

「お嬢はうちに恨みとかないの。お父さんのファミリー潰されて自分は人質みたいにされて」

「ないよ。うちはこのタイミングで吸収されなくともいずれ衰退してたファミリーだったから。皆殺しじゃなくて吸収っていう形だったから、構成員を生かしておくためにも負けた相手がネッスン・ドルマでよかったなと思うくらい」

「そっかあ」

 変な奴ばかりではあるけれど、ネーヴェにも既にちょっと馴染んできちゃっているしね。

「それに、私が裏切ったらカイルが私を殺すんでしょ?」

「そうだよ。で、俺が裏切ったらお嬢が俺を殺すの。……まあお嬢に俺は殺せないけど」

 何だそれ。強さ自慢か。

「ファミリーの犬だから裏切らないんじゃなかったの」

「そ! 俺は裏切んないよー」

 カイルはまた笑顔を取り戻してにぱっと笑った。

「そんじゃ、明日お嬢と俺で買い出しだから。忘れんなよ」

「あ、そうなの? 買い出しぐらい私一人でもいいけど」

 アジトにはみんなで住んでいるから、銃や麻薬といった裏商売の道具だけじゃなく食料品とか消耗品といった普通の買い物も必要になる。それらは手の空いた者が適当に買い出しに行くことになっていた。

「だめー。バディーだから二人で行くの」

「はいはい」

 どこにでもカイルが付いてくることに関してはちょっと諦めてきていた。じゃあお互いもう寝よ、とカイルをドアの方へ追い出す。

 入り口まできて彼はくるりと振り返った。

「もし、」

「ん?」

「もし今日怖い夢とか見たら、俺が寝てても叩き起こしていいよ」

「ふふ、何それ。そこまで子どもじゃないけど」

「いいから! 言ったかんね! 隣りの部屋来ていいから」

「えー、カイルの部屋とか行ったら襲われそう」

「お子様は襲わねえよ。とにかく、寝られなくなったら呼んでいいから」

 おやすみ、と言い合ってバタンとドアが閉まる。

 はあ、と息を吐きながらも、どんな顔をしていいか分からなくなった。お子様扱いされるような立場じゃないと憤慨すべきか、細やかな気遣いを見せられたことに喜ぶべきか。用事って、ほんっとうに私を心配しただけだったんだね。それで自分にメリットがあるわけでもないだろうに。とんだ世話焼きだ。

 カイルの座っていた椅子をデスクの前の定位置に戻しながら、彼は人を殺した後に悪夢で寝られなくなるなんと経験があったのかな、なんて考える。私には隣りの部屋にまで起こしにきてもいい、なんて言っていたけれど、バディーのいなかったカイルはそうした長い夜を一人で耐えていたのだろうか。暗い部屋で膝を抱えるカイルを想像するとちょっと胸の奥が冷える。

 いや、でもなあ。血みどろになってケタケタ笑っているようなあいつがそんなタマかなあ。

 それにしても、何がお子様は襲わねえよ、だ。ダンスしながら散々人の体撫で回しといて。え、私そんなに魅力ない? 胸も普通ぐらいにはちゃんとあるよね? いやいや、襲われなくていいんだけどさ。後から思えばあまりの言い様に腹も立つというものだ。

 思わず姿見で自分のプロポーションを確認してしまったものの、ベッドに入れば数秒で眠気がやってきて悪夢なんて一つも見る間もなく私は爆睡した。

「お嬢ーおそよー!」

 昼前になって起きた私を元気な声が迎える。カイルも今起きてきたところらしく、私の分の食パンもオーブントースターの中の自分の分の隣りに入れてくれた。

「おそよう」

「よく寝られた?」

「朝まで爆睡。夢とか一個も覚えてないわ。カイルは?」

「にひひ、俺も爆睡」

 カイルは目を細くして白い歯を見せた。なんか知らんが今日もすこぶる楽しそうで何より。

 二人で遅い朝ごはんを食べながら今日の予定を話す。イアンとジャックはもう出かけたらしい。ウィリアムもお仕事へ。ショウはまだ寝ている。

 みんなすごく働くな、ショウはいつまで寝るつもりなんだろうね、なんて言いながら歩いてスーパーマーケットに向かった。隣りを歩く男はアニメキャラクターがでかでかと書かれたTシャツを着こなしている。最初こそそれで外に出んのか、と思ったけれど妙に似合っているし今はもう何も言うまい。イケメンというやつは何を着ていたって許されるものなのだろう。

 大型スーパーでカイルが押すカートに次々と商品を入れていった。

「あ、これ新作のチョコだー。イアン食ったかなー」とか、「ウィリアム確かこの調味料欲しがってた!」とか。買い物メモに書いてある物以外にもカイルは構成員の好きな物を目敏く見つけるとカートに入れにくるのがおもしろい。

「カイルは? 好きなの買わなくていいの」

と聞くと、そっと入れられるお肉。買っていい? と目で訴えて見上げてくる。

 そんなに上手に甘えなくとも元から駄目なんて言わないよ。戦闘狂でえろい童顔アラサーって知ってるのになんでこんなにかわいいんだろうな。

 食料品だけじゃなく消耗品も買ったら、お腹が空いたのでハンバーガーショップへ。カイルが「もう一軒俺の買い物付き合ってー」なんて言うのでちょっとロッカーに荷物を預けておいて、ハンバーガーをテイクアウト。二人で腕に袋を掛け、歩き始めながらさあ食べようとハンバーガーを袋から取り出したとき、カイルの手が止まる。

「どうしたの」

 横を見るとカイルの視線は一点で釘づけになっていた。数メートル先の道端に物乞いがいる。

 珍しいことじゃない。この国ならどこにでも見られる光景だ。小さなバケツだか空き缶だかのぼろぼろの容れ物をコン、コン、と床に打ち付け慈悲を恵んでもらえるのを待っていた。元の色が分からないほどグレーや茶色に染まった汚れきった服から見える手足や首は細い。胡座をかいた全身が小柄で、子どもだと気付いた。頬のこけた顔は目だけがぎょろりと大きく、傍を通る私達を見上げる。

「助けてくれねえなら見てんじゃねえよ」

 聞こえないくらいの声量にしたつもりだっただろうが、風の加減か小声で呟いたのが聞こえた。カイルがすとん、としゃがみ込む。

「これやる」

 自分は何も食べないままハンバーガーを袋ごとその子の前に置いてしまう。ガサ、と袋を鷲掴むと子どもは路地の奥へ走っていった。背中を見送ったカイルは視線を切って立ち上がると、何も言わずに私の隣りを歩きはじめる。

「……」

 私のハンバーガーはもう手元で紙を剥いで一口食べたところで、私は止めていた口をもごもごと動かした。手ぶらになってしまったカイルが何も食べずに私の横を歩く。

 ぐううぅ。

 二人とも無言なものだから、カイルのお腹の音がよく聞こえた。小さくため息をついて私の腕にかかっている袋を差し出す。

「はい」

「……えっ」

「なんで全部あげちゃうのよ。私のポテトとアップルパイあげるって言ってんの」

「……ありがと」

 カイルは大人しく袋を受け取った。ごそごそと手を突っ込むとポテトを摘んでいる。うん、私のお昼がハンバーガーだけになっちゃったけれど、一人で食べるよりずっと良い。隣りで何も食べていない人がいるの気まずいもんね。

「ああいうの見るとさあ、ついあげちゃうんだよね」

 ぽしぽしとどこか上の空でポテトを食べながらカイルは苦笑いした。

 ポテトとアップルパイのお礼と言い訳のつもりなのか、聞いてもいないのに話しはじめる。昨日もそうだけど私はとにかく身の上話なんて自分からは聞かないことにしているのに、カイルなりに悪いと思っているらしい。

「ほんとは今日一日しか保たない飯あげるんじゃなくて養って生き方教えてやんないと救えないんだけどね」

「ああ、飢えた人には釣った魚をあげるんじゃなくて釣竿の作り方と釣りの仕方を教えてあげなきゃいけないってやつ」

「そう。でも俺じゃ養ってやれないからさ。一食もらえるだけでもどんなに嬉しかったか知ってるから、つい」

 ああやって恵んでもらえるのを待っていたことがあるのか、と普段の明るさからは窺えないハードな生い立ちに少し驚いたのが見えないようにハンバーガーにかぶりついた。

「大人ならまだ見過ごせるんだけどね。子どもは生まれてくる場所を選べないから」

 横目で見ると綺麗な横顔はまっすぐ前を向いて、黒い瞳が遠くを見つめていた。

「でも人にあげて、自分はお嬢のをもらっちった。ごめん」

 カイルがこっちを振り向いて叱られた悪戯っ子のように笑ってみせる。後でお金返す、なんて言うので断った。

「いいよ。いいじゃん、カイルがあげたいって思うならこれからもあげれば。今度もお腹空いたら私のを分けてあげるからさ。ああいうのを平気で無視できる人より、そっちの方がずっといい」

 私をじっと見ていたカイルの眉が八の字に下がる。顔はずっと笑ってるのに、どうしてかこいつが泣くかもなんて思った。

「ありがとー」

 数秒の後、涙なんてこぼれなくて、やっぱり笑ったカイルがまた前を向く。

「カイルは拾われてマフィアになったの」

「そう。他にもいっぱい同じ境遇の奴がいる。ボスはスラム街で彷徨ってる子どもをよく保護してるから」

 カイルはどんな環境で育ったのだろう。想像することは難しかった。父のファミリーはマフィアにしては貧乏だったといっても、私は中流階級程度の暮らしはさせてもらっていた。使っている物や食事だって至って普通で周りの学生と同じだったから、ハンバーガー一食でこの上ない喜びを感じるほど飢えたことなんてない。

「……私も今まであげてくればよかったかな。ああいう人にはたかられたり襲われたりすることもあるから近寄っちゃ駄目って教わってたから」

 自分の心の狭さに気がついて言い訳のように呟いてしまう。ところがカイルはあっさりうなずいた。

「お嬢は近付かなくていいよ。教わってるので正解。みんな生きるのに必死だから。そういうことする奴だっている」

 俺は襲われたって返り討ちにできるから近付いてんの、と言いながら食べ終わったらしくゴミをまとめる。しんみりとした話は終わり、という合図。その空気に合わせるよ。

「まーた俺は強いぜ自慢」

「だってほんとだもーん」

 からかいながら私もゴミをまとめた。私のも一緒に少し離れたゴミ箱に捨てにいく背中を眺めながら、マフィアにしては人に甘すぎるなあと思う。新入りの夢見まで心配することといい、スラム街の子供を見捨てられないことといい。

 そして私は知っている。マフィアとしては、優しいということは致命的な弱点だということを。飄々と肉を切り刻む強さを持っているように見えて、随分と危うい人間が裏社会に生きていたものだ。

 でも、カイルが私のバディーでよかったと初めて思った。

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