四・五章、側近の泣き言

第5話

あんな彼女を見たからだ。誰かのために纏った美しいドレス姿。いつか見ることになると思っていたそれは、想像していたよりもずっとずっと綺麗で。だからだろうか、随分昔のことを思い出した。

廊下でばったりと出会った、厳しいと評判のダンス講師は、おひいがレッスンの途中で逃げ出したとカンカンに怒っていて。なんとか宥めつつ、俺はおひいを探すのを買って出た。

ここにもいない。じゃああそこかな。あっちこっち覗いて歩いて、おひいのお気に入りの隠れ場所を一つ一つ潰していく。十歳になったおひいはまだまだお転婆で、絵や刺繍といった女の子らしい遊びよりは体を動かすことが好きだった。城でのかくれんぼは得意中の得意だけれど、おひいの隠れそうな場所は俺には大体割れている。

きい……と小さく軋む音を立てて戸を開けると、外の陽射しが真っ暗な中に細く差し込んで、宙を舞う埃にきらきらと反射した。ぐす、ぐす、と泣き声がして、ああ当たりだ、と微笑む。

あまり使われていない暗い物置小屋。雑多に詰め込まれた物の隙間で、小さな女の子は膝を抱えて泣いていた。綺麗なドレスが煤けている。華奢な作りの靴は傍らに脱ぎ捨てられていた。

「おひい。なーにやってんの」

声が怒ってないように聞こえるよう気をつけて、傍にしゃがみ込む。

事実俺は怒ってないしね。こういうとき、おひいはもう自分で反省しているって知っている。そうすると何でもないような言葉も自分を責めているように聞こえると分かっているから、俺は努めて優しく話しかけた。

「アルア」

おひいの顔が上がる。頬は涙でぐっしょぐしょだ。何度も擦ったような赤い目元が痛々しい。

「どうしてここにいるって分かったの?」

「あは、おひいのことなら何でもお見通しだぜい」

ピースしたって今のおひいは笑ってくれない。

「ダンスのレッスン、投げ出しちゃったんだって? どうしたの。いつもそんなことしないじゃん」

指を伸ばしてそっと目元を拭ってやる。触れた頬がマシュマロみたいに柔らかい。おひいは目を細めて受け入れた。

「今日は何回やっても同じとこができなくて。ロイ先生が、『背中が曲がってくる!』『指先を伸ばして!』って背中や手を叩くの。そしたら、できていたところもできなくなってきちゃって。先生に『やる気が感じられない』って。でも、私どうしてダンスをやらなきゃいけないのか分からない」

「そっか」

汗で顔に張り付いてしまっている髪を剥がす。こんなに汗だくになるまで、きっとおひいは頑張っていただろう。でも意味が見出せなくてこれ以上頑張れなくなっちゃったんだな。

「意味分かんないのにやらされるのは辛いよね。おひい、勉強は頑張れてるもんね。でも勿体ないな。踊るの楽しいよ。俺がダンスする意味教えてあげる。おいで、灰かぶり姫」

手を引いて、明るい外に連れ出した。陽射しの下で見ると、おひいは見るも無残に埃まみれのくしゃくしゃだ。それでもおひいはどんな姿だって誰よりもかわいい。

「ね、アルア! 私、靴履いてないよ……っ」

ととと、と小走りに付いてきて、おひいが焦ったように言う。

「いいよ。あの靴、足痛いんでしょ」

おひいの足には靴擦れができて水膨れも破れ、血すら滲んでいた。これもレッスンに集中できない原因の一つだろう。むしろよくこれで途中まで取り組めていたと褒めてやりたいくらいだ。おひいは本来投げ出したりするような子じゃなくて、めちゃくちゃ我慢強い。あの靴、見た目にはすごくかわいいけれど足の形に合ってないし固そうだもんね。そういうのを履かなきゃいけないときもあるだろうけれど、俺の前じゃ別に履かなくていい。

「裸足だと、草が柔らかくて気持ちいいっしょ?」

足元は名前も知らない小花が咲くふかふかに生い茂った草っ原。おひいはようやく少し笑った。

「うん。くすぐったぁい」

俺は彼女の前に跪く。

「姫。俺と一曲踊っていただけますか?」

「わたし、うまく踊れないから……」

「うまく踊るのは大事じゃないよ。大丈夫。俺がリードしてあげる」

信じて、と手を差し出すと、小さな手が重ねられた。「一・二・三、一・二・三」とカウントしてワルツのステップを踏む。おひいは途端にがちがちに真剣な顔。そんなにこわばらないで。笑ってほしい。

俺は変則的なステップを踏んで基本を外れた。びっくりしたようなおひいの手を引いて、付いてこられるよう導いてやる。前へ、後ろへ。ちょっと大きめに、弾むように足を踏み出して。ぐいぐい自分のじゃない力で体を動かされるのがおかしいのか、おひいがくすくす笑いはじめる。

右へ、左へ、ほらくるっと一回転。片手を離しておひいの体をくるりと回すと、とうとうおひいは笑み崩れた。

「ね? 踊るのって楽しいっしょ?」

「こんなの初めて!」

こんなのぐらい何回だってやってあげるよ。またおひいを回すと高い声で笑う。更に今度はぐっと体を押し付け、そっくり返って後ろが見えるほど上体を反らさせれば、「倒れる~!」とおひいははしゃいだ。大事なお姫さまを倒れさせねえよ。身体はしっかりと俺が支えているし、おひいもそれを分かって俺に委ねきっている。

「ダンスはねえ、好きな人、相性の良い人を見つけるために踊んの。誰と踊ったら楽しいか、誰と踊ったらドキドキするか。そんで好きな人と踊るときは、愛情を確かめ合うんだよ」

くるりくるり。頭の天辺が俺の胸ほどにくる小さな体を抱きしめて、小花の咲く庭で二人きりで踊る。とくん、とくんと速い鼓動が伝わるほどに近い距離。手はお互いの体温を分け合って。目が合えば、自然と笑みがこぼれて。

だからみんな踊るの。俺がダンスをする意味を教えると、おひいは大人びて微笑んだ。

「そっか。だからアルアと踊るのは楽しいんだね」

簡単に言ってくれちゃって。俺は淡く微笑み返す。

「うん。おひいがだいすきだよ」

涼しい風が吹いて彼女の髪をなびかせた。二人しかいない綺麗な場所。勘違いしそうになっちゃうけれど、きみは俺だけのお姫さまじゃないから。そろそろみんなのところに帰してあげないとね。

ステップを踏む足を止める。

「レッスン、もう一回頑張れる?」

「うん」

「そっか。偉いね。じゃあ一緒にごめんなさいしにいこ」

小さな手を引いてお城に帰った。元々運動神経は悪くないおひいは、やると決めればダンスもめきめきと上達していく。

本当は舞踏会になんて出られないくらい、下手っぴなままでいてくれてもよかったんだけどな。なんてちょっぴり残念に思ってしまったりしながら。それでもきみが泣くのは嫌だから、俺は街でかわいいけど動きやすそうな靴を見繕って、きみに贈った。

 回顧は終えスタン、と窓枠に飛び降りて、今度はノックなんてせずに窓を開ける。中にいるのはサムちゃんだから遠慮は不要だ。案の定、吹き込んでくる冷風に顔をしかめながらも「おかえり」と言ってくれた。自分は紅茶を飲みながら読書していたみたいだけど、紅茶の苦手な俺にも牛乳を温めはじめてくれる。

「寒そうな顔して。屋根を飛んで陛下の部屋に不法侵入しているところ、誰にも見つかんなかった?」

「それは大丈夫」

腕を摩りながら暖炉の前に屈み込む俺を、サムちゃんは呆れたように見た。

「はは、『それは大丈夫』ってことは、他に何か失敗したんだ?」

聞き慣れた柔らかい声にぎゅっと唇を噛んで見上げた俺の顔を見て、笑っていたサムちゃんが息を飲む。

「もしかして言ったの」

「…………」

じわあ、と視界が滲む気配がして、俺は抱えた膝に顔を埋めた。

「言った。やらかした。シャルのためを思うなら、言っちゃいけなかったのに。はっきりとは言ってないけど。でも気付かせたも同然だ。『俺だけのもんになればいいのに』って、言った」

蚊の鳴くような声で呟く。

「はは、それは言ったねえ」

サムちゃんが苦笑して、ことんと火にかけていた鍋を下ろす音がした。俺は顔を上げられない。マグにホットミルクを注いだサムちゃんがそれを持ってきて、ローテーブルに置く。

「ほら、ただでさえ小っちゃいのにわざわざそんな縮こまってないで。ソファーに座りな?」

「うるせえよ……」

肩を抱かれ、一緒にソファーに腰掛ける。ん、と強引に勧められたミルクに口を付けたら、お腹が温まってますます涙腺が緩んだ。おいおい、ただでさえかっこ悪ぃから泣きたくねぇんだって。勘弁して。サムちゃんとは逆の方向に視線を逸らし目にぐっと力を入れて、なんとか涙にはその場で留まっていてもらう。

「シャルが綺麗な格好して他の奴と踊ってんの見た後で、しかも踊ったりなんかしたら抑えらんなかった」

ぽつりぽつりと懺悔の言葉を吐く。

「踊ったんだ」

サムちゃんは驚いたようにまた笑っていた。悪かったな、我慢しているようで全然しきれていなくて。ず、とサムちゃんが紅茶を啜る。

「でも、別に言ったって良くない? アルアが陛下とくっつけばいいじゃん。アルアらしくないよ。いっつも自信満々で、さっきだって『ちょっと泣き止ませてくるわ』って意気揚々と出ていったのに。何でそこだけ自信がなくなるの。今も、ちゃんと陛下のことを笑わせてきたんでしょ?」

コン、とマグを置くのに音が立った。

「サムちゃん、本気で言ってんの」

優しい顔をギッ、と見つめた。八つ当たりなんてしたくないけれど、今は感情の制御が利かない。サムちゃんは俺の怒声を困った顔をして受け止めた。

「そうしたらどうなるか、賢いサムちゃんが分かってない訳ないでしょ」

「ごめん、分かってるよ。分かってる。アルアの家は、お父上が前陛下のウィル様に騎士団で出会って気に入られたことで一代でのし上がったけど、地方の小さな地主だもんね。そのアルアが陛下の夫になったりしたら、反感を抱いた貴族たちがこぞって手を結んで革命さえ起きかねない。そしたら首をはねられるのは陛下だ」

ぐっ、と膝の上で手を握り締めた。サムちゃんが淡々と語るのを聞いているだけで身の毛がよだつ。そんなことには、絶対にさせない。

「でも、」

言葉を切ったサムちゃんが目をきらきらさせてこっちを向く。

「それは今までの常識だったらの話だ。今度もそうなるとは限らない。アルアは何で『陛下を取るし国も守ってみせる』って言わないの。

さっき俺に『分かってない訳ないでしょ』って聞いたよね。ああ、俺は頭が良いからその行動を取った後のことは全部予測が付いてるよ。でも、それ以上。その予測を変えられるくらいの力が俺達にはあるって思ってる。

俺、陛下には幸せになってほしいよ。そんでアルアにも幸せになってほしい。そのためなら、俺はいくらでも策を弄する。だからアルアも、『俺が陛下を幸せにする』ぐらい言ってよ」

サムちゃんは俺の拳に手を重ねてにっこり笑う。その目は爛々と輝き意欲に燃えていた。

昔から、時々そうだ。誰よりも頭が良くて常識人に見えるのに、たまにぶっとんだ夢を語る。そんなところも好きで、ずっと仲が良いんだけど。

俺は大人ぶってサムちゃんの頭をぽすぽすと撫で、息を吐いた。

「サムちゃん、俺ねえ。もう十年以上ずっと、その質問は自分に繰り返してんだ。おひいが大事なんだよ。シャルが何よりも大切だ。俺、亡くなったウィル様に頼まれてんだよ。あいつのことも、あいつが治めるこの国のことも。自分の勝手で、シャルも国も危険に晒せない!」

だから、ごめんな。そんなに意気込んで力になるって言ってくれてんのに、ごめん。そう言うとサムちゃんは黙り込んだ。

今日は馬鹿なことをした。明日からはまたこの気持ちに蓋をしてシャルの隣りでシャルのために働くだけ。ただ、それだけだ。

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