二章、もう一人の側近
第2話
「アルア?」
「げ」
翌朝、私と一緒に謁見の間に向かっていたアルアは、会うなりドスの効いた声を掛けてきた男の顔を見てまずいという顔をした。あーあ。まあ怒られればいいさ。
「おっはよーサムちゃーん……」
アルアは顔を強張らせて、声もいつもより小さく既に逃げ腰だ。
「おはよう。昨日夜遅く、ノックもせずに陛下の部屋に入っていったんだってね?」
驚愕していた見張りの兵に聞いたよ、と相手は般若の形相をして言っているんだから怯えるのも当然だろう。長身が見下ろすようにして小柄なアルアに物理的にも圧を掛ける。
「一体何を考えてるのかな? 事実がどうであろうと婚前に疑われるようなことがあれば陛下の名誉に関わるって分かるよね?」
ちゃんとその後に夜のうちに帰る様子も見られてるから良いようなものの、とお小言は続く。まあそれは流石にそうしましたとも。未婚の男女、それも国王と側近が朝まで一緒にいたなんてことがあれば大問題である。
昨夜はひとしきり泣いた後、アルアはばしゃばしゃ顔を洗って自分の部屋に帰っていった。それですれ違う人を誤魔化せるかどうかは微妙なところだけれど。肌真っ白で、鼻とかすぐ赤くなるからなあ。
そうやって思い返している間に、アルアは早々に両手を合わせてぺこんと謝っていた。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいって……俺はメイド達じゃないからね? 可愛い子ぶったって無駄」
「ちぇー」
サムちゃんはつれない。
「陛下も!」
「は、はい」
突然自分に矛先が向いてぎくりとした。
「おはようございます」
「あ、おはようございます……」
思い出したように、でもきびきびと挨拶される。現国王への挨拶を後回しにするのなんて国中でこの二人くらいだろうな。私はそのくらいぞんざいな扱いの方が居心地が良いけれど。
「男が部屋に入ってこようとしたら、もうちょっと止めるなり追い返すなりしてください。自衛も大事ですよ!」
端正な顔の男に、ぴんっと人差し指を立ててお説教される。厳しい性格なのに妙にあざとい仕草をすることがあるというのは最近気づきはじめたことだ。なぜか似合っているのがまたメイド達に「サミュエル様ってかわいい!」と騒がれるポイントなのだろう。
「聞いてます?」
「あっまずい、一緒にごめんなさいしましょう陛下!」
「「ごめんなさい」」
「馬鹿二人」
アルアと並んで下げた頭をぼんぼん、と手に持っていたごつい本で立て続けに叩かれた。
「兵には黙っててもらえるよう、ちょっとご褒美をあげておきました。全く、尻拭いしなくていいようにしてもらえると助かるな」
「「ありがとうございます、サム様!」」
「調子が良いんだから。で? 二人ともちょっとはすっきりしたの」
「えー? サムちゃんには何でもお見通しだなあ」
頭の後ろで手を組んだアルアは、からからと笑った。いつも通り朗らかで、昨日ほろほろ泣いた人と同一人物とは思えないね。
「だらしない歩き方しないの」
一瞬でサムちゃんにどつかれて姿勢を正しているのは情けないけれど。
サミュエルことサムちゃんは、アルアと同じく私の側近だ。ずっと幼い頃から私に仕えていたアルアとは違い、私が女王になってから側近になった人。それ以前は若くして重要な会議に知識人として参加したりしていた経験があって、とても優秀だそうだ。私は即位するまでは名前と顔だけ知っていた程度だったけれど、アルアは騎士団での訓練兵時代からの友人らしく二人の関係は気安い。サムちゃんという呼び名もアルアにつられてである。
「家族を亡くしたばかりの陛下には本当に申し訳ないですけど、仕事は山のようにありますからね。今日は挨拶だけじゃなく、午後には大臣らと会議もありますけど準備はよろしいですか」
「うっ」
昨日は父が亡くなって以来久しぶりにぐっすり眠れたから、体調は良いし頭はいつになく冴えている。体の準備はばっちりだと言えよう。ただ、討論の準備、すなわち勉強が間に合ったかと言われると……。
「サ、サムちゃんサムちゃん。陛下、昨日疲れてたからお勉強できずに寝ちゃったんだよ。なんとか会議にだけ間に合うようにサムちゃんから知識叩き込んでくんね?」
苦笑いしたアルアが、怖い顔をしているサムちゃんを拝んで助け船を出してくれる。
「お、お願いします!」
私も一緒になって拝んだ。はあ、とため息が聞こえる。
「いいでしょう。お昼ごはんの時間は俺の言うことを一つ残らず頭に入れてもらいます」
「「ありがとうございます!」」
内心悲鳴を上げながらもありがたいことには変わりないのでぺこー! と頭を下げる。
「陛下はどんどんアルアとシンクロしていくのやめてください」
隣りで同時に勢いよくお辞儀したアルアと見比べて、サムちゃんは嫌そうな顔をした。
「あ、あとねー、あとねー。会議で『陛下のご意見』を求められてもよく分かんないときは、他の家臣に話振っちゃうといいですよー!」
「アルアはまたそういう悪知恵だけ入れようとする」
「なぬ! 立派な処世術だぞ!」
「まあね。有効な手段だとは思いますよ、陛下」
サムちゃんに苦笑いされながらもアルアがにこやかに助言してくる。
「他の人に話を振ればいいの?」
「そうです! 『あなたはどう思いますか?』って! それで良い案が出れば、褒めてそれを推してあげればいいですし」
「なるほど」
「もし良いなって思える案が出なくても、そいつが考えたり答えたりしている間に陛下は考えをまとめられるってわけです!」
「国王として隙を見せるような発言はできない中で、あくまで自然に時間稼ぎができるから、悪くない手だとは思いますね」
お勉強が苦手でもすぐできますし。今日もそういう場面があればやってみたらどうです、とサムちゃんは小首を傾げる。仕草は可愛いのに一言余計だ。
「ねっ、良い手だよね。ウィル様もやってたもんねー」
「父も?」
「そうです! 俺、会議に参加させてもらったとき同じことなさってるのを見て『あー、今考えてらっしゃるんだろうなあ』って思いましたもん」
追いつけないような遥か上の目標に感じていた父が、少し親しみやすくなったように感じる。
「まあその後誰も思いつかないようなめちゃくちゃ良い案を出してくださるから超かっこいいんですけどね!」
けれど続けて言葉を発したアルアはきらきらと目を輝かせいなくなってしまった憧れを追っていて、私は少し嫉妬した。待ってろ、今に追いついて追い越してやるから。
「とにかく、初めての会議ですけど傍には俺たちもいますし、経験から来るこういう知恵もあったりするんで。いろいろ頼ってくれていいってことです」
え、サムちゃんも怒るだけじゃなくてすごく良いところある。若くして王の側近なんて地位にいられるんだ、この二人は思っているよりずっと優秀な人材のはずで。とっても頼りになる人達だ。私は嬉しくなって笑った。
「ありがとう! これからよろしくね」
二人が微笑んで右手を胸に当てる。それは王への忠誠の証。
「「はい、陛下」」
午前の予定であった新王に向けた挨拶への対応は長引いて、昼食の時間に食い込んだ。すなわち私がサムちゃんから予備知識を入れてもらう時間がますます短くなる。全く、それもこれも最後に訪れた国境付近の領主が長々と領地の不平不満を訴えていたからだ。何日も掛けて城まで上がってきているので、すげなく追い返す訳にもいかない。「はい、はい、それは今後追ってご相談を」と何回言ったことだろう。さっさと空気読んで下がれじじい! と内心思いながら。最後はアルアがやんわりと助け舟に入ってくれた。自分でなんとかできなかったことがますます情けない。
「はい、座ってください。反省している時間はないですよ。時間が短くなろうと、必要な内容は覚えてもらうんで」
サムちゃんがパンパン、と巻いた羊皮紙で掌を叩く。怖い。幼い頃から私に付いていた教育係よりもっと怖い。私はぐっと唇を噛んでばさっ! と目の前に大きな白紙を広げ、ペンを持った。
「お願いします!」
やってやらあ!
「? 何です、その紙」
「丸暗記するならひたすら書くのが私にとって一番効率が良いので」
さあ早く。
サムちゃんはふっと唇を歪めて笑った。あ、初めてちょっと嬉しそう? 何に喜んだか知らないけれど。私を虐められる嗜虐心から笑みが溢れたのかな。いやいやそんな訳。
「後期の国家予算は五千億。その内訳は――」
「エレジア領の石炭はまだ潤沢に取れますが、王交代の混乱に乗じた隣国の侵攻に注意」
「モラン領は寒波で農作物が不作の見込み。国家予算で今のうちから救済策を考えた方がいいかと」
サムちゃんが淀みなく次から次へと国の現状を説明し、私は必死でペンを走らせる。彼の言葉は切れることがなくてもはや呪詛だし、私は鬼気迫る様子で紙を黒くしているしで、まるで地獄絵図。
アルアがたらりと汗を流すと、スー……と離れていくのを横目に見た。あ、こら、逃げるな。
「陛下、昼食の用意が整いましたが……」
「すみません要りません!」
この間からごめんね、メイド長。せっかく呼びにきてくれたのをすげなく帰す。でも今はごはんよりこっちをやりたい。いや、本当はごはん食べたいんだけどね? お腹はぐうぐう鳴ってますけどね? 領主のじじいのせいで時間がないんだもん!
「……ぐらいかな」
ようやくサムちゃんが話すのをやめた。いや、「ぐらいかな」って情報量じゃないですけど。でも、要点を絞って物凄くまとめてくれたことは分かる。
「ありがとうサムちゃん!」
私一人で勉強したんじゃこうは効率良くならなかっただろう。お礼を言って、ずり下がってきていた袖を再度捲り上げた。既に右手はインクで真っ黒に染まっている。でも、まだまだ。今のは一度書いただけだ。この量を頭に叩き込むなら、繰り返し音読しながら書くのが一番良い。サムちゃんには休憩してていいよと伝え、私は今聞いたことを一心不乱に書いていく。
「陛下」
「すみません後にしてください」
また声を掛けられるけれど、一切手を止めている余裕はない。どいつもこいつも、忙しそうな状況が見て分かんないのか。
「もー、俺ですよー陛下! サンドイッチどうぞー!」
後ろから拗ねたような声がしたと思ったら、後ろから伸びてきた手にもがっ、とサンドイッチを口に押し付けられた。
「んんん!」
「お腹空いたら頭回んないし、健康にも悪いからごはん抜くのは駄目です」
アルアがめっ、と注意して、目を白黒させる私にサンドイッチを頬張らせる。いなくなったのはこれを用意しにいっていたのか、と気がついた。書いている右手は止めないまま、左手でサンドイッチを持ってもぐもぐ食べる。
「これならお勉強しながらでも食べられるでしょう?」
アルアは微笑んだ。うう……気が利く。レタスとハムとスクランブルエッグが入ったサンドイッチが空腹に沁みわたる。そう伝えると、アルアは一人でげらげら笑った。
「あはは、さっきまで死にそうな顔してたのに、幸せそうな顔!」
だって本当においしいんだもの。
知識とサンドイッチをパンパンに詰め込んで、私は即位して初めての閣僚会議になんとか間に合わせた。サムちゃんの知識と、アルアの別の人を指名する手法でつつがなく会議は進んでいく。ぎゅっと握った手には汗を掻きっぱなしだ。脈も速いし、こんなことばっかりしていたら寿命が縮まっちゃうよ。あ、でもアルアに「生きてて」って言われたんだっけ。
「では、続いてエレジア領の炭鉱についてご相談ですが」
来た来た。今日振られる議題はほぼ全て予習済みのことばかり。サムちゃんの読みが冴え渡る。
「隣国ガラルドが斥候を放ち偵察に来ているという報告が既に挙がっています。どうなさいますか」
ふむ。サムちゃんの予想よりも事態は進んでいるようだ。
「グランツ公。エレジア領は貴公の管轄ですね。武勲にも長けるあなたはどうお考えになりますか」
体格の良い、いかにも武芸に富んだ見た目のグランツ公は、立派な髭を撫でながら当然だと言わんばかりに即答した。
「それはもう昔から先手必勝と決まっておりますから、我が国も軍を出すべきでしょう。炭鉱の守りを固めるだけでなく、相手方の領土にこちらからも斥候を放ちましょう」
「……。こちらも攻め入るべきだと。ご意見は分かりました。ありがとうございます」
これは困った。今日初めて、もらった意見が良いとは思えない。ええい、もう一人行こう。次だ次。
「ノートン侯は? あなたの考えもお聞かせください」
ノートン侯は今日の会議で一番の高齢。経験が豊富なのはもちろん、優秀な戦略家としても名高い。
「グランツ公の言う通り、ガラルドの領地には侵攻すべきでしょうな。我が国は王が交代したばかり。このタイミングで来たというのは、……老いぼれの言葉が悪いのをお許しくださいよ? 新陛下を舐めていると考えるのが普通。守りを固めるだけでは、相手がちょっかいを出してくるのは許す、という姿勢になり今後付け上がられるでしょう」
「あなたも、ガラルドに侵攻し返すべき、とお考えの立場ということですね。ありがとうございます」
どうする。この会議の場にいる全員が、私より何十歳も上。誰もが私の倍以上生きて、この国を父と共に取り仕切ってきている。政治については私よりよほど分かっているはずで。私だけが違う意見なら、私が折れるのが正しいのかもしれない。でも。
紅茶を飲むふりをして、こっそり視線を彷徨わせた。今、どんな顔をしているの。
王は常に堂々としているべきで、判断の際に誰かを頼るのは褒められた行為ではない。公爵たちにばれないよう素早く視線を動かせば、目当ての人間は長いテーブルの私と反対側、閣僚の後ろで立っていた。ぱち、と即座に目が合う。私は意識して助けを求めないようにしていたから、アルアを見たのは今が初めてだというのに。顔を見た瞬間に目が合うなんて、この人はどれだけ私のことを見ていたんだろう。珍しく笑みを消して真剣な顔をしたアルアは、じっと私を見つめ返した。
シャルなら大丈夫だよ。
そう言われているような気がした。飲んでいた紅茶を置く。口を開こうとすると、唇が震えた。
「炭鉱の守りは、固めます。国境の守りも。ガラルドへの侵攻は、しません」
場がざわつく。震える指先を誤魔化そうと、手を握りすぎて痺れてきた。まだ決定じゃない。だから物事がすぐに動き出す訳ではないのだけれど、一国の命運が最終的には私の判断に委ねられていることを実感する。荷が重すぎるけれど、やるしかないから。思っていたよりもずっとずっと早かったけれど、いつかはそうなるのだと私だって教えられてきた。
「お互いに侵攻すれば、戦争が始まるきっかけとなる火種が増えます。戦争をすれば、得られる成果は何でしょう。皆さんはご存知だからきっとお勧めになるんですよね。当然私なんかよりずっと分かってらっしゃる」
こんな、常に品定めされているような針のむしろの中で、滑らかに話せるような胆力はまだ持ち合わせていない。言葉を切りながら、私の意図が正確に伝わるよう必死に頭を働かせる。
「戦争の結果、相手国の領土、資源が手に入れば、我が国は豊かになりますね。それに戦争をするのに武器を集めるとなれば、国内の武器の生産力も上がり、景気も良くなる」
うんうん、と会議室にいる面々は一斉に頷いた。分かっているじゃないか、と。それくらいは分かっているさ。私だって王家の姫として教育を受けて育ってきたのだから。
「でも、奪って手に入れる資源は本当に必要でしょうか。我が国は資源に恵まれています。炭鉱から得られる石炭は潤沢だし、山も川も海も恵み豊かで、農作物がよく育つ土地もある。民は現状暮らしに困っていません。
戦争をすれば、利益を得るのは我々のような指揮を取る人間です。自分は安全なところにいて、手を振るだけで兵を動かせる人間。民も利益を得るかもしれませんが、傷付きます。多くの命が失われます」
「お言葉ですが、陛下」
グランツ公が勢いよく立ち上がった。
「陛下の仰るように、侵攻しないことを選んだとしても、結果調子に乗った相手国に攻め入られることになり民が傷付くと考えます」
彼の言うことも分かる。私が間違っているだろうか。自信なんて一ミリもない。ずっと不安なまま喋っている。
「ですから、守りは固めます。兵力はそちらに割きます。攻撃ではなく。あなたのお知恵もお借りしたいです。こちらからは攻め入らないことで、『争うつもりはない』とガラルドに伝えることもできるはずだと思っています」
「話にならないな」
これだから小娘は、と舌打ちとともに吐き捨てるように呟いたのが聞こえた。ぶつけられる悪意に、抑えているつもりでもびくりと体が震える。慣れなきゃ。
「ご命令通り、ひとまずは守りを固めます。兵を一部隊、国境付近に送りましょう。この件については近く改めて話し合いを」
「はあ……兵の持ち腐れですわな。あまりに使わないようですと彼らの腕も鈍りましょうぞ」
グランツ公、ノートン侯がため息を吐きながら勝手に席を立ち、会議は自動的にお開きとなる。まあ随分話し合ったから今日は議題ももう残ってはいないだろう。他の閣僚達も立ち上がった。アルアがぱたぱたと会議室のドアを開けにいくのが見える。
しん、と静まりかえる中一人玉座に取り残された私は、しばらく立ち上がれなかった。文字を読む訳でもなく、ただ手元のメモにぼんやり視線を落としていたら、ぽんぽんと大きな手に肩を叩かれる。
「お部屋に帰りましょう。送ります」
議事録を書き終えたサムちゃんが傍に立っていた。アルアは閣僚たちを見送ったまま会議室に帰ってこなくて、サムちゃんと二人で私室に帰る。
「サムちゃん、今日はありがとうございました。全部教えてくれた内容が議題に上がったから、すごく助かりました。本当にサムちゃんは凄い。ありがとうございます」
「いえ。勿体ないお言葉です。陛下も、初めての会議とは思えない堂々としたお姿で立派でございました」
「……」
私は微笑む。なんだか何も言えない。立派だって? 自分では全くそうは思わない。
「本当に。お見事でした」
私の顔を見たサムちゃんは語気を強め改めて言ってくれた。けれど私の表情が変わらないのを見ると、視線を前に戻す。自室の前にはすぐにたどり着いた。
「ありがとう、ここまででいいです。今日は長丁場お疲れさまでした。お昼休憩にまで付き合わせちゃいましたし、ゆっくり休んでくださいね」
「いえ、俺はこのくらい平気です。……アルアを呼びましょうか」
サムちゃんは下がろうとして、唐突に言った。
「へ? ……ううん、大丈夫ですよ。あとは寝るだけなので。おやすみなさい」
「……そうですか。おやすみなさい」
一人で部屋に入って、ぱたんとドアを閉じる。ふー……と息が漏れた。部屋の中に歩を進めて視線を上げる。するといるはずのない人間が視界に飛び込んできた。お茶を淹れていた様子のアルアが、にこにこ顔でこっちを見ている。
「……何でいるの」
「いるよー! 俺はいつだって陛下のお傍にいるよー!」
いるよ、じゃない。理由を聞いているんだ。全く、何で兵も通しちゃったんだろうな。
「何でいるかって、シャルを労うために決まってるじゃん!」
あ、名前を呼ばれた。ぴんぴんに張り詰めていた緊張の糸が、それだけで一気に緩むような気がするのだから私って単純だ。名前で呼ばれるのは、「陛下」として振る舞わなくていいよ、という合図。
お茶を淹れ終えたアルアは、私の怪訝な顔もそっちのけで全力でおいでおいでしている。
今日の私の脳みそにはもう考える力は一つも残っていない。促されるままに近づくと、アルアは「はい!」と腕を目一杯横に広げた。
「何?」
「もー、『何?』じゃないでしょ。お疲れさまのハグ!」
「いやいや。……いやいやいや。そんな儀式知りませんけど」
勝手に部屋にいることといい、さも当然のことのように言われましても。え? 私がおかしいの?
「いーいーかーらー! 黙ってアルアさんにくっつく!」
焦れたアルアに強引に肩を引き寄せられ、私はぽすん、と彼の腕の中に収まった。途端に込み上げる、猛烈な安堵。ぎゅううと背中に回って離れない腕は、見た目よりずっと力強い。密着した胴体は私よりもぽかぽかに温かくて、いつも動き回っているから火照って体温が高いのかな、なんて。抱きしめられた瞬間、なぜか「あ、ここが私の居場所だ」「帰ってきた」といった感情が湧き上がる。心地良い。このまま一秒で寝落ちすらできそう。
肩に顔を埋めて深呼吸すると、胸いっぱいにアルアの香り。荒れていた気持ちが凪いでいく。
腕に収まった瞬間、抵抗もなくすっと大人しくなった私にアルアは笑った。
「どう? めちゃくちゃ安心するでしょ」
「ん」
「そりゃそーだ。この国で一番シャルを抱っこしてきたのは俺だもん」
「……父じゃないの」
「うんにゃ、絶対俺!」
けらけら笑った声が得意げに言って、大きな手ががしがしと私の後頭部を撫でた。この手もよく知っている。そっか、どうりでたまらなく安心するわけだね。
アルアはとーん、とーん、と小さな子をあやすように背中をゆったりとしたリズムで叩きながら、立ったままゆらゆらと揺れた。
「今日はよく頑張りました。偉かったよ。お昼にサムちゃんから聞いたことは全部覚えて発言に活かせてたし、すっごく堂々としてた。サムちゃんもきっとびっくりしてたよ。全部覚えきれるなんて、俺もサムちゃんも思ってなかったもん」
シャルのことを舐めてたんじゃなくて、無茶な量だったからって意味ね、と補足される。
「私、最後の議題、あれでよかった?」
声が震える。ずっと、会議中も誰かに聞きたかった。思わずアルアの顔を見てしまったほどに。
私は間違えていない? 国の進むべき方向を誤っていない?
「うん。俺はシャルの考え方が好きだよ。民が平和なのが一番だもん」
アルアはあっさりと私を肯定した。あれほど会議では否定されたのに。
「ふ、なーにびっくりした顔してんの。怒られると思った?」
優しい顔をして笑ったアルアに、私はうなずいた。
「側近ってね、王を全肯定する役職じゃないから。ちゃんと駄目だと思ったら指摘するから、安心していいよ。今日のはシャルの考え方で良いと俺は思った」
ちなみにサムちゃんもね、とアルアが言う。
「そうなの? さっきは何も言ってなかった」
会議中も書記に徹していたはずだ。
「シャルは初めての会議だったから分かんないよね。もう一個言っておくと、側近は会議中黙って付き添うのだけが仕事って訳じゃない」
アルアはくすくす肩を揺らして笑った。
「王がなんかポカやったら、俺らはフォローするためにいんの。あまりにも変なこと言ってたら修正したり、その場で揉めそうなら『この件は一旦持ち帰りで』ってお茶を濁したり。王の品位を落とさないようにしつつも打つ手はいろいろあるからさ。その俺らが今日、シャルの初めての会議でずっと黙ってたんだよ?」
アルアの声は終始嬉しそうで、誇らしげで。仕えている私がよくやったのが嬉しいって、心から思ってくれているのが伝わる。
「そっか」
「そうなの。サムちゃんなんて、結構頑固だからね。違うと思ったらガンガン食ってかかるし、理詰めで喋る喋る。だから今日は安心していいよ?」
「……ふふ」
ようやくちょっと笑えた。
「サムちゃんだったら今日の公爵たちも簡単に言い負かせそうだね」
「サムちゃんはウィル様のことだって言いくるめてたよ。シャルがいきなりそこまでできたら俺ら仕事なくなっちゃう。シャルはゆっくり自分の考えをまとめる、今の話し方でいいよ」
アルアはそのときのことを思い出したのか、苦笑いする。
「父のことも?!」
「ウィル様だって人間だもん。名案も多いけど、ちょっと突飛なこと言っちゃうことだってあったよ。そういうとき、サムちゃんが物凄い目つきで見てたなあ。ああそうそう、ウィル様がいたら今日の議題は絶対シャルと同じ意見だったと思うから、そこも安心していい」
「ほんと? そうかなあ」
父の背を追いかける私にとって、何よりも気になるのは、父ならどうしていたか。
「ほんと。だからシャルの記憶にある限りウィル様の在位中に戦争なんてしてないでしょ」
そっか。父も平和主義だった。私が決めたことで平和が保たれるかはまだ分からないけれど、アルアのくれる言葉でじわじわ安心感が募っていく。
「ウィル様のときもグランツ公、ノートン侯はああいう意見だったし、ウィル様はあの人達の頭を押さえつけつつ時に参考にしつつ政をしてたよ」
「そうなの?!」
てっきり私が不出来な王だから対立するんだとばかり思ったのに。
「そうだよ。お二人とも頑固な人たちだもん。ノートン侯なんてウィル様よりもずっと歳上だし。そもそも、みんな同じ意見なら会議なんて開く意味ないしね。違ってるから意見を戦わせて、国が間違った方へ進むのを防げる」
だから大丈夫、ひとまずゆっくり座ろ? とアルアにベッドに誘導される。ぽすんとマットレスに沈むと、アルアは私の強張った手を取った。
「手、がっちがちじゃん。よしよし、緊張したねえ。もう俺しかいないから、大丈夫だよー。ほら力抜いて?」
アルアの私より一回り大きな手が私の冷えた手を包み込んだ。温かい手に摩られてちょっとずつ手が開いていく。私、会議の度にこんな風になっていてこの先大丈夫だろうか。またしても不安が浮かんだら、心を読んだかのように「慣れていくから大丈夫だよ」とアルアは微笑んだ。アルアが何度も「大丈夫」と伝えてくるから、自信なんてこれっぽっちもないのに本当に大丈夫な気がしてくる。
私がちゃんとカップを持てるようになったのを確認して、さっき淹れていた紅茶を渡してくれた。抱きしめられている間にちょうど飲みやすい温度まで温くなったお茶は、今日も抜群に私好みの味。私がふうふうお茶を味わっている間に、アルアは御伽噺をするように落ち着いた声でささやいて、更に私の安心材料を増やしていく。
「グランツ公とノートン侯、次も会議に出てくださるかな。他の方も。私なんて今日で愛想尽かされちゃったりしない?」
「んなわけないよ。……ふふ、まあそう思ってもしょうがないか。あの人達分かりにくいんだもんなあ。もうちょっと追加で、シャルが意外に思うこと教えてあげる」
「え、なに?」
「グランツ公もノートン侯も、シャルがあっさり彼らの提案を鵜呑みにしたら、そっちの方がむしろ愛想尽かしてたかもね」
「……うそ」
私はぽかんとした。
「愚かな王には誰も従いたくないし、民のためにもすげ替えるべき。閣僚たちは一癖も二癖もあるけど、みんなしっかり国民のために働ける人たちだからね。シャルが王にふさわしいかどうか、自分のやり方で確かめようとしてる段階」
もうちょっと優しく見定めてくれてもいいと俺は思うけど、そこは各々のやり方だから、とアルアは私の頭を撫でながら苦笑する。
「王が年長者の意見に従うだけの傀儡じゃなく、ちゃんと自分の意見を持ってるかどうか。そしてその意見を述べて戦うだけの気概があるかどうか。シャルは成人したばっかりで歴代最年少の王だからね。今回見られてたのはそんなところ。
だからね、何回も言ってるけどシャルは今日本当によくやったんだよ。反省も大事だけど、気に病むところなんて一つもないの」
俺、すっごく嬉しいんだから。自信持って。そう言うと、アルアは私の手から紅茶をひょいとどけて再び私を抱きしめた。この人、自分がくっつきたくてやってないか。前までは表でももっと大っぴらにじゃれあっていたものね。くっつきたがりなのは周知の事実だ。女王になってあんまり馴れ馴れしくできないから、昼間は結構我慢していたりするんだろうか。
「私に反対されて小娘は何も分かっとらん、みたいな雰囲気にしておいて、本当は満更でもないってこと? それはあの方々、ツンデレすぎない?」
「ほんとにね。でも、きっと内心『おお、この小娘思ったよりやりおるわ。もうちょっと付いていってやってもいいかのう』って思ってる」
アルアが歳を取ったお偉いさんの声真似をするものだから、くすくす笑った。
「あとねえ、シャルの意見に賛同してる人、他にもいるよ。俺、会議室出るときみんなのこと見送ったでしょ? そん時、『あの場では言えなかったけど、本当は陛下と同じ意見です。もしよければお伝えください』ってこっそり耳打ちしてくれた人がいたの」
カルトン伯爵とかね、他にもー、とアルアはぱらぱら名前を挙げてくれる。ああ、あのちょっと気弱そうな方。
「ね? シャルは一人で堂々としてなきゃ、って思ってるかもしれないけど、ちゃんと味方はいるからね」
ぎゅっと抱きしめてくれる腕が、一番の味方はここにいるよと伝えてくれていた。
「はい、疲れた脳みそに甘いものー」
アルアが今日はクッキーだよ、と差し出してくれる。うん、実は部屋に入った時から気になっていた。焼きたての甘い香りをさせているの、これですよね! チェック模様を一つ取ってぽしぽしかじる。
「おいし~!」
頬を押さえて悶えた。お城のコックさんすごいな。これが食べられるのは幸せすぎる。お仕事頑張んないとばちが当たるね。というかアルアは本当にいつの間にこれを貰ってきたの。あなた、私と一緒に会議室にいましたよね?
「へへ、甘いもの食べてるシャルかわいいー」
アルアが自分は食べてもいないのに、私を見ているだけで嬉しそうに笑うのでちょっと照れる。はい、とアルアの口元にも差し出した。
「え、俺にもくれんの? いただきまー…ん~! 甘ぁい」
ぱく、と綺麗な唇でクッキーを取っていったアルアは目を輝かせながら頬張った。
「甘いもの食べるとシャルが幸せそうにするから、もっとあげたくなっちゃうなー」
クッキーを食べる私を見ながらにこにことそんなことを言う。
「やめてー。嬉しいけど太っちゃうよ」
昨日も今日も夜遅くにおやつを食してしまっているというのに。このままだとアルアに太らされる。
「そのぐらいで太んないよ、いっぱい頭使ってんのに」
「そんなのでエネルギー消費しないよ」
ちょこまか動いてばかりで一生太らなさそうなアルアには、乙女の悩みは分かるまい。
アルアに促されてお風呂に入り、今日は自分で髪を乾かしたことを褒められると布団に押し込まれた。なんでも褒めてくれるなあ。駄目なことは言う、とか言っているしお説教されたこともあるけれど、やっぱり激甘だと思う。
「アルア」
「ん、何ー?」
「兵って、使わなきゃ腕が鈍ったりすると思う?」
それは、今日私が言われて気になっていたもう一つのこと。
「ここ最近ずっと平和だけど、シャルは俺の剣の腕が鈍ったと思う?」
「ううん」
アルアは強い。毎日真剣な稽古を欠かさないのを知っているし、私に稽古をつけるのもアルアだけど、悔しいことにいつも余裕な顔を崩せたことがない。
「俺は守りたいものがあるから腕を鈍らせたりしない。兵たちも、ちゃんと同じだよ。シャル、さっきから提案しようと思ってたんだけど、明日はネージュ騎士団を見に行こうか」
「へ?! 明日も明後日も会議があったんじゃ」
ネージュ騎士団の基地までは、馬で半日ほど。見に行ったら夜駆けでもしない限り、泊まってから翌日帰ることになる。
「陛下のスケジュール管理は俺の仕事だからね。ずらしました! 明日明後日は急遽お忍びで王城周辺の視察ー!」
アルアはあっけらかんと言い放った。
「えええ?!」
聞いてない、聞いてないぞ。私、今から寝たら明日は早起きして勉強してから会議に出る気満々でしたけど。
「会議はお休み! 俺と遠出ー。……シャル、嬉しくない?」
アルアが不安そうに首を傾げる。嬉しいよ? 部屋に閉じこもって会議するより、視察の方が楽しそうなのに決まっている。
「でも、他の方の予定はずらせたの?」
「そこはもうばっちり!」
アルアは二本指を突き出した。
「ええ?! いつの間に?」
アルア、分身してる? 大体いつも私にくっついてるよね?
「ふふん、俺はお仕事できるんだぜい」
ちょっと上を向いて、胸を反らしている。いやまあ、お仕事できるのは知っていたけれども。会議を延期することを急遽参加者全員に伝えて、別の日を押さえるなんてかなり大変だったんじゃないだろうか。無茶したのは即位し立ての私にも分かる。
「ね、だからお休みして一緒に行こ? 俺ね、こんなスケジュールになっちゃって後悔してんの。だから、挽回させて」
アルアが不意に笑顔を消して眉を八の字に下げる。私が寝転ぶベッドに顔を突っ伏すと、ぐりぐりとシーツに顔を擦り付けた。どうしたの、と柔らかな髪に手を伸ばして撫でる。アルアが下を向くのは珍しい。
「シャル、昨日の時点でもう限界だったじゃん。ウィル様が亡くなってから謁見ばっかりでさ。心が休まる暇がない。それを俺が無理矢理立ち直らせて、その状態で今日は初めての会議にまで突っ込ませて」
アルアの肩が震える。
「俺、シャルの居場所にはなるよ。何回だって、帰ってくる度にエネルギー満タンにしてあげる自信はある。でも、そうやって元気にして、毎度シャルが傷つくって分かってる場所に送り出したい訳じゃない……!」
白い拳がぐっと握られた。
「忙しいスケジュールは、アルアのせいじゃないよ。新しく即位した王はみんなそうでしょう? 私にはアルアがいてくれるから、頑張れるよ」
アルアががばりと顔を上げて私を見る。
「シャルはそうやって『頑張る』って言うでしょ? だってそうやって良い子に教育されてきてるもん! 俺だってそう教えた。でも、歴代の王とは全然境遇が違う。みんなこんなに若くないし、急じゃないし、いびられたりもしてない。こんなの続けてたら、シャル壊れちゃうよ。だから、ちょっとお休みしよ」
震える指でそっと私の頬を撫でたアルアは、また顔を伏せた。再びその頭を撫でる。
「ね、そんな落ち込まないで。私大丈夫だよ。お休み嬉しいし。ありがとうねアルア」
「うっ、そんな優しくしないで……。休みだって罪滅ぼしみたいなもんだし。もっと早く休暇を挟むべきだったって、俺まじで反省してんだ」
「最初から、うまくできる訳ないもん。アルアも、一緒に成長していこ」
「……うん」
アルアはようやく顔を上げた。
「じゃあ、シャルは早く寝な? 俺、シャルが寝たのを見たら自分の部屋に帰るから」
「またサムちゃんに怒られるよ?」
「いいの。何だかんだサムちゃん優しいから許してくれるよ。今日も、アルアを呼ぼうかって聞かれなかった?」
「あっ、そういえば。何で分かるの!」
「ふっふっふ。サムちゃんのことも、シャルのことも何でもお見通しですよ」
「何それえ」
アルアがとーん、とーん、と布団の上から私のお腹を叩いた。小さい子を寝かせるときそのものの動き。
「ねえ、本気で私が寝るまで出ない気なの」
「俺が出た後勉強したら困るもん」
「しないってば! ちゃんと寝るよ!」
「何、俺に寝顔見られんのが恥ずかしいの? 今更じゃん」
アルアはにやにやと笑った。そうだよ。分かっているなら出て行ってくれればいいのに。アルアが乳母同然に世話をしてくれて私の何もかもを見たことがあるのは分かっているけれど、この歳になるとやっぱり恥ずかしい。
「シャールはいい子、いーい子いい子。ねんねしなー」
アルアが綺麗な声で歌を歌った。
「……それ、有名な曲の替え歌?」
「へ? ううん、俺が作った子守唄。……にひひ、聞き覚えあった?」
散々歌って寝かせたもんなあ、とアルアはまた歌う。かああ、と顔が熱くなるのを感じる。どんな罰ゲームだ。ばっちり聞き覚えがありましたとも。てっきり流行りの曲だから耳に残っているんだと思っていた。
パブロフの犬の如く、私にはその歌を聞けば眠くなる反射でも残っていたのか、とろとろと目蓋が重くなってくる。アルアって寝かしつけの天才かもしれない。夢見心地に、アルアが囁くのを聞いた。
「おやすみー。明日会うのはね、騎士団長も副団長も俺の友達だから。気楽にしていいよ」
「……おやすみ、なさい……」
「ふふ、うん、良い夢を」
アルアが頭を撫でるのを感じながら、私は完全に意識を手放した。
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