一章、名君の逝去

第1話

ウィリアム陛下が病で急逝された。その報せはローザ国内を震撼させた。穏やかな人柄、歴代の国王の中でも秀でていた知性で平和な治世を行った名君の若くしての死という悲報として。

ひとしきり悲しみに暮れた国民は、次の国王はどのような人物なのかということに注目する。自分たちの生活が懸かっているのだから、当然のように誰もが不安を抱いていた。

第十六代ローザ国王に就任したウィリアム前陛下の一人娘、シャーロット・ローゼリア。それが私。

毎日毎日、新陛下誕生に際する挨拶をしようと、近隣諸国の重職、我が国の貴族がこぞって訪れる。私は玉座に座ってそれに労いの言葉を述べ、挨拶を返すだけ。朝から晩までずっと謁見の間に閉じ込められていた。父が病死して亡くなったから納まった地位、何もめでたい訳などないのに皆が祝いの言葉を述べるのを聞く。何もかも嫌だ。おべっかも、皮肉も、作り笑いも、陰口も。一日でいいからお休みが欲しい。体と心をゆっくり休める時間が。

「お気の毒でした」

「見ろ、泣きも笑いもしない」

「あんな子に国を任せて大丈夫なのかしら」

全部聞き飽きた。なりたくてこんなにも未熟なままで王になった訳じゃない。それでも、私だってなんとか国のために働こうと思っている。でもいきなり父の業績に追いつける訳がないじゃないか。稀代の名君と謳われる父が王に就任したのだって、私よりずっと歳を取ってからだったというのに。限界だ。

今日の謁見がようやく終わって、客が帰るやいなや私は一人で謁見の間を飛び出した。もうすぐそこまで涙がせり上がってきている。早く人目のつかないところへ。足音高く廊下を闊歩し、自室に飛び込んだ。

部屋の前にいた兵が「お一人ですか?!」と驚いていたけれど、知ったことではない。鈍間な側近のことなら、どうせ後から追いかけてくるだろう。

バタン! と音高く重厚なドアを閉め、一番にハイヒールを脱ぎ捨てた。ずっと窮屈な靴に閉じ込められていた足がずきずきと痛い。あ、靴擦れ。

ますます悲しくなって、ず、と洟をすすりながら裸足で毛足の長い絨毯をずんずん進む。入り口からベッドまでが遠い。こんなに大きな部屋、いらないのに。

「陛下、お着替えをお手伝い……」

「いりませんっ」

ドアの外からメイド長に声を掛けられる。まだ一人にさせてもらえないのか。父はよくこんな生活に耐えていたものだ。

額に付けられたティアラを鷲掴みにし、後ろへ放り投げた。髪もぐしゃぐしゃにかき回す。ドレスを足元に引き下ろし踏みつけながら脱いで、コルセットを外せばようやく息が楽になった。ネグリジェを着て、天蓋付きのベッドに倒れ込む。じわ、と涙が滲んだ。

そのとき、きい、と小さく軋む音を立ててドアが開かれる。足音はとす、とす、とゆっくり近づいてきた。ノックもせずにこの部屋に入って許される人間なんて――いや本当は許されないけれど――一人しかいない。

「どうして入ってくるのよ、アルア。不敬罪で斬首刑にするわよ」

「えー? 陛下が固い顔をしていたので、そろそろ泣いてるかなーって思いまして」

想像通りの若い男ののんきな声がした。どう、当たっているでしょう? と、私が被った布団を剥いで得意げに顔を覗き込んでくる。黒い瞳にきらきらと星を散りばめて、いつもの明るい笑顔を浮かべて。声や話し方はやや作り物めいて浮ついたようにも感じられるものの、見た目には一日働いた後だというのにぴしりと礼服を着こなし完璧な側近として振る舞う姿。それが今は無性に神経を逆撫でする。

「……何で、あのとき助けに入らなかったの。私が無茶苦茶に言われていたとき」

詳しくは言わずとも、ずっと王家の傍に勤めるアルアなら、何のことを言っているかは分かるだろう。力のある大臣が、笑顔の裏に隠れて延々と私に皮肉を言った。私は何も言い返せなかった。

アルアは微笑んだまま黙る。なぜそうするのかは分かる。言わずとも彼の行動が正しいと私が分かっているのを彼は知っているからだ。

王がなんとかできることを家来が横から庇おうとする方がよほど残念な主従関係だって。怒りもせず、ただ笑って聞き流していたアルアはちゃんと良い側近だって。そんなこと分かっている。これは八つ当たりだ。それなのに、彼は嫌な顔一つしない。私が自分の惨めさを思い知るだけ。

「……ね、スコーン持ってきたんですよ。夕食から時間が経ったし、お腹空いたでしょう。お茶入れますから、ちょっと食べてから寝ませんか、陛下」

アルアは左手に銀盤を持っていた。私の大好きなできたてほかほかのスコーンに、ベリーのジャムとサワークリームが添えられている。アルアだってずっと私に付きっきりで謁見の間にいたのに、いつの間に用意させたんだろう。

「陛下は頑張っていますよ。すごく頑張っている。俺、知っています。挨拶の合間も、夜に寝る前も、たくさん勉強していること。だから、今日は早寝しましょう? まあ、もう結構遅いけど……。そうだ、明日もちょっと寝坊していいですから。ね?」

アルアは右手で私の髪を何度も撫でた。張り詰めていた心がほろほろと崩れていく。

「頑張っているだけじゃ、駄目だもん……。国民の生活が、懸かっているんだもん……」

いくら努力したって今すぐ父に追いつけないのは分かっている。それでもがむしゃらに勉強して、やっぱり何一つ足りてはいない。どうすればいいのか分からない。

「頑張っていることが大事ですよ。皆待ってくれます。大丈夫です。陛下が努力を続ければ、いつか必ず先代にだって追いつける、いや追い越せます」

すげえ王に仕えてるって、俺に夢見させてください。アルアはそう言ってに、と微笑んだ。

「ほらほら、ちょっと起きてくださいなー。お風呂も入らずなーにやってんですか」

「ちょ、私ネグリジェ……!」

「そんなの今更でしょう」

腕を掴んで引っ張り起こされて、私は慌てて布団を引き寄せる。薄い寝巻き一枚の私に顔色一つ変えず言い放ち、アルアはお茶を淹れることに専念し始めた。なんて奴だ。着替えるのも億劫なので、そのままベッドの端に座ってぼーっと彼を眺める。姿勢の良い背中がてきぱきと動いて、カップにお湯を入れて温めた後にそれを捨てて、琥珀色の紅茶を注いだ。

「はい、ハーブティーです。それ飲んだからって寝られなくなるってことはないので安心して飲んでください」

渡されたカップに口を付ける。お砂糖を一杯入れてくれていたのは見えていた。この男はもう私の好みなんて完璧に覚えてしまっている。

「……おいしい」

「んふふ、でしょー? 俺の淹れるお茶は王国一なので」

「王に褒められて謙遜しない馬鹿がどこにいるの」

「あは、ここー。だって陛下が言ってくださったんですよ? 昔に」

「まーた私が覚えてないくらい昔のことを! いちいち思い出すのやめなさいって言っているでしょう!」

「あはは、すみませーん。だって思い出は俺のものだもーん」

「本当なんだか嘘なんだか」

「全部本当ですってば!」

そうやって言い合いながら、私の目からはしくしくと勝手に涙が流れる。紅茶があたたかいせいだ。アルアはそれを見ながら傍に立っていた。

「ほら、スコーンも食べるー。しっかり食べてしっかり寝る。まずはそこからです。それができないと心が弱る」

スコーンを半分に割ったアルアが、ご丁寧にジャムとサワークリームまで塗ってから私の口元に押し付けてくる。本当に、なんて奴だ。そんな不遜な態度、メイド長が見たら腰を抜かすぞ。それでも良い匂いのスコーンは嬉しくて、私は「はむっ」と勢いよくかじり付いた。

「うおっ、あぶねー……陛下に指を噛まれるところでした」

アルアはけらけら笑う。おいしい。おいしくて、悲しい。

「そんじゃ、お風呂にも入りましょうねー」

食べ終わったと思ったら背中を押され、浴室へ。

「ん? 何ですか、ぼーっとしちゃって。あ、俺が着替えを手伝ってあげ」

「馬鹿!」

ばふっ、とタオルを投げつけ、荒々しくドアを閉めた。本当、あり得ない。王族の女の着替えなんて見ようとするか、普通。

それにしてもいつの間にお湯を張ったんだろう。私がスコーンを食べているときくらいしか考えられない。ずっと傍にいたと思ったのに。アルアはくるくるとよく動く。

豪奢な装飾のバスタブにはたっぷりとお湯が溜められていて、ふわふわの泡まで浮かんでいた。浴室に一歩足を踏み入れただけで、石鹸の良い匂い。汗を流して、爪先からとぷんとお風呂に入る。またしても私にとって丁度いい温度。強張っていた肩、背中、足、と全身の筋肉がほぐれていく。

気持ちいい。気持ちよくて、やっぱり悲しい。

体が温まると自然に涙が流れてくる。誰も見ていないから流れるままにした。

「陛下ー? あれ、死んでます?」

脱衣所の戸が開く音がして、浴室のドアにアルアの影が映る。

「長風呂で死ぬか!」

「なんだ、よかったー」

アルアはまた戻っていった。心配したにしたって、もう少し違う言葉があると思う。普段、私以外の人間に見せている気遣いぶりは部屋の外に捨ててきたらしい。

ざばり、と泡を落としながら立ち上がって、もう一度体を流して浴室を出た。新しい寝巻きを羽織って、ぽたぽた髪から滴を垂らしたまま肩にタオルをかけて部屋に戻る。

「うあー! 濡れる濡れる、拭いてくださいよ」

私のベッドを整えていたアルアがその姿を見てすっ飛んできた。だって、もう髪を拭くのも面倒くさいんだもの。私は短い髪にしてみたいけれど、王族だからってずっと長いまま。切ることを許されない。

「いい。もうこのまま寝るから。一晩くらい風邪なんか引かない」

健康には自信があるんだ。父もそう言っていて病死したけれど。

寝るんだからもう下がっていいよ。しっしっ、とアルアを追い払おうとしたのに、彼は私の手からタオルを奪った。ソファーに座らされ、背後に立った彼に丁寧に髪を拭かれる。

「駄目です。俺、陛下のふわふわの髪が好きなんですから。そんなんで寝たらせっかく洗ったのに明日とんでもなくごわごわになる。それに、風邪は引かないかもしれないけど、冷たいでしょう」

今日だけですからね。目を伏せて微笑んだアルアが優しく囁いて、ごしごしと髪の水気を取っていく。

「最近頑張っているから、ご褒美です」

細かいことが得意な指先が、時々頭皮に触れるのを感じる。乾かした後は、長い髪のどこにも引っかかりがないように時間を掛けて梳かしてくれた。面倒くさがりの私がやるよりよほど綺麗になったな。ちょっと申し訳なくて、労いの言葉を掛ける。

「髪が多いから、手が怠くなったでしょう。……ごめんなさい」

「うん、超長い。いっつもすげー手入れ頑張っているんですね。大変でしょうけど、まあ俺にはねー、役得です」

お風呂上がりの陛下の髪、良い匂ーい! とアルアは無遠慮に私の髪に鼻を近づけた。本当、それ人前でやったら一発で首が飛ぶからね。結婚前の女王に、若い男が何事ですか! って目くじら立てる人がいっぱいいるんだから。でも実際には彼はその辺をきちんと弁えているので、絶対にそんな失態を犯さない。公衆の面前では今以上に畏まった態度で、完璧に職務を全うする優秀な側近。

「何ー、また泣いているんです? もう、泣き虫な女王様だなあ」

アルアは私を立ち上がらせ、手を引いてベッドに向かっていった。私は子どものように連れられながら目元を擦る。

「……泣き虫じゃない、氷の女王だもん」

「なんか言われていましたねえ。こーんなに泣くのにどこを見ているんだか」

私をベッドに座らせたアルアは、笑いながら私の涙を指で掬う。

父が亡くなって、涙を零せば「王なのに頼りない」と言われ、ならばと気丈に笑えば「父親が亡くなったのに不謹慎だ、おかしいんじゃないか」と囁かれる。じゃあどうすればいいのか、と私は何一つ表情を出さないよう努めた。そうすれば今度は「氷の女王」なんて不名誉なあだ名。皆、何をしたって先代に劣る私が気に食わないのだ。対比するように、常に隣りで笑顔を振りまき誰に対しても人当たりの良いアルアは「太陽の側近」と称された。

「今に皆、考えを改めます。だーって俺が敬愛する陛下ですから! そうだ、考えを変えましょう」

アルアが大袈裟な仕草でぽん、と手を打つ。

「今の評価が最低だから、きっと陛下が何をしても皆見直してくれますよ。ね? 前向きになりませんか」

どうしていつもいつもそんなに明るい声が出せるのよ。

「無理っ。私アルアみたいなポジティブモンスターじゃないもん!」

「えぇ……化け物呼ばわりは酷いです」

酷い、と言いながらもやっぱりアルアはおかしそうに笑っている。

「アルアが、王様になればいいのに」

「あは、褒めてくださっているんです? 俺にはとてもじゃないけど無理ですって」

アルアは大きな手で私の頭を撫でた。

「なら、自信持ってください。あなたが褒めるアルアが、あなたを主に選んで付き従っているんです。大丈夫ですよ。陛下ならきっと立派に国を治められます」

ねっ、陛下。

整った顔が、ウインクしながら俯く私を覗き込んだ。あ、もう駄目だ。

「陛下って、呼ばないで!!」

アルアの目が見開かれる。一度叫んだら後から後から涙が溢れてきて、私は手で顔を覆いながらわあわあ泣いた。

「立場が変わったから、呼び方を変えなきゃいけないのは分かってる! でも、急に……っ」

今まで皆は「シャーロット様」「シャーロット姫」って親しげに名前を呼んでくれていた。なのに、女王になった途端、誰もが口を揃えて「陛下」。位が上がったから今まで親しくしていた周りの者達も上官と入れ替わって、こんな十八の娘に皆が一斉に首を垂れ、距離を取る。

それでも仕方ないことだと受け入れられていたはずなのに、どうしてもアルアに呼ばれるのは嫌だった。幼い頃から面倒を見てもらった彼がそう呼ぶたびに、真っ暗闇にどんっと突き放されるような気持ちになって心が抉られる。

「アルアだけはっ。アルアにだけはそう呼ばれたくないの! 私が女王だって分かってるし、ちゃんと呼び分けたアルアに何の落ち度もないのは分かってる! でも! 二人でいるときくらいは……!」

私だけが愚かなのだと分かっている。周りの人間は私よりずっと優秀で。少しでも良い君主になりたいと言っておきながら、何を馬鹿なことを言っているんだろうと自分が一番思うから、尚辛い。悲しい。アルアの前でだけは、女王じゃなくてただの女の子でいたいだけ、なんて我儘。叶うはずがない。

もう言葉も発せず嗚咽を漏らしながら泣きじゃくった。他にも辛いことが、つられて次々思い出されてくる。父が死んだのに、私には悲しむ暇すら与えられなかった。何もかもが悲しくて、捨ててしまいたい。肩がずっと重い。叶わないなんて分かっているから、あっちへ行ってよ。一人にして。

残酷な優しさで立ち尽くしている男の肩をどん、と押したとき、素早く両腕が伸びてきて固い胸に顔がぶつかるほど勢いよく抱きしめられた。途端に泣き声がくぐもる。

「そんなに泣き喚いたら、兵やメイド長がびっくりして見にきちゃうよ」

苦笑しながら落とされる言葉が、距離を感じさせていた聞き慣れない敬語じゃなくてはっとする。だからって自分の胸に押し付けて黙らせるのはどうかと思うけど。鼻ぶつけたし。私の体をぐっと押さえつけるような、息が苦しくてひどく余裕のないハグ。それでも固い体と密着して伝わる体温に嬉しいと感じてしまう。こんなにくっつくのも、即位してからは久しぶりだった。

「ごめん、ごめんね、おひい。呼び方も話し方も、急に突き放すみたいで嫌だったね。全然気付かなかった。ごめん」

おひいだなんて、随分懐かしい呼び名。大きくなってからはずっと名前で呼ばれていたのに。小さい頃はよくお姫さまの「おひい」って呼ばれていたっけ。もしかしてアルアの中ではずっとおひいのままだったのかなって。恥ずかしいけれど、嬉しくて心がぽっと温かくなる。

ああアルアだ、って思った。今私の前にいるのは、にこにこ笑顔を貼り付けた完璧な側近なんかじゃなくて、私の知っている大事な人。

声を上げるのをやめてぐすぐす言うと、アルアはちょっと腕を緩めてぽんぽん後頭部を叩いた。うん、本気で私の口を体で塞いでいたよね、あなた。もう少しで窒息するから静かにせざるを得なかったよ。仕返しに、綺麗な光沢のあるアルアの服で思いきり涙と洟を拭いてやっていると、頭上でぼやく声がした。

「くそー、おひいのことなら何でも気付くと思ったんだけどなー。俺も動揺していたってことかねえ」

声がちょっと震えていた。そっか、アルアも。大事な人を亡くしたのは一緒だったね。

アルアのお父さんは、私の父である先代の王の側近だった。彼らは主従関係というよりも親友みたいで、すごくすごく仲が良くて。父はアルアのことを自分の息子のように可愛がっていたし、娘である私とよく遊ばせ、アルアも父をよく慕っていたから。

「ふふ、今泣いているでしょう。アルアも全然太陽の側近なんかじゃないね」

「んあ、何ー? 切り替え早いね、もう笑ってるの。ていうか泣いてないし」

「じゃあ顔見せて?」

「やだあ」

「ずるい!」

アルアはぎゅっと私を抱きしめて腕を緩めてくれない。そんな状態で、「ウィル様がいたらシャルが苦しんでること、すぐに気付いてくれたかなあ」なんて父と私を愛称で呼び涙声で言うものだから、もうしばらく二人ですんすん泣いた。

全く、太陽の側近なんてほんと誤解も甚だしい。ポジティブモンスターではあるし、笑顔でいようと努める人だけど、涙腺はよわよわだから悔しくても悲しくても嬉しくてもすぐ泣いちゃう人なのにね。

「シャル、約束する。二人でいるときは、陛下って呼ばないし敬語も使わない。いーっぱい、気を抜いていいよ。俺の前だけね。俺が、シャルが唯一安心できる場所になるから。だから、だから……」

生きてて。泣いているのなんて分かりきっていたけれど、私の目を見て言った彼の目元はやっぱり真っ赤だった。

「うん、約束。私もアルアが誇れる君主になる」

泣き虫同士の約束だ。


***


俺が十歳のとき、きみは産まれた。王家に久しぶりに生まれた子どもに、国中がお祝いムード。俺は第一王子の側近であり親友でもある父上に連れられて、そのお姫さまに会わせてもらった。その頃の俺は引っ込み思案。

「姫さまが産まれたんだ! アルア、お前も見に行こう」

「やだ。姫さまなんて人気者なんだから、人がうじゃうじゃいるに決まってる。俺、図鑑読んで待ってる」

「出たな、引きこもり癖。全く、将来王家に仕える俺の息子がそんなんでどうする。ほら、行くぞー」

「いい、いいってば」

そう言ったのに、大勢の知らない大人の群れの中に嫌々連れて行かれたのを覚えている。姫さまは、ぱたぱたと忙しなく働く乳母たちの中でちょうどすやすや眠っているところだった。父上の背中に半分隠れるようにした俺は、促されてそっとレースのベッドを覗く。なんだこの生き物。小っちぇえ。

それまで間近で赤子を見る機会なんてなかったからか、強烈に興味を引かれた。赤い肌をして、顔はくしゃっとしていて、どこもかしこもふにゃふにゃ。近づくとなんだかミルクの香り。こんなので同じように生きているのがなんだか信じられない。手も足も俺と同じようにあるのに、全部が全部あまりにも小さい。

「よく来たなー、アルア! どうだ、かわいいだろう!」

優しそうな顔をいつも以上にくしゃくしゃにして笑った親馬鹿な殿下が、傍に立って俺の頭を撫でた。シャーロットっていうんだ、と名前を教えてくれる。

「……シャーロットさま」

そっと反復する。その音がすごく大事なものに思えた。

「アルア、アルア! 面白いことを教えてやる」

子どもが大好きで、ベッドに張り付き俺以上に堂々と夢中になっている父上に呼ばれた。

「ちょっと踏み台持ってこい」

お前小っちゃいからなー、と一言余計な父上を睨みながら大人しく従う。踏み台に乗れば、ベッドの中はもっと見やすくなって姫さまに手が届くようになった。

「姫さまのな、掌に指を入れてみろ。滅茶苦茶可愛いから」

首を傾げながら、そーっとそーっと指を近づける。そんなにびくびくしなくても大丈夫だって、と大人二人に笑われるけれど、だって壊れちゃいそうで怖いんだもん。すやすやと眠っている姫さまの、小さな小さな掌。緩く丸まっているそこに、自分の人差し指を言われるままに入れてみた。あったかい、と思った途端に俺の指はぎゅっ! と握られる。

「!」

俺はびっくりして固まった。

「え、どうしよ、これ、何、」

「あっはっはっは! お前落ち着けって! かーわいいだろー? 把握反射っていってなー、赤子はみんな掌に当たる物をぎゅっと握るようになってんの」

ぷんぷん、と小さく指を動かしてみても、全然離れない。意外と力が強くて、痛いくらいにしっかりと指を握られている。

「これ堪んないんだよなー。反射って無意識の行動だから、何か考えがあってやってる訳じゃないんだけど。それでも『離れたくない』って思われてるって捉えちゃうよね」

父上は目をなくなりそうなくらいに細めてその様子を眺めながら語り続けた。そうなのか。この子が俺のことを認識してくれた訳じゃないんだ。

無理に引き剥がそうとしたら小さな指を折っちゃいそうで怖くて、俺は黙って握られたままになっている。眠ったままなのに、ぎゅうぎゅうと俺に必死にしがみつく手。可愛くない訳がない。

守ってやりたい。そんな風に相手に思ったのは初めてだった。

「さーて、名残惜しいけど時間かな。次のお偉方が挨拶に来るんだろ?」

父上が渋々といった様子で立ち上がる。

「え……」

もう? 思わず声が漏れた。

「まあ、そうだな。俺としちゃお前らがずっといてくれた方が楽しいに決まってるけど、待たせたら先方は機嫌を損ねるだろうなあ」

殿下も苦笑して肯定する。どうやら俺と父上の面会時間はこれで終わりらしい。まだ、もっと見ていたいのに。

「俺、まだ一緒にいたい」

小さな掌に指を握られたまま、父上と殿下を見上げた。いつも頷いてばかりだから大人に自分の意見を伝えるなんてしたことがなくて、心臓がばくばくする。姫さまの手が、俺に勇気をくれていた。

「アールア、お前姫さまのこと相当気に入ったなあ。目がきらっきらしてるもんな」

俺、お前のその目好きよ、と父上の大きな掌に頭を撫でられ、目を細めてちょっと乱暴な手つきを受け止める。

「でもなあ、時間は時間だからなあ」

やっぱり駄目なのか。肩を落としかけたとき、殿下が助け舟を出した。

「俺は構わないぞ。仲良きことは美しきかな。将来、シャルとアルアが俺とお前みたいに親友になってくれたら嬉しいじゃないか。今から次々やってくる賓客達に、きちんと自分で挨拶できるならここにいてもいい」

「ほんとに良いのか~? 俺とお前と違って、男と女だからなあ。うちのアルアが、将来姫をもらっちゃうかもよ?」

「何?! 嫁に行くなんて、今から考えるだけで泣ける……」

「ぎゃはは、お前早えよ!」

大人達が頭上で騒ぐ間に、俺はぐるぐる考えていた。今から来る、たくさんの知らない偉そうな大人たち。そいつらにきっちり挨拶できるなら、姫さまの傍にいられる。俺の最も苦手とすることだ。

「あ、ちなみに俺は公務があるから帰るぞー」

父上にも釘を刺されて、本当に一人。

「でき、ます」

離れたくない。それくらいやってやる。

「うはぁ、お前まじか! こりゃ当分姫さまの話題出せば、稽古に苦労しねえかもな」

俺の引っ込み思案具合を知っている父上は、本気で驚いていた。殿下は優しく笑いながら、それでも声色を少し厳かなものに変える。

「アルア、アルア。そこに直りなさい」

「はい」

よく分からないなりにきちんとしなきゃいけない雰囲気を察した俺は、慎重に指を解いて、殿下の前に片膝をついた。

「アルア。そなたを、シャーロットの目付け役に命ずる。心して仕えるように」

「!」

目を見開いて殿下を見つめ返した。殿下はどうだ? と頷いてくる。右手を胸に当てた。

「はい、殿下」

俺の心は決まっていた。話すのは苦手でたとたどしくなってしまうけれど、どうしても決意を伝えておきたくて口を開く。

「俺、絶対絶対姫さまを守ります。いっぱい勉強して、いっぱい剣の稽古をしますから。人前でも堂々と話せるようになります。だから、だからよろしくお願いします!」

「うんうん、立派! これからが楽しみだな」

「お前、そこは『だから姫さまをください』くらい言っちまえよ!」

殿下がせっかく褒めてくれたのに、父上に背中をどつかれる。もうやだこの親父。

「いや、やらん! やらんぞ!」

殿下が慌てていやいやと首を振ったあとで、二人は顔を見合わせてにやりと笑う。

「「その言葉、忘れんなよ」」

忘れるもんか。初めてきみに会った日。初めて殿下から命を受けた日。その日から、俺は本当に勉強にも稽古にも取り組む姿勢を変えた。今まではなんとなくやっていたことも、姫さまのためになると考えたら何だって頑張れたし楽しかった。父上は「姫さま様々だな!」と驚きながら笑っていたので、他人から見ても俺は変わったんだろう。いつか彼女の役に立つ日のために研鑽を積み、合間の時間は隙あらば姫さまの傍にいた。

そして、今や引っ込み思案だったなんて皆想像が付かないような、太陽の側近と呼ばれる俺がある。俺の守りたい人は、思ったよりずっと早くに国王陛下になった。

どんな立場になろうと、必ず守るよ。俺の人生を懸けて。

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