大団円
第21話
泣き止んで、その泣き顔もばれないくらいに立て直して、と考えていたらとんでもない長風呂になってしまった。申し訳なくて湯気を立てながらとぼとぼと廊下を戻る。流しから水音がしていて、台所の戸を開けた。
ガラガラ、といつも通りのはずなのに思った以上に大きな音が出て身を竦める。顔を上げたらひよを背負った俊介くんがお皿を洗ってくれていて、胸がいっぱいになった。
水が止まる。彼が手を拭く。振り向く。
「ごめ……っ」
「ごめんね」
言いかけた私を遮り、俊介くんが微笑んだ。二度と私に謝らせたくない、と言っていたのを思い出す。そんな、こんなの私が悪いのに。
「お嫁さんに許してほしくて、またお弁当作ってほしくて、謝ってるつもりでお嫁さんが何を言いたいのか聞いてなかった。さっきはごめんね。お嫁さんがよければ仲直りしよ。今度はちゃんと聞くから」
そう言って両腕をそっと広げて待つ姿があんまりにも神々しい。
こんなの嘘だ。私、彼のことを好きになりすぎてもうまともに見られない。
今すぐにでも飛び込みたいのに、もう下心なしじゃハグなんてできなくて、私はその場に縫い止められたように立ち尽くした。
「っふ、……ぅわぁぁぁぁん……」
せっかく必死に泣き止んだのに顔を見たらまた泣けてきてしまって、私はぼろぼろと涙を零した。
「うええまた泣くぅ……。何でよー」
俊介くんも眉を八の字にして困り顔。そりゃそうだろう。自分を見て泣かれたのなら近寄る訳にもいかないと思ったのか距離を詰めてくることもなくて、代わりに走ってきたのははるだった。
「おかあさんないてるのー!」
「はる?!」
どーん!! と脇目も振らずに飛び込んできた子を慌てて身をかがめて抱きとめる。
「おいたん、おかあさんにひどいことしちゃめー!! はるおこるよ! なかよくしないとだめでしょう!」
それは私がよくはるを叱って言っていた言葉。ほんと、よく覚えてる。涙も引っ込んで「違うよ、おいたんは悪くないよ」と否定する間もない。うちのお喋り娘の口に戸は立てられないのだ。
「あのね、おかあさん、おいたんのすきなひとはおかあさんなんだって!」
「ちょ、はる!?」
俊介くんの焦ってる声を聞きながら、「そうだね?」と返す。俊介くんははるもひよも私のことも、家族として好いてくれてますとも。
「これねえ、ないしょなのー!!」
「そうだよ、内緒って言ったでしょうが!!」
ただ、俊介くんの顔がみるみる赤くなっていくのは視界に入っていた。
「……はるはまだ『内緒』の意味分かんないよ? なんか楽しいって思ってるだろうけど」
「そうみたいね……お母さんに報告しちゃうんだもんな……」
俊介くんは天を仰ぐ顔を覆った片手の隙間から、ちら、と私を見る。
「ありがとうね、俊介くん。私、こんなに迷惑ばかり掛けてるのに、私の居ないところでもはるにそんな風に言ってくれてひよのことも全部面倒見てくれて」
俊介くんがゆっくりと手を下ろした。怖いくらいに真剣な目が私を射抜く。
「あー……あのさ。返事なんて無くても良いし、考えてくれるならいつまで掛かってもいいんだけど。ほんと、急かすつもりはなくて、俺、ずっと待ってるつもりだったんだけどな……」
ごめんね、言わずにいられないわ。
俊介くんはそう言って自分に呆れたように小さく笑いを零した。一体何を言おうとしているんだろう。
私は屈み込んではるを抱えたままきょとんと彼を見上げる。俊介くんはますます頰を染めて、また腕を持ち上げて口元だけを隠した。
「そんな見ないで……俺めっちゃ赤いでしょ。恥ずかしいじゃん。くっそー、もっと格好良く言うつもりだったのになー!
ねえ、俺、あなたが好きだよ。今、『家族として』だって思ってるでしょう。違うからね。今も家族だけど、もっと近くなりたいって思ってる。俺が守りたいの。もう泣かせたくないの。……ちゃんと意味伝わってる? 大っ好きだよ。俺のお嫁さんにしたいって思ってんの」
目を見開いた。言葉が出てこない。
「そんな、だって、……八代さんがぁ」
止まったはずの涙がぼろぼろ溢れてくる。「おかあさんなかないでぇ」と腕の中ではるが暴れ、俊介くんが苦笑して私の前に同じように膝を着いた。
「はぁい? 八代さん? が、どうしたの」
「しゅ、俊介くんは八代さんみたいな人が好きだろうってぇ! わ、私みたいなお母さんなんて、」
「八代さんは上司としか思ったことないけど……え、もしかしてそれ?! それで今日ずっと泣いてんの」
俊介くんは濡れた私の頰を撫でていた手を止めて瞠目した。
「やっべー……うれっしー……」
ぼそ、と口元に当てた拳越しに何やら呟く。にやける顔が再び私を覗き込んだ。それに気付かないで私は必死に涙を拭い続ける。
「は、はるとひよだって私にはいるし……!」
「何? 子連れだって意味? 最高だけど。はるもひよも大好きだよ」
ひく、と涙を飲んで、私はびっくりしてびちょびちょの顔で彼を見つめ返した。彼はそれがどうした、と本気でそう考えている表情をしていた。
「俊介くん、変……」
「あははは!! 変って言うな……!」
俊介くんは口を開いたかと思ったら罵倒した私にも破顔する。
「変だもん……普通デメリットだよコブ付きなんて。俊介くん初婚でしょう」
「じゃあもう変でもいいよ。3人とも大好きだもん。俺の家族にしたいもん」
そうしたくて当たり前みたいな顔で、俺の、って強調する。
そっか、最初からこういう人だった。どこまでも周りに合わせているようでいて、自分の中では独特の揺るがない思考回路があって、それが行動に移されて初めて周りはびっくりする。元々ぶっ飛んだ人だった。
ふ、と笑えて、その拍子にころんと涙が転がり落ちる。彼が微笑んでつい、とそれを拭った。
「私こんな、お腹の肉とかもつまめるけど」
「それ皮膚でしょ」
「あーもう、いいからちょっと抱かして!」と急に焦れたように声が大きくなって、間にはるを挟んだまま私はすっぽりと包み込まれた。はるはというと遊んでいる気分なのかきゃっきゃとはしゃいでいる。
あったかい。
「~~っ」
瞬きしたらまたほろほろと涙が落ちて、私が顎を乗せている彼の肩に染みていった。目線を落としたら彼の背では喧騒を物ともせずにひよが幸せそうに眠っている。私の大事なものが全部ここにある。彼が守ってくれているから。
彼の掌が背骨をなぞった。
「子どもいるときあんなお腹大っきかったんだから皮膚余んの当たり前。兄ちゃん亡くなってちょっと痩せたの気付いてないの? 絶対前ハグしたときこんな骨当たんなかったんだけど。もっと太らせたいって思ってんだから、今日も後で絶対ごはん食べてくれる」
あっためるから、俺が2人のこと風呂入れてる間に絶対だからね、と小さな子を叱るような声が耳元でする。私、別にそんなに痩せてない。紛れもない標準体型だけど。
ああ、なんて幸せ者だろう。
「うん」と彼の背に腕を回しながら子どもみたいに頷いた。
「あーあ、離したくねえなあ。言っとくけど不安なの俺の方だからねぇ? お嫁さん、会社で未だにめっちゃ人気あんだから。復職したら即行告られそうだもん。俺の方がよっぽど余裕ねぇわ」
俊介くんがよっこらせ、と膝に手を着いて立ち上がる。ほら冷えちゃうよごめんね、と私も引っ張り起こしてくれた。
そっか、私、まだちゃんと言ってない。嬉しくて泣いてばっかりじゃ駄目だ。
「わ、私……!」
「うん」
優しく、少し切なげに微笑む顔がじっと私の言葉を待つ。
「俊介くんが好きだよ……!」
この気持ちを抱いていいのかな、という気持ちはまだある。私が結婚したのは別の人で、喪ってからもまだ日は浅くて。でも時間なんて関係ないくらい、もう沢山のものを貰って自然と私の心は奪われてしまった。留めてなんておけなくて溢れ返る。
俊介くんの目が見開かれた。ぐい、と再び腕を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められる。本当に、くっついているのが好きな人。
「すき、すきなの……!」
「うん、ありがと。分かったから、」
あんなので本当に伝わったのか、ともがいたら、とんとんと後頭部を撫でられる。
「泣いちゃうから見ないでね」
と声が降ってきてびっくりして見上げようとした。「あっは……! 見ないでって言ってるでしょ」とあかるく苦笑するのが聞こえ、顔を胸に押し付けられて見ることは叶わない。
「私でいいの」
「俺の台詞。ねえ、」
美由紀。
びく、と肩が震えた。
「って呼ばせて」
一瞬で記憶が蘇る。
『俊介くん。あの、私は別に良いんだけどね? 私のことお嫁さんって呼んでたら、自分のお嫁さんのことはなんて呼ぶつもりなの?』
『美由紀…みたいに、普通に下の名前で呼ぶけど』
彼はそんな何年も前の会話を覚えているだろうか。私だって今不意に思い出した。彼に名前を呼ばれる人は、彼のお嫁さんになる人だって。
「うわあああああん!!」
今日1番大きな声が出た。
「うん……! 呼んでぇぇ」
「おいたん!? またおかあさんなかせてるの!」
「あーはいはい、よしよし! ちょ、声でかいって……! 母ちゃんも飛んでくる……! はるー、お母さんは悲しくて泣いてるんじゃなくてだな……!」
「えええええん」
困り果てた俊介くんが私の背中を叩きながら幸せなため息を吐く。
「嬉しくて泣いてんのかわいいねぇ」
体を離されたかと思えば頰をぶにぃ、と伸ばされた。正面には今までで1番幸せそうに笑う彼が立っている。
そのとき、ガラガラ、とダイニングの側から台所の戸が開いて、お義母さんが顔を出した。
「ちょっと……任せといたらあんたうちの子をどんだけ泣かせてんのよ」
「ほら来た……! 俺の方が『うちの子』ですけど?! 美由紀聞いてる? 母ちゃんずっと美由紀だけ大事にして俺の方を敵視してくんだからね」
「ひっぐ……! あ、ありがとうございます、私あの、ごめんなさ、」
私は動揺してごしごしと顔を擦る。
「美由紀さん、謝るのはうちの方よ。せっかくお嫁に来てくれたのに不幸にしちゃって、申し訳なかったもの」
いいえ、いいえ、と首を横に振る。泣きながらだとうまく喋れなかった。まさかお義母さんがそんな風に思っていてくださったなんて。奪ったのは私に決まっているのに。
「せっかく藤間の家に来てくれたのにねえ、辛い思いをさせてしまって。幸せになってくれるなら別の大事にしてくれる家へ出してもいいって私もお父さんも思ってたんだけど、うちに残ってくれるって言うし。それなら俊介で手を打ってくれるっていうなら、私達は大歓迎なのよ」
「手を打つって言うな。兄ちゃんには負けるけど俺も良い男でしょうが。あなたの息子よ?」
「別に負けてはいないわよ。ちょっと変だけど」
お義母さんの思いを初めて聞いた。大事にしてくださってると分かってはいたけど、ここまでだなんて。お義父さんお義母さんに対しては、圭介さんが亡くなって次に俊介くんを好きになったことに負い目があったのに。また私が彼を不幸にするんじゃないかって恐れまであったのに。お二人が私と俊介くんが愛し合うのも手放しで見守ってくれるなんて思いもしていなかった。
俊介くんが苦笑いでツッコミを入れる掛け合いがおかしくて、「えへへ……!」と泣き笑いになってしまう。
「ね、美由紀」
「はい……っ」
一生懸命涙を拭っていた両手を取られ、俊介くんと向き合った。
「分かったでしょ。父ちゃんも母ちゃんもみんな味方だよ。美由紀は、幸せになっていいんだよ。あー…、違うな。誰とでもいいからお願いだから『幸せになってよ』って、一旦は俺諦めたんだけど。訂正する。
俺が、美由紀とはるとひよを幸せにします。だから、俺のお嫁さんになってください」
「はい……! 私も、俊介くんとお義父さんお義母さんを幸せにします!」
「ふっ、そうだね、美由紀は俺たちのことも幸せにしてくれるね」
俊介くんは赤い目で安心したようにほわ、と微笑んだ。
「ほら、父ちゃんにも言いにいこ」
と手を引かれる。緊張するけど、全然大丈夫だった。報告を聞いたお義父さんは一言だけ。
「しっかりごはん食べて、大きな声で笑っていなさい。私が美由紀さんに望むのはそれだけなんだから」
目頭が熱くなる。言うことが同じで、ああ俊介くんのお父さんだなあなんて当たり前のことを思った。
「私、藤間のお家に来てよかったです…っ」
「こちらこそ。来てくれて嬉しいのにそんなん言ってもらえてよかったわ」
俊介くんがにい、と笑う。みんなに見守られて、私は泣きながらあったかいごはんを食べた。
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