怒ってる?

第19話

「ただいまー!!」


今夜も彼らが帰ってくる音がする。この家は一気に賑やかになって、それまで子供たちと自分だけだった私は少しほっとするのだ。

いつもなら。


「……おかえりなさい」


手を洗ってキッチンに入ってきた俊介くんを振り返り、でもほとんど顔を見ずに手元の鍋に視線を戻す。リビングの方からは義父母が娘たちと遊んでくれている声がしていた。

今、私はちゃんと笑えていただろうか。あまりまじまじと顔を見られたらこの不細工な形をした気持ちを隠し通せる自信が微塵もない。彼は私のことなら何でも察してくれてしまうから。ほんと、超能力者のように。敏感でいてくれているのだ。

俊介くんは胸の前で手を合わせ、がばっ! と頭を下げる。


「お弁当、忘れていってほんとごめん! せっかく作ってくれてんのに……ほんと迂闊だった! ごめんね、本当に。今日お皿洗うし、はるとひよお風呂入れて最後お風呂洗いもするからお嫁さんごはん食べ終わったらお風呂一人でゆっくり入ってきな」

「えっ、いいよいいよ!! 何そんな深刻に謝ってんの! 忘れることくらい誰にでもあるでしょ! 私だって俊介くんよりもっと頻繁に忘れ物するもん。遅くまで仕事して疲れてるんだから、俊介くんはそんなことしなくていいんだよ」


深く反省している声を絞り出す彼の肩をとんとんと叩いた。


「お弁当は私がおいしく頂きました! でも俊介くん用のだと多過ぎて食べきれなかったよ。だから今度はちゃんと持って行ってね」

「うぅ……ほんとごめんねぇ」


笑い飛ばし、それでもしょんぼりと俯いたところから私を見上げているので、こん、と頭を小突いておく。


「はい、もうこれでチャラだよ!」

「ほんと……? また明日も作ってくれるの?」


私は初めて口籠った。

明日も作ってほしいの? それは気遣いじゃなくて俊介くんの本心? 本当はお弁当がない方が八代さんと食堂に行けて嬉しいんじゃないの?


「……明日もお弁当欲しいの?」

「えっ、ほしい! 欲しい欲しい、欲しいよ!? 今日はほんとうっかりしちゃっただけで、お弁当がないと俺午後頑張れないんだから! だから、お嫁さんが許してくれるならまた作ってください」

「分ーかったって。そんな言わなくても作るってば。今日はお昼どうしたの?」

「食堂。でもお嫁さんの方がおいしかった……。今日唐揚げだったでしょ。くそー! 食いたかったなー!!」

「もうなくなっちゃったから次は当分先だねー」

「お嫁さんやっぱり怒ってる……」

「怒ってないってば」


お弁当を忘れたことなんて怒ってない。本当に。

ただ、俊介くんには言えないもやもやとした嫌な気持ちでずっと胸が満たされている。


「お弁当のことくらいで私がいつまでも怒ってると思ってるの? そんなのしょっちゅう買い忘れたりする私が言えたことじゃないじゃない。もういいんだってば」


笑ってるつもりだ。

大丈夫だよ、気にしないでいいよ。だから、早くそこをどいて。今だけ目に付かないどこかに行ってよ。どうしていつもいつも私が情けない時にばかり傍にいて、私の中をあなたでいっぱいにするの。

きっとちっとも笑えていないんだろう。俊介くんがしょげたまま心配そうにして引き下がらない。


「……嘘だ。怒ってるもん。じゃあ何、今日なんかあった? はるに怒っちゃったとか、あっ、俺が気付いてないだけで他にも忘れてるとか、」

「怒ってないってば!!!」


バン! と調理台を叩く。乗っていたお玉が振動で浮き上がってまた落ちた。

俊介くんがびくぅ! と肩を跳ねさせて固まり、振り返れば既にダイニングに着いて待っていた義父母もはるも驚いた表情でこっちに注目していた。


「ごめ、俺……何でも力になりたくて、無神経だった。話したくないこともあるよな、ごめん」


俊介くんが真っ先に口を開く。何も悪くないのに、悲しみでいっぱいの顔をして謝る。

そうだよね。まさか私なんかが俊介くんの歳下の上司に嫉妬しました、なんて。予想できるはずないよね。そんなことしていい立場じゃないんだもん。

私だけが悪いのに。私は私に怒っているのに、言えないどころか隠しきれなくてこんなに悲しませて。

ああもう駄目だ。


「~~~~っ」


目に涙が浮かぶ。部屋が水底に沈む。溢れるな、って必死に目に力を入れても手遅れで、俊介くんが大きな目をこぼれ落ちそうなほど見開くのが見えた。


「ちょ……っ! 泣いて、」


言葉にならないくらい狼狽えさせているのも申し訳ない。


「お義父さんお義母さん!! すみません! わたし、後でごはんいただきます!!」


失礼だとは思いつつ、背を向けたまま宣言した。それ以外の言葉を発そうものなら途端に泣く。一も二もなく泣く。


「はいはーい、いいですよー。ごはん作ってくれてありがとうねえ」


といつもと変わらない様子のお義母さんの声。

私は頷いてそれに甘え、走って台所を出て行く。


「お嫁さん?! ねえ話さなくてもいいから、ちょっと一緒に……」

「私、お風呂!!!」


俊介くんが絶対に立ち止まる呪文を発して私は脱衣所に逃げ込んだ。ぱしん、と引き戸を後ろ手に閉める。ずる、と戸にもたれ掛かる。ゆっくりと両手で顔を覆った。

まだ誰もお風呂に入っていない脱衣所は冷たい。いつも最後だから知らなかった。足元の小型ヒーターの電源を入れる。

今頃、みんなであったかいごはん食べてるかな。あ、まだお茶碗にごはんよそってなかったけど。まあ俊介くんがやるだろう。はるにもお義母さんたちがごはんを食べさせてくれるんだろうし。

みんなの空気を悪くしてごはんをまずくして、子どものことも義両親に甘えるなんて、本当に私って駄目なお母さんだ。ばさりと着古したチュニックを脱ぎ捨て、ひんやりとしたお風呂場に踏み込んだ。鏡に映る自分を見て、ふに、とお腹の肉を摘む。

俊介くんは背の高い方じゃないけどスタイル良いもんね。隣りにいたらさぞ太って見えるんだろうな。

なんて、そんなことばかり。

ザアアア、と頭からシャワーを浴びた。


「わあああああん!」


声を殺して泣いた。ここなら唯一誰にも知られないから。

どうしよう、私、どうしよう。こんなにも好きになっちゃった。

何をしてても頭にあるのは俊介くんのことばかりだ。圭介さんを亡くしてあんなにも辛くて、もう生きる意味なんて子どもを育て上げることしかないと思っていたのに。

全部全部、塗り替えられちゃった。

好きになっちゃいけない人なのに。私じゃない人と幸せになるべき人で。気持ちを自覚したところで告白だなんて、そんな勇気絶対に持てない。だって振られたら私この家には居られない。

なんて、そんな現実ばかり考えてしまう自分が嫌いだけど、夢だけを追っていられないくらいには私はもう大人になってしまって。

でも、かっこいいの。

俊介くんって本当にかっこいいの。

小さな体で持てる全てを懸けて家を守ろうとしてくれることも、私のどんな変化にも気付いて駆け寄ってくれる真剣な顔も。未知の職場でも自分らしい夢を開拓する強かさも、何でもない日も楽しく変える独自の視点も。もしかしたら私にだけ見せるんじゃないかって誤解する、時折少しだけ甘えたがる仕草も。

全部全部好き。

叶わない恋をしてしまった。こんなことなら出会いたくなかった。

そうやって、もう立派な大人なのに高校生の頃みたいに失恋の傷で胸が痛くてひいひい泣いた。

好きになるんじゃなかった。でも、大っ好きだもん。

そう頭の中で繰り返して。

お風呂の時間くらいじゃちっとも気持ちの整理なんて付きそうになかった。

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