お弁当
第17話
「俊介くん、今日嬉しいことあった?」
「分かる?」
分からないはずがあろうか。いつもにこやかな俊介くんはそうあろうと努めている部分もあるみたいだけど、今日はもう帰ってきてからずっと喜びが滲み出ている表情をしている。にまにまと笑みが抑えきれなくて、いつも以上に饒舌。
「俺のねー、提出した企画案が通ったの!」
「企画? 俊介くんが?」
入社して数ヶ月だろう。それはまた異例の事態だ。
「入社前からずっとぼんやり考えてはいたんだよね。父ちゃんの会社もアニメとコラボすれば良いのにーって。ファンが好きなキャラクターを推す力ってもうすんごいんだから。織物なんだから、色とかテイストとかをキャラクターイメージにしたらオタクは欲しくなっちゃうもんなのよ。『そんなにアニメアニメしたグッズは持つの恥ずかしい! でも推しをちょっと匂わせるくらいの物は持ち歩きたい!』みたいな大人の人は特に!」
俊介くんが体をくねらせてオタクの気持ちを熱弁する。
「って訳で、自分でデザイン案描いて『ぜってー売れます! すごい売り上げ行きます!』ってプレゼンしたら一旦会議通りました」
プレゼンもその調子で喋ったのだろうか。俊介くんは語りも上手いからなあ。その様子を想像して少しおかしくなってしまいながら祝福する。
「すごい! ほんとにすごいじゃん、おめでとう! まだ入社してすぐなのに自分で企画までして通してくるなんて俊介くん優秀過ぎるよ」
私はいつも与えられた指示通りに織物ができるよう作業するだけの人間だったからびっくりだ。もちろん心底真面目に働いていたけど、そういう独創性や発言力は一切なかった。彼には尊敬の念を抱いて止まない。
「えへへ、ありがとー。元々ずーっとアニメグッズの企画する職場にいたからね。転職する時もデザイン部に入れてもらえてよかったわあ」
俊介くんのにこにこが止まらないと私も嬉しい。
「ビール飲む?」
「いいの?! うわあ、えー、でもなあ! 本当にちゃんと形になってからにしよっかなあ!」
「ストイックだなあ」
相変わらずの我慢屋っぷりに笑ってしまいながら、ちょっと取っておきにしてあった美味しいオレンジジュースを入れてあげた。「ん~!! それ!!」とパッケージを見せた途端俊介くんは目を見開いて喜ぶ。
「俺ね、今の会社でも本気の夢見つけたわ。アニメっていう俺の大好きな物と大好きな父ちゃんの会社、どっちも諦めないで両方合わせてでっかい仕事にする」
俊介くんがグラスをぐっと煽りながら強い視線で未来を見た。不覚にも目が潤んでしまう。前の会社でもやり遂げたいことがあったようだったのに、全部投げ捨てて転職したのだと思っていた。その彼が、再び自分の目標を見つけたと言う。その目に火を灯す。
「よかったね。ほんとによかったね」
そんなことしか言えなかったけれど、感極まっていると私の声色で気付いたのか俊介くんがこっちを見た。少し目を見張って、額に手を当て天を仰ぐ。
「……堪んねえな」
「何が……?」
視線の熱はそのままに眇められた目が今度は私を見下ろしていた。
「俺のことなのに、自分のことみてえにそんだけ喜んでくれる人がいることが。……ねえ、ぎゅってしちゃだめ?」
聞きながら、私の返事を待たずに立ち上がっている。ダイニングテーブルを回り込んできて、私の前に立って、それで両手を広げて待つものだから涙も引っ込んで笑ってしまった。
「それは達成するまでお預けにしないの?」
「えっ、う……お嫁さんがしてくれたらもっと頑張れるなあって……」
まさかの切り返しだったのかおどおどするのが本当におかしい。
「嘘! してあげる!」
立ち上がって私の方から思いきり抱きしめたら、「うあー!」と歓喜の声が聞こえた。ぎゅうぎゅうと体を締め付けられる。
「偉いほんとに! 頑張ってるね!」
「お嫁さんのお陰ー!! 俺、もっと頑張るから……!」
私のお陰だって? 何もしてあげてないのに、一体何のことやら。
だからそれは私の台詞なんだ。
もっとあなたの背中を押すために何がしてあげられるだろう。俊介くんのお陰で、何だってできそうな気がしてくるんだよ。
「今日もお弁当おいしかったー! なんか今日の手込んでた?」
「お、分かります~?」
「分かった分かった! すっげー旨かったもん。昨日の晩ごはんの残りじゃないおかずあったし。無理はしなくていいんだけど、ほんとおいしかった。昼休みに元気出る。ありがとね」
「そこまで言ってくれたら報われる。はるの朝の機嫌次第なところはあるけど、また頑張るよ」
空っぽになったお弁当箱を流しに出してくれている俊介くんと、んふふ、と顔を見合わせて笑い合う。
「ほーんとねえ、お嫁さんのお弁当、俺の自慢なの。昼休みに開けるのすっげー楽しみにしてんだから。部署の人みんな見にくるんだからね」
「本当に? それはそれでちょっと恥ずかしい」
「恥ずかしがることないって! 八代さんもめちゃくちゃ褒めてたもん! お料理上手なんですねって」
「やしろさん?」
「部長さん! 1個下の女の人なんだけど、すっげー仕事できんの。俺に全部指導してくれて、今も俺の企画がんがん上に掛け合ってくれてる」
頼りになるんだー、と俊介くんは微笑む。
「……そっか」
そっか。女の人。そりゃあいるよね。私だって同じ職場で働いてたんだもん。歳の近い、よくできる人がすぐ傍にいるんだ。
可愛い人かな。綺麗な人かな。
そんなこと営業でもない企画部の仕事には関係ないだろうに、頭の中で「やしろさん」のイメージがどんどん膨らんでいく。
俊介くんを応援したい、という気持ちが途端にぺしゃんとひしゃげて、自分が嫌になった。何をやきもち妬いてるんだか。私に俊介くんを独占する権利なんてない。彼が職場で周りの人に恵まれて楽しくやれているならとっても良いことじゃないか。
「あ、ひよ泣いてる」
「ありがとう……!」
私がシチューを煮込んでいる間にひよが泣き出して、俊介くんが一目散にすっ飛んでいった。
本当に、よく動いてくれている。
それに感謝する気持ち以外なくて良いはずでしょう?
「ねーお嫁さーん見て見てー」
俊介くんがすたすた歩いてまた台所に戻ってくる。腕にはふやふや笑っているひよがいた。
「俺、ひよ泣き止ますの上手くなったかもしんない」
ふふん、とドヤ顔。
「俊介くんは元々上手だよ」
「んにゃ、最初は全然分かんなかったしびびってたけど……今なら母ちゃんにも負けない自信があるね!」
最初から積極的だったけど、俊介くんにもびびってる部分なんてあったのか。育児書とか買ってくれてたんだもんね。ふふ、と微笑む。
「ひよも俊介くんにはよく懐いてる気がする」
お義父さんやお義母さんよりも、泣き止ませるのが最近圧倒的に早いのは俊介くんだった。
「あ。……知ってた? わんちゃんとかって、飼い主が仲良い人と仲良くない人の違いとかちゃんと分かるんだって。だから飼い主が仲良い人には懐きやすかったりすんの」
「へえ。動物に詳しい」
「だからね、ひよが懐いてくれんのはお嫁さんが俺に心を許してる証拠かなー? なんてね? ……冗談!」
「うん、そうだね」
顔の前で手を振っていた俊介くんの頰がみるみる赤くなっていく。
「はっず……」
「何赤くなってんの」
「いや、『何自惚れてんだ!』って突っ込まれるとばかり思ってた。そんなあっさり肯定されたら照れる」
「その通りだもの」
そうだ、私はこの家で俊介くんに1番懐いてるようなものなんだから。はるやひよも分かるに決まってる。
「あれ!?」
「おかあさんどうしたのー?」
朝、掃除をしながら素っ頓狂な声を上げた私にはるが不思議そうに聞いてくれた。
「お弁当、忘れていっちゃったみたい」
巾着の色は俊介くんのものだ。自分でしっかりおかずを詰めてくれていたのに何をしてるんだか。
玄関の前、階段になんて置いてあるから今まで気付かなかった。今朝、書類を入れるのを忘れてたとかで出る直前にばたばたと2階へ上がっていたからその時にぽんと置いて忘れたんだろう。
昨日も残業して遅くて、帰ってからもずっと部屋でデザインを練っていたみたいだもんね。
「ごめん! 今日も遅くなる!」と手を合わせて出て行った姿を思い出す。「そんなの謝らなくていいよ、頑張ってね」と送り出したけど、私は笑えていただろうか。
遅くなるって、その時間まで「やしろさん」と一緒にお仕事するのかな。優しいから、帰りは駅とかまで送ってあげたりするのかな。
そんな考えが自分の意思に関係なく頭に浮かんで、ぶんぶんと首を振り払う。
「だれー! だれがわすれたの!」
「おいた~ん」
「あーあー。おいたんおなかすいちゃうねー? ごはんなくてないちゃわないかなあ?」
はるの言葉で、休み時間に鞄を開け、お昼ごはんがなくてえーんえーんと泣く俊介くんを想像したら噴き出してしまった。
「ありがとうね、はる。優しいね」
「へ? はるやさしい?」
「うん、とっても。おいたんはねぇ、大人だからお弁当なかったら何か買って食べると思うけど、せっかく作ったし持って行ってあげよっか? はるの分もお弁当詰めてあげるし、お母さんと一緒に来てくれる?」
「はるもおべんとう……!! いいよー! いくー!」
いそいそと自分の上着を取りに行くのを頼もしく見送って、来年からの入園用に買ってあった小さな小さなキャラクターもののお弁当箱にちまちまとおにぎりとおかずを詰めてあげる。
今日は天気も良くて比較的あったかいし。幸い会社は家から歩いて行けるところだし。
お散歩がてら持って行ってあげて、私たちも帰りに公園でお弁当にしよう。
ひよにももこもこと着込ませてベビーカーに乗せ、お弁当を積んではるの手を繋いで出発する。
「あ、る、こー! あ、る、こー! わたしはーでんきー!」
「びりびり~」
間違って覚えているはるの歌を聞くたびに、俊介くんと二人で訂正せずにふざけて合いの手を入れてばかりいるのだ。
「はるご機嫌ねえ。寒くない?」
「だいじょーぶ!」
白い息を吐いてるのに元気いっぱいで助かる。
「あれ!! 吉野さん?!」
「え?! うわああお久しぶりです!!」
会社に到着して一番に出会った警備員さんは私が働いていた当時から変わらない人で、旧姓で呼ばれて懐かしさでいっぱいになった。
「あ、今は藤間さんになったんだった。立派なお母さんになってぇ! 娘さんたちもそっくりでまあ可愛いねえ」
高齢の彼は毎朝出勤する私たち全員に朗らかに「おはようございます!」と声を掛けてくれる気の良い人で、天涯孤独で若くして就職した私のことは特によく覚えて親身にしてくれていた。
「立派なんてことないです。毎日てんてこまいで失敗ばかり」
「こんなに元気に育ってるんだから何も問題ないよ! 大丈夫」
顔をしわしわにして「大丈夫だよ」と言ってくれる姿にじわりと胸が熱くなる。
「ねえ? お嬢さん、お名前はなんていうんですか?」
「ふじまはるかです! 3さい!」
「そう! ほら、上手なご挨拶だ」
はるが褒められて私もとっても嬉しくなった。
「はる偉いね」
いーっぱい頭を撫でてあげる。
「ああ、おじさん懐かしくて嬉しくなっちゃって。旦那さんも亡くなって大変だろうって心配してたもんだから。引き止めてごめんねえ。何か中に用事だった?」
「いえ、私もお元気なお姿を見られてとっても嬉しかったです。あの、今日は俊……えーと、……」
俊介くんのこと、他人に言うことなんて滅多にないから何と呼べばいいのか迷ってしまう。藤間くん、じゃ自分も藤間なのになんだか変だし。
「主人の弟が忘れ物をしていたので、それを届けに」
夫の弟。
そうか、そう言うとなんだかとっても遠い関係の気がする。あんなに近くにいるのに、本当は何も口出しなんてできないような。
「ああ、それはお疲れさま! どうぞ入って持って行ってあげて! 企画部だったかな?場所は変わってないよ、分かるね?」
「あ、ええ、分かります。入っていいんですか?」
「身内だもん。どうぞどうぞ」
本来なら部外者なので、社内にいる人に門まで出てきてもらって渡すか、警備員さんに一緒に付いてきてもらって入るかどちらかのはずだけど。私は元従業員の顔パスで通してもらってしまい、ベビーカーを畳んでひよを背負い、私たちだけで建物の中に入った。
1階ではガシャンガシャン、と巨大な機織り機が動く音。
2階ではコール音の響く電話対応の部署。
どこも変わっていなくて懐かしい。
誰かに見咎められたりしないかと少し緊張もする。ちゃんと警備員さんの許可はもらってるもんね。いいんだ。
「しゅごーい! おっきなきかい! しゅごい、おかあさんしゅごいね!」
「すごいねぇ。はるちゃん、しー、ね? みんなお仕事してるから」
廊下ではるのはしゃぐ高い声が響いてどきーん! とする。部屋の中からちらほらと視線を向けられたけど、ぺこぺこと会釈するとまた仕事に戻っていった。
社内にエレベーターはない。当時から知ってはいたしそんなに高い建物じゃないからその時は何の苦労も感じていなかったけど、子連れとなると重労働だ。励ましながらはるにはうんしょうんしょと頑張って自分で階段を登ってもらって、私は気温が低いのに汗をかきながらひよを背負って登る。
くそぅ、子育てでばたばたしてるつもりなのに運動不足だ。俊介くんなんてひょいひょいひょーいと駆け上がっていくんだろうなあ、と朝の風景を想像する。
企画部は3階。仕事中の俊介くんを初めて見られるとなると緊張してしまって、そーっとそーっとドアの上部に嵌められたガラスから中を覗き込んだ。
はるにもさっき「しー」と言ったから忍び足で廊下を歩くことを楽しんでくれている。
『アハハハ!!』
聞き覚えのある笑い声が聞こえてきてドアに張り付いた。めっちゃ笑ってる。家にいるときみたいなふにゃんと穏やかな笑い方じゃなくて、目の前にある物を弾き飛ばしそうな張りのある笑い声。
『八代さん、そりゃないですって!』
『だって藤間さん思いきり漢字間違えてるんですもん! ちゃんと大学行ってました?』
『ひでー! ちゃんと卒業してんのに!』
『うわー、俺と同じとこ出た先輩とは思えないっすわ……ドン引き』
『おぉい! ちょっと間違えただけなんで、そんなドン引きしないでくださいって! ……で、間違ってたのどこですか?』
『分かってないじゃないですか……!!』
俊介くんが中心になって、部署の人達がわいわいと盛り上がっている。
ああ、思っていた通りだ。俊介くんはどこにいたって周りを楽しませて惹きつける。後から入社したから全員に敬語だけどもう距離なんて全然感じなくて、歳上からも歳下からも愛されているのがその一瞬で分かった。
その中でも特に親しそうに話している小柄な女の人がいた。スーツのよく似合う、顔は可愛いけどスタイルが良くてとても利発そうな人。あれが、八代さん。
ぱしん、と軽く肩を叩かれて、俊介くんは『痛え』と冗談混じりに言いながらけらけら笑っていた。
『今日、お弁当も忘れたんでしょ? ほんとアイデアは凄いけど、まだまだ凡ミスが多いんですから……!』
途端に俊介くんの肩が落ちる。
『そう……そうなんすよねえ。ああ……お昼何とかしないと。お弁当ないと俺力出なーい』
『もう……! 情けない声出さないでください! 今日は一緒に食堂行ったらいいでしょ!』
『まじっすか……! 行きます!』
『はい、だからお昼まであと少し頑張りますよ!』
『はーい!』
俊介くんの弾んだ声を聞いていられなくて、張り付いていたドアから離れた。ふら、と数歩下がってはるの手を引く。
お弁当、いらないじゃないか。あの人と食堂に行けることになって、あんなに楽しそう。目の前のドアを開けてこの空気を邪魔する勇気が持てなかった。
「おかあさん? おべんとうわたさないの?」
「……うん。いいの。おいたんいないみたい」
「そーうー? おいたん、おうちに取りに帰っちゃったのかなあ」
「どうだろうねえ」
小さく喋りながら来た道を戻る。
「ああお疲れさま。どうだった? 藤間くん、喜んだでしょう」
「どうも、ありがとうございました」
声を掛けてくれた警備員さんの顔は、しっかりと見られなかった。今優しくなんてされたら泣いてしまいそうな気がした。何も、泣く必要なんてないはずなのに。私の顔はどうしてこんなに強張っているんだろう。
「はる、公園入ろ」
「うん」
寒空の下、小さなお弁当に喜ぶはるの隣りで、俊介くんに渡すはずだった大きなお弁当箱を開ける。
ポテトサラダも、おひたしも、唐揚げも。
俊介くんが「好き」「おいしい」って言ってくれた物ばかり。
「……いただきます」
「いただきます!!」
せっかく作ったのに忘れちゃってさ。あげるもんか。全部私が食べてやるんだから。
ぱく、と一口取っては口に運んでいく。
それにしても量多いなあ。いつもこれをぺろっと空にして帰ってくるもんね。同い年にしては気持ちのいい食べっぷりだ。
私には多すぎて、先に食べ終わったはるが砂場に遊びに行ったのを見送った。もぐもぐ、と冷えたおかずを頬張る。
ぽた、とごはんの上に涙が落ちた。
「…………っ」
何泣いてんだ。ほんと、情けない。
ぽたぽたぽた、と後から後から落ちる雫を慌てて手で拭う。
俊介くんが、歳下の仕事ができて可愛くてスタイルも良い女の子の方を好きになるなんて当たり前じゃないか。
こんな、三十路手前の子持ちの、出産前に比べたらだいぶスタイルも崩れちゃって、普段は化粧もしてないような女より。
当たり前なのに。今更気付いた。
私、俊介くんに他の人のところへ行ってほしくないんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます