リスタート

第14話

「俊介くんは、もうこの家を出て行きたいって思う? ……それか、私に出て行ってほしいか」


泣くのが落ち着いたら、私は彼に努めて穏やかな声で尋ねた。俊介くんは飲み込んだうどんにむせ返りそうな顔をして、ぽろっとお箸を取り落とす。


「正直にね、言ってほしいの。ここしばらくすっごく頑張ってくれたから、辛かったでしょう。だから、もう嫌になっちゃったかなって。私が俊介くんと住むのが嫌なんじゃないの。追い出したいだなんて思ってる訳じゃないのは分かってね。出るべきなのは私の方だもの。でも俊介くんが本当に疲れちゃったのなら、この家を離れて好きなことしていいんだよって言ってあげたくて」


私は義両親がしてくれたように誤解を与えない言い方をできているだろうか。あの時と同じように、選んでいいんだよ、って伝えたいだけなのだ。この家は彼を縛り付けすぎている気がして。

エネルギッシュな彼はその力を別の方面へ注げばどこまでも羽ばたける力があると思うのに、自ら雁字搦めになっているように見えて解き放ってあげたかった。


「俺はいたくてここにいる。お嫁さんとはるとひよと、父ちゃんと母ちゃんのいるこの家が大好きだから、俺の意思でここにいるんだよ」


誤解なく私の言葉を受け取ってくれた俊介くんが、静かに告げる。「お嫁さんが俺と住むのもう嫌だ、って思ってなければ」と付け足された。


「思わない、思わないよ」

「にひひひ。よかったあ」

「……今質問しながら、本当に家出たいって言われたらどうしようって思っちゃってたもん。一緒に住んでほしい。出て行っちゃったら寂しいよ」


言いながら、また顔を伏せた。


「私、最低だ……。俊介くんにもう無理してほしくないのに。こんなこと言ったら優しいからまた家に残ってくれちゃうに決まってるのに。全然離してあげられない」


解き放ってあげたいなんて、口ばっかりだ。どうしようもないわがまま。この自己犠牲の人をちっとも守ってあげられない。


「んー、んー……。んふふ。ね、お嫁さん。顔上げてみ。俺、笑ってるっしょ?今ねえ、嬉しいの。俺のこと要るって言ってくれて、超嬉しいんだよ。俺しあわせ」


世界で一番優しい人は落ち込む私にただ笑い、ちょん、ちょん、と穏やかな手つきで私の髪を撫でて顔を上げさせた。笑ってる、って言われても怖くてちら……と腕の隙間から伺い見る。

「ばあ」と途端に変顔で迫られて、吹き出すように笑った。


「おっはよー!!!」

「おはよう」

「完全ふっかーつ」

「そうだねえ、よかったね」


翌朝、台所に入ってきた俊介くんの顔は晴れやかでほっとして微笑む。一応じぃっと見てみたけど明らかに顔色が良くて、無理なんてしてなさそう。と、思っていたらこっちもじっと見つめ返されていた。


「なあに?」

「お嫁さんのおかげ。ありがとう」


きゅっと口角を上げた俊介くんが目を細め、元気いっぱいだった「おはよう!」はどこへやら、急に大人びた雰囲気を纏う。

俊介くんは自由自在に空気を操る。彼が白い歯を見せ笑えば周囲はぱっと華やぎ、憂いを帯びて視線を流せば観葉植物さえも頰を染め目を伏せる。そんな幻想を抱いた。


「ど、どういたしまして……」

「うどんおいしかったもんなー! 超元気出た!」

「そんなに? 簡単なのに」

「んへへ。あのね、味もおいしかったけど、俺のためだけに作ってくれたってのが最高」

「……可愛いこと言うなあ」


薄紅の頬を緩ませる俊介くんは本当に嬉しそうで、心から喜んでくれているのが伝わって和む。


「今日の夜は何食べたい? はるのリクエストで変わっちゃうかもだけど……そんなに喜んでくれるならいつでも好きな物作るよ」

「え、いいの!」

「いいよ。というか、今まであんまり聞いてあげてなくてごめ……」


ん、と言いきる前にはっとする。俊介くんとも火花が散るように目が合った。


「んーと、んーと、頑張ってる俊介くんにご褒美あげたいから」


俊介くんはとろけるように笑う。よかった。


「カレー、食べたいなあ……」


それでもまだ様子を窺うように自信なさげに私を覗き込んだ。


「カレー? いいよ」

「もちろんね、はるが最優先で! いいんだけどね! お嫁さんがカレー作って待ってくれてたら仕事頑張れるなあって!」

「いいよって。そんな必死にならなくても分かったよ。甘いの? 辛いの?」


手をばたばたさせる彼に笑みが溢れる。そっか、そんなことも知らないや、と尋ねた。

カレーは甘口? 辛口? お味噌汁の具は何が一番好き? 目玉焼きには何を掛ける? もっと知っていきたいって思う。


「辛いのも食べられるけど……」


俊介くんが珍しく言い淀んだ。


「……甘い方が、好き。辛さゼロの、甘ーいやつ。ほんとははるとおんなじのでいいの。……引かない?」


不安そうな顔に申し訳ないけど吹き出してしまう。


「引かないよ!! え、いっつもお義父さんお義母さんと同じ中辛出してたけど我慢してたの?!」

「大人だしこっちの方がいいのかなってぇ! ちゃんと食べられるし!!」

「何でそんなとこ我慢してたの!」

「お嫁さんにお子様って思われたくねえもん! 格好つけたかったの!」


何だそのプライド。

笑いが止まらない私と必死の俊介くんの傍を通りながら、お義母さんが呆れたように呟いていく。


「圭も佑も中辛食べるけどあんた用にだけずっと甘口買ってたのに、一人暮らしして味覚が変わったのかと思ってたわ。しょうもない我慢してたのねえ」

「しょうもないって言うなって……!」


容赦のない言われように俊介くんも笑うしかない。


「美由紀さん、はるちゃん、行ってくるわねー。カレー楽しみにしてるわ!」

「あ、はい、いってらっしゃい!! ……俊介くんも、行かないと遅れるんじゃない?」


謎のこだわりを私たちに散々笑われた彼は少々むくれていた。


「はいはい、お子様舌ですけど社会人なんで出勤してきますよ。……ごはん、忙しかったら無理しなくていいから。買って帰る物あったらいつでも連絡入れといて。仕事中は返事できないかもだけど帰る前に絶対携帯見るから」


急に私を案じる真顔になって、私も我に返る。

ああそうか、だから今までリクエストなんてしたことがなかったのか。私に無理させないようにって気を遣って。

私の気付いていないところでも、そうやって配慮し続けてくれていたんだろう。


「ん、分かった。『作るの無理だったー!!』ってメールするね」

「うん。俺『おっけー!!』ってピザ買って帰るわ」


今までの俊介くんに感謝しながら、私も変わっていこう、と明るい声で言ったら、俊介くんも頭の上で大っきな丸を作ってにこにこ笑った。

お互い見えないところで遠慮して守り合おうとするんじゃなくて、少しずつ甘え合って寄っかかって生きていこう。きっとその方が、もっと幸せになれる。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


いつも通りに告げたのに、俊介くんはきらきらと顔を輝かせた。なんだなんだ。何がそんなに嬉しいの……。そう思うのに、つられて笑ってしまう自分がいる。


「……へへ! 行ってきます!」


また繰り返して、はるとひよに熱烈なキスをしてから俊介くんは踊るように玄関を飛び出して行く。同い年とは思えないくらい軽い足取り。何度も振り返るから、「遅刻するってぇ!」と窓を開けて叫んだら、がはがは笑ってもう一度大きく腕を振ってから走っていった。

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