再生
第13話
呆然とした。私が布団を被らせなかったものだから手だけで必死に顔を隠して身を捩り、それでもその隙間からはらはらと零れる彼の涙を意味もなく掬い集めるばかりだった。ひっ……と俊介くんが嗚咽の合間に苦しげに息を吸う。
私は彼の何を見ていたんだろう。いや、彼が私には決して見せないようにしたんだ。自分が必死になって家を守ろうとする姿を。
乱雑な部屋を見渡せば、ここで藻搔いていた俊介くんが目の前に浮かび上がるかのようだった。
そもそも転職だなんてそれだけで人生の一大事で、人間関係も仕事の内容も変わって全てゼロからのスタートだったはずだ。圭介さんの後釜に就く気はないと宣言しながらも周りは彼の弟、社長の息子だという目で見るだろうし、プレッシャーは相当なものだっただろう。遅くまで残業して、帰ってきてからも復習して。
それなのに、はるがぐずるから俊介くんは出勤時間に間に合うよう起きるのを早めた。
『おいたんじゃなくておとうさんがいいの!』とはるに言われて、ほんの一瞬だけ動きを止めた彼を今になって思い出す。
『俺じゃ駄目だった! 兄ちゃんじゃなきゃ……!!』
そんなことないのに。そんなに悲しいことを言わないでほしいのに。
あのときは平気そうに振る舞っていたけど、もしかして少しずつ彼の心は抉られていた? 自分が愚かにも気付かなかった彼の煩悶を振り返り、必死に記憶を辿る。
その後、今度はひよが寝なくなり寝かしつけているうちに私が体調を崩したのだった。俊介くんは仕事帰りなのに、私の頼みを汲み取って徹夜で傍にいてくれた。疲れていただろうに。手拭いで私の視界を覆って、自分の窶れた顔を見せなかった。
『幸せになってよ……お嫁さん』
そう囁かれた真意に気付いて愕然とする。
手を貸してくれて私は充分助けられていたから、恵まれているななんて思って聞いていたのに。
あらゆる手を尽くしても私がうまく彼に頼らなくて、状況は悪化する一方に見えて。幸せにしたいのに、自分じゃ駄目だと感じたから神頼みのように呟かれた言葉だったとしたら。
同時期に、夜泣きしなくなったひよ。昨夜ひよを連れ一人蹲っていた俊介くん。朝には布団に帰ってきて良い子に眠っていたひよと、そういえば珍しい俊介くんの寝坊。
俊介くんが限界を迎え、少しずつ溢していたSOSのサインが繋がっていく。
ひよが夜泣きをしなくなったんじゃない。私を休ませるため、仕事終わりの俊介くんが代わって寝かし付けてくれていたんだ。
『うまくいかなくて俺が寝落ちしたくさいけど』
と俯いて隠していたけど悔しそうだった顔。ずっと笑顔でいてくれた俊介くんが、少しずつ見せていた綻び。
『さあ、時計見てなかったから分かんね』
『んー? あの後割とすぐかな?』
私が聞いてもそうやってはぐらかして。とうとう体調を崩して感情を制御できずに私に当たっても、その後すぐに悔やんで謝って。
くしゃくしゃに読み潰された、数冊の育児書を見る。これを読んでどうにか上達しようとしては、全然駄目だ、って一人この部屋で自分を責めていたのかな。充分助けてくれていたのに。俊介くんには何も悪いところなんてなかったのに。
同い年なのに、時々すごくお兄さんに見えるときがある、なんて思っていた。馬鹿か私は。背伸びしてくれていただけだ。自分のことで精一杯の私に代わって。俊介くんは何でもできるって、いつも完璧だって、勘違いして甘えた。きっと、一人の普通の男の人だったのに。
何でもできると思ったのは、彼がそうあろうとしていたからだ。周りが見えない私とは反対に、彼は必死にSOSのサインを何一つ見逃すまいとした。そのためなら自分の全てを差し出してでも、みんなを救おうとしてくれた。
どれだけ気を張る日々だったことだろう。きっと、本来気を抜いていい家でもぴんっぴんにアンテナを張っていたはずだ。自分だって辛いのは同じなのに。
ただ優しくて、家族が大好きだから。
「ごめんなさぁい!! 私が、私のせいで俊介くんまで傷付けた」
悔しがる必要なんてないのに、自分の不甲斐なさに泣きじゃくっている俊介くんの手を握って涙を零す。途端に俊介くんが顔から手を跳ね除けて叫んだ。
「違うんだってえええ……! それは違うの! お嫁さんが自分のせいにしたら俺は泣くからな……!」
もうとっくに号泣している顔を私に見せつけているのに、俊介くんがそんなことを言って私を脅す。
「お嫁さんにもう二度と謝ってほしくないから! 俺が来たのに!」
そう言いながら身も世もなく真っ赤な顔で大の男の人がびゃあああと泣いている姿に、何よりも分かりやすく救われた。
これが彼の本心なんだって。
分かりやすくて、でも分からなくなっていたのを、ようやく見つけた。
私はお礼を言っておけばよかったんだ。そして一緒に泣いて、一緒に傾いた家を立て直す方法を探ればよかった。
「ありがとう」
「うん……」
思わず子どもにするように小さな頭を抱きしめたら、彼は頷いてすんすん鼻を啜った。お顔拭きなー? って、ようやく泣き止みかけてきた俊介くんの顔を冷たく絞ったタオルでごしごしと拭く。鼻が高いなあ。
「ふふ、つべた……」
そうは言うものの声がどこか嬉しげ。目と鼻を赤くした彼は一瞬照れくさそうにしたけど大人しく世話を焼かれた。
あ、甘えられてる、って思う。
本来はそっちが素なのかもしれない。「兄ちゃん兄ちゃん」って圭介さんにべたーと貼り付きにいっていた姿を思い出した。
いっぱい泣いちゃったね。辛かったよね。
たくさんの涙の跡を拭いてやって、終わったよ、の報せに汗でぱりぱりになった髪をぽふぽふ撫でた。
「そんなに泣くから体温たっかい。良い子は寝てください」
「はーい」
元気そうに振る舞ってても疲れた体は正直なんだろう。もふっ、と素直に布団に潜る。よしよし寝るのかな、と思っていたら、丸い目がじっ……と私を見上げた。
なんっっっだそのきゅるるん。
ぐっと息を詰まらせる。鼻まで布団を引き上げ目だけを出した彼は私の様子を窺っていた。
「なあに。何してほしいの」
そう聞かずにはいられない視線。
待って、この人ものすっごい甘え上手だぞ。
私そんなこと聞いてませんお義母さま。
「ううん。ありがとーって。俺ほんとはこんな駄目だったのに、嫌いになんないでくれて嬉しいなーって思ってたの」
はきはき叫んでたとは思えないくらい、とろんと甘い滑舌。ほっといたらもう数秒で寝るんじゃないだろうか。いやぜひ今すぐ何時間でも寝て休んでいただきたいですけども。
「嫌いになる訳ないでしょう」
泣き笑いみたいな声が出た。
ああ馬鹿だなあ、この人は。完璧だなんて、大嘘を演じたものだ。
不器用で、馬鹿で。でも死ぬほど一生懸命。
嫌いどころかそんなの愛おしいに決まっている。
「お嫁さん、今から何すんの」
「はるとひよが寝てるうちに、みんなの晩ごはんの支度するよ」
「そう……」
一息一息が深い。もうきっと、あとちょっとで寝られる。私の目の前で寝ちゃうかな。
「いてあげようか」
「今から何すんの」は「いてほしい」の言い換えじゃないの。
「ばか言え……ひとりで寝られるし」
「そう。……じゃあ、好きなの作っといてあげようか。何食べたい?」
口を尖らせて強がる姿に、ふっと笑ってそれならばと提案した。途端、閉じかけていた目がまた少し開いてきらきらと光を弾く。
「うどん……!」
「りょーかい。おやすみ」
「おやすみ!」
食べたい物くらい、もっと前から聞いてあげればよかったと思った。
俊介くんという、全てを懸けてでも守ろうとしてくれている存在がいることを知った私は、なんだかとても強くなれた気がした。
単純な話だったのだ。別に圭介さんが亡くなって育児や家事ですることが大きく増えた訳じゃない。少し手を借りるだけで、私は日中特段困ることなく楽しく過ごせていた。だから育児や家事が負担だった訳じゃないのだ。
圭介さんが亡くなって、私が失った一番大きなものは心の支えで。一気にはるとひよの命も将来も一人で背負わなきゃいけない気になって、頭では周りを頼っているつもりでいてもとてつもない不安に襲われていた。お義父さんお義母さんも優しいから完全に迎え入れてくれているのに、私はなんだか居候のような気分で自分のしなきゃいけないことを勝手に課して。俊介くんも、どれだけ「頼っていいよ」と手を貸してくれてもやはり全責任は自分にあって彼は申し訳ないことに手伝ってくれているだけ、という思いが拭えなかった。
でも、「お嫁さんにもう二度と謝ってほしくないから! 俺が来たのに!」と俊介くんが泣くのを見て、ようやく気付いたのだ。彼がとっくに私を家族の一員に含めてくれていたこと。はるとひよの人生を背負った私の人生ごと、彼が背負う気でこの家に戻ってきてくれていたことに。
お義父さんお義母さんにおかえりなさいをして、俊介くんを除いた面子で晩ごはんを食べた。はるは「おいたんはー?」と不思議がっていたので「風邪引いちゃったんだよ、寝てるから静かに遊んでね」と説明する。
「おみまいしなきゃ!」と目を丸くしていたはるは、俊介くんの部屋の前の廊下にせっせとお医者さんごっこのお薬と注射器やおままごとのお皿を並べていた。
いつの間にそういうことを覚えてくるんだろう。俊介くんに見せたいだろうなと思い、そこだけ片付けなくてもいいよと伝えた。なんか見たときの叔父馬鹿の彼の様子は想像できるけど。
「はるとひよも風邪引いたら困るからね、早く寝なさーい」
「はーい!」
今日ははるもとっても素直で、ひよも最近のぐずり具合が嘘のようにすぴーと寝てしまう。
ずっと私の余裕のなさが伝わっちゃってたかな。
大好きな丸い頰を撫でて部屋を後にした。コンコン、と控えめにノックし、廊下のおもちゃを飛び越えて部屋に入る。あれほど抵抗のあったその部屋への入室をもう躊躇うことはなかった。
もう何時間も経っているけど、俊介くんはくかー、と赤い顔をして寝ている。ずっと寝られてなかったんだもんね。
おうどん、食べるかな。
「……俊介くん」
起きなかったらそのまま寝かせておいてもいいや、とごく小さな声で呼び掛けた。がば……っ! と思ったより激しく布団が捲れて俊介くんが起き上がる。そんな起き方をするものだからくらりときたのか、彼は数秒額に手を当てて俯いた。
ああ、ああ。体調悪いのに慣れてなくていつもみたいに動くから。
次に隣りに立つ私にゆらりと視線が移って、黒い瞳が揺れる。
「おはよ?」
「……うどん?」
まだ寝ぼけたように訊くのを見て思わず笑った。
「うん。そうだよ。食べる?」
「……。夢かと、思った」
ほろ、とまた涙を一粒零す。
「わあわあ」
びっくりしてがしーん! と彼の両頬を挟むように押さえてしまった。
泣かないで。いや、むしろ泣いてもいいのか。
「もう、どうしたのー……。夢? じゃないよ? たぶん。何のことだかちょっと分かんないけど」
「俺がぶち撒けて泣いても、全部許してくれたのなんて夢かなって」
「じゃあ夢じゃない夢じゃない。おうどんご所望なんでしょ」
「うん」
俊介くんは私にほっぺを挟まれたまま不安そうにしていたけどこっくり頷く。布団から出たら寒いだろうからいっぱい着てね、と余計な世話を焼いたら、素直に服の山からパーカーを引きずり出して着込み、スリッパを履いて出てきた。
「うわ、何これ」
「はるがお見舞いにって。いっぱい並べてたの」
「はるぅ……。あの子ったら……!」
俊介くんは大袈裟に目頭を抑えて感動のリアクションを取った。そしてにこにこと並べられたおままごとの一つ一つを手に取って見ている。
「はるは優しーなあ。お嫁さんが優しい子に育ててるからだね」
待っていたら急に話を向けられて驚いた。俊介くんがふにゃふにゃに柔らかい表情で私を見上げている。
「勝手に覚えてくるんだよ」
私が否定しても、俊介くんは「んふふー」と微笑むばかりだった。そしてぴこぴこと私の後に付いて階段を降りてくる。
かわいい。って、思ってもいいだろうか。同い年の、しっかりと大人の男の人だけど。
「お椅子座ってて。しんどくない?」
「へーき」
そう言いながらず、と鼻を啜る彼に「はいティッシュ!」と箱と屑入れを差し出し、小さな電気ストーブを足元に向けて付ける。
「お嫁さん、はやーいねー」
彼はぽーっとお礼を言いながら鼻をかんでいた。自分の動きがいつもの2倍の時間掛かってるだけだけどね。
普段駒みたいに動くのが嘘みたいだ。完全に電池切れ。
今充電してあげるからね。
おうどんなんて、あまりにもお手軽なリクエストだ。風邪だしね。お腹に優しいものでいいんだろう。温めていたお出汁と茹でたおうどんを合体させ、ふわふわと卵とじ。
「おねぎ入れる?」
「うん。ちょっと」
台所から顔を出して彼の返事を聞き、ぱらぱらとねぎを散らした。かまぼことかは消化に悪いし、もっと豪華にしてあげたいのはやまやまだけど今日はそれだけ。
「はい、お待ちどうさま」
「わあ……」
とん、と器を置いたら、顔を突っ込んでほわんほわんと湯気を浴びている俊介くん。
「いー匂い」
「よかった」
嬉しそうだけど動きが遅くてあまりにもじっくり嗅いでるから心配になったよ。
「いただきます」
見慣れた仕草で丁寧に手を合わせ、お箸を持つのを見ながら彼の前の椅子に腰掛ける。深夜近く、お義父さんとお義母さんもいない静かなダイニング。暖房と加湿器だけが控えめな機械音で勤勉に動いていた。カチ、コチ、と普段は気にならない壁掛け時計の秒針の音が聞こえる。
彼の物、と決まっている黒の塗り箸が動いて、うどんを掬い上げた。つやつやと黄金色のお出汁が滴る。ふー、ふーと目を伏せて吹いた後、俊介くんは一気に啜った。白い頰が動く。ごくりと喉仏が上下する。
「おいし、」
顔が上がって彼が笑って私を見て、言いきる前に涙が一筋肌を滑り落ちていった。目を見張る私の前で、はらはらはらはらと滴が後を追っていく。
「んあーなんか涙が」
私が何も言えないでいる間に、俊介くんは自分で苦笑した。止まらないものだから拭いもせずに、そのままうどんをおいしそうに啜っている。
彼はほんとは泣き虫なんだな。私なんかよりずっと。
無理して泣き止ませる必要もなさそうだ、と私は頬杖を突いてその様子を眺めた。
「んまいよ、ほんとに。えへへ、泣いちゃうくらい」
「よかった」
「なんでかな、止まんねえの。すっげー安心する」
「……うん。そうだね」
うまいうまいって手を止めずに、涙の言い訳をしながらうどんを啜るのを見つめた。
それだけ無理してたってことだよ。そんな、卵入りの素うどんなんて何杯だって作ってあげるのに。
「馬鹿じゃないの」
テーブルに顔を伏せた。つられて涙が出て止まらなかった。
「うん。俺馬鹿なんだよ。馬鹿みたいにこの家が好き」
聞こえてくる俊介くんの声はずっと笑っていた。
「私もだよ。みんなが大好きなだけなの」
「知ってる」
この世で一番近しい存在がいたことに、私はようやく気付いた。
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