ぽきり
第12話
俊介くんのお陰で風邪も治って、またいつもの日常が戻ってきた。ひよも夜泣きをしなくなったし、やってくる冬を乗り越えられないんじゃないかと思うような喧騒は少し収まっている。
「おはよー! よく眠れた?」
「おはよう。うん、大丈夫だよ」
「そっかあ!」
台所に飛び込んできた俊介くんは私の返事を聞くと花が咲くように笑った。何の見返りもなく自分の元気を心から喜んでくれる人がいるという安らぎをくれる。
「早く朝ごはん食べないと、今日ちょっと遅いんじゃない?」
「うえ、ほんとだやべえ」
俊介くんはネクタイを締め上げながら席に着いた。彼の動きはいつもどことなくぱたぱたしていてコミカルだ。見ているだけで楽しい。本人は遅刻と戦っていてそんな平和な心境じゃないだろうけど。
「お弁当もう鞄に入れとくから!」
「んぐ、ごめーんありがとう!」
ごはんを掻き込む背中に声を掛ける。いつもは自分で巾着に包んでいってくれるのだけど、手伝えることはしてあげよう。どんなに急いでいようが彼は絶対に食事を残さない。焦ってはいるのだろうけど食べ方がやっぱり綺麗で、私のよりも随分大きな一口が見ていて気持ちよかった。
「いってきます……っ。ごちそうさま!」
「はい、いってらっしゃい」
「いっしゃっしゃーーい!」
ぺろりと平らげたお皿を置いて、俊介くんは風のように家を出る。はるの「行かないで」攻撃も落ち着いていて、ぶんぶんと手を振って見送っていた。
……口の端、お醤油付いてたけど気付くだろうか。
視界を駆け抜けて行った顔を思い出してふと思案する。職場に着くまでに気付いて手とかで拭ってると良いんだけど。何せ声を掛ける間もなかったのだ。ふふ、と笑ったら「おかあさんなにわらってるのー?」と足元にはるがまとわりついた。
結局、お醤油は職場に着いてから指摘されたらしい。
ああ……気の毒に。俊介くんはげらげらと夕食の場でそれをネタにしていたので何も気にしてはいなさそうだったけど。きっと新しい職場でもそんな性格で愛されて許されているんだろうなあと想像する。
「お嫁さんは? 今日良いことあった?」
俊介くんは私に話を振った。意識してかしないでか、彼は毎日のようにそう尋ねる。「今日何した?」だと子どもと格闘するばかりで何も進まなかった私が自分を責めると思ってか、考え過ぎか。お肉が安かったとか、洗濯物がよく乾いたとか。そんな小さな報告をする私に、「よかったねえ」と俊介くんは顔中に笑みを浮かべるのだ。
真夜中、泣き声が聞こえた気がして目を覚ました。
けれど部屋は静かで、気のせいかと首を巡らせる。はるは……ちゃんとお布団を被って寝ている。偉いぞ。しょっちゅうはみ出しているからな。ひよは……ひよは?!
「?!」
隣りにひよがいなくて、驚きのあまり息を飲んだ。大慌てで布団をばさばさ捲る。いない。何で? 何が起きているの。
心臓がばくばくするけれど、布団を探った時に床に見つけた物があった。俊介くんのタオル。……ほんと、どうして?
とりあえずひよの行方の見当は付いて、小さく息を漏らしながらタオルを拾い立ち上がる。布団の外は寒くて、ぶるりと肩を震わせて厚手のカーディガンをパジャマの上から羽織った。
他の人を起こさないよう、足音を忍ばせて階段を降りていく。段によってはきぃ、と軋む箇所があって、その度に心臓が跳ねた。
布団の恋しい氷のような廊下をつま先で駆け抜け、見えたリビングのドアにはまった磨りガラスはほんのりと明るかった。かちゃん、とドアノブを下げる。
ほわりと暖房の効いた空間。間接照明の一つだけが灯され、薄明かりの中でソファーの上にこんもりとした毛布の塊がある光景の既視感にくらりとした。
毛布山は私が近付いても動かなくて、私はソファーの前にそーっと屈み込む。
そこからはふぇ、ふぇ、とひよが眠いのに泣き止まないときの声が小さく聞こえていた。
それを抱いて揺れながら、胡座をかいて頭から毛布を引っ被り俯いているのは予想通りの人物。
近付くとすー、すー……と静かな寝息が聞こえた。見上げた瞼は固く閉じられていて、大きな瞳の隠れているのが物珍しくて思わずじっと観察してしまう。
くちもと、笑ってない。
こんなに一緒に住んでいて、彼が眠ったところなんて初めて見たのだと気づいた。
かくん、かくん。
俊介くんはひよを抱いたまま前後に船を漕ぐ。首、いや全身を痛めてしまいそうだ。
起こそうかと思ったとき、びく、と彼が起きた。
「……ぅあ、お嫁さん」
「うん」
「ごめん……起きちゃったの」
「びっくりした。ひよのこと寝かしつけてくれてたの」
「あー……うん。まあ。うまくいかなくて俺が先に寝落ちしたくさいけど」
俊介くんはぐしゃぐしゃ、と髪をかき混ぜ俯く。その隙間から、しかめ面をするのが見えた。悔しい、って顔に見える。
珍しい。今夜の彼の表情は、どれもこれも。いつも笑ってるところしか見ないから。
間接照明のみで薄暗いリビングの雰囲気も相まって、別世界に来てしまったような錯覚を憶えた。
「ごめんね、ひよの抱っこ代わるよ。明日もお仕事でしょう。ちゃんと布団で寝なきゃ」
「布団で寝なきゃいけないのは、お嫁さんもでしょ。また体壊すよ」
俊介くんは譲らなかった。眠いせいもあるのか本当に笑わなくて、真剣な顔のままだから怒られている気分になる。
「……いつからここにいたの」
「さあ、時計見てなかったから分かんね」
あの体力おばけの彼が疲れて寝落ちしてしまうくらいだ。相当長時間いたのは想像が付くのに、俊介くんは答えない。
ひよが泣いたのにいち早く気付いて、私が起きる前に部屋から連れ出してくれたのだろうか。親切な誘拐現場に落ちていたタオルは俊介くんがいつもお風呂上がりに使っているもので、干されずに床にあったから湿っていた。
隣りで寝ていた私よりも先に気づくだなんて。耳をそば立てていた俊介くんがそっと忍び込んで、身を屈めてひよを連れて行くところをまるで見ていたみたいに想像する。
「とにかく、今日は俺が寝かせるの。下手っぴかもしんないけど。お嫁さんはゆっくり寝るんだから。決定事項」
早く。ゴートゥーベッド。
拗ねたように口を尖らせ、ひよを抱いたままの手が毛布から出てきて「さっさと上がれ」と言わんばかりにつんつんと2階を指す。
こんなに強引な人だっただろうか。いつもは必ず私の気持ちを確認してくれていたと思うのに。真夜中の気怠い雰囲気や眠気や疲労は心を丸裸にするのかもしれない。もしかしたら、今までも何度も彼を苛つかせていたのかも。
「……ごめんね、ありがとう。明日もひよが寝なかったら絶対私が見るからね。今晩もいつでも起こしてね」
「だーいじょうぶ。おやすみぃー」
俊介くんはようやくほっとしたように笑って、振り返りながらリビングを出る私をにこにこと見送った。ひよはまだまだ泣いていて、ドアを閉める直前まで彼が「よしよし」と熱心にあやすのが見えていた。
はあ、と息を吐く。本当に良いのだろうか。
俊介くんの手腕を心配している訳じゃない。彼は短時間なら何の問題もなく乳児の面倒を見られてしまう。それは知っていたけど、甘えてしまっていることに不安があった。いくら彼でも、絶対に疲れているのに。本当に置いてきてよかったのだろうか。
悶々としながらすっかり冷えた足で階段を登る。布団に入っても心配でなかなか寝付けないかもな、なんて思っていたのに昼間に走り回っている体は正直で、あっという間に瞼は降りてしまっていた。
朝、目が覚めたらひよは隣りで眠っていて、俊介くんが音もなく戻してくれていたことを知る。
一体何時に寝たんだろう。気付かなかったので本当に知らない。俊介くんを困らせたでしょう、と丸い頬をふにいとつついた。
抱き上げても目を覚まさないひよを背負い、とんとんと階段を降りていく。日増しに日が昇るのが遅くなって、まだ真っ暗だ。冬は、日が短くて少し損をした気分。カチチチ、と点きにくいコンロを何度か回していつものようにお湯を沸かして、みんなのお弁当と朝ごはんを作っていればすぐに一家は集合する。
「おっはよー!」
「おはよう。俊介くん、昨日はありがとう。何時に寝られたの?」
「んー? あの後割とすぐかな? ひよ、温いしかーわいかったぁ。俺がお礼言いたいくらいだわあ」
「またまた。流石に泣かれ続けたらうるさかったでしょうに」
「あはは」
俊介くんは笑って誤魔化した。掴み所のない様子につられて笑いながらため息を吐く。服の背中に手を突っ込んで掻きながら台所を出て行く後頭部の髪が、歩く度にふよんふよん、と揺れていた。いつも歯磨き洗面をして寝癖を直してから顔を出すのに珍しい。後で忘れないように言ってあげなきゃ。
今朝は余裕があったから、大根と油揚げのお味噌汁に卵焼き。はるも起こしたらみんな口々にお礼といただきますを言ってくれて、食べ始める。私はお弁当を詰め始めるので一緒には食べられないけど、みんなが賑やかに食べてくれるのを見るのが好き。俊介くんなんてほら、毎日のように「おーいしー! お嫁さんの卵焼き世界一なんだけど!」と口元を覆いながら叫んで、
かしゃん!
軽いけれど異質な音が響いて、笑みを引っ込め台所から顔を覗かせた。お箸を投げ捨てた俊介くんがリビングを出て行くところで、口元を覆ってばたばたと走っていく後ろ姿が見える。
「……何か、ありました?」
呆然と呟いた。お味噌汁は味見したし、卵焼きも端っこを摘んだはずだけど。はるもぽかーんと俊介くんの消えていった廊下を見送っていた。そりゃそうだ。いつも「食事中は走り回っちゃ駄目」って注意してくれている張本人が立ち去ったんだから。
「いいえ? 美由紀さんのごはんは今日も最高においしいわよ。体調でも崩したんじゃないかしら」
「最近は滅多に風邪引かなくなったもんで、限界まで自分で違和感に気付かないからな」
お義母さん、お義父さんが揃ってお味噌汁を啜りながらフォローしてくれる。そんな呑気な。
「ちょっと、私見てきますね」
「大人なんだし放っておいても大丈夫よ~」
そう言いつつはるを見てくれているお義母さんの声を背に、俊介くんを追ってリビングを出る。廊下には、トイレから聞こえる荒い息遣いがくぐもって響いていた。
「――――っ、げほっ、」
近付けば近付くほど、出来る限り抑えているんだろう咳込む声と息継ぎの合間に激しい水音が聞こえてくる。薄ら予感はしていたものの、動揺した。
吐いてる。
「俊介くん、大丈夫?」
ドアの外から声を掛けた。がたがた、とペーパーホルダーの上に置いてあった消臭スプレーが落ちる音がする。
「……っ入んな!」
びくり。
ドアノブを掴もうとしていた手を止めた。低い、怒鳴り声。
こんなの男の人としては自然な程度だろう。でも、彼が私に向かってそんな荒い命令口調だったことなど一度もなくて、身が竦んだ。昨夜の出来事が頭に浮かぶ。あのときも、どこか苛々してた。まるで夢だったみたいに朝にはひよも隣りに戻っていたけど、やっぱりあれは紛うことなき事実で。
あの天真爛漫な彼を苛つかせる原因が毎度私にあるのかと思うと悲しくて踏み込めなくなる。
そのとき、またびたたた、と水音が響いた。それ以外には何の音もしなくて、私が声を掛ける前より更に声を抑えているのが分かる。無理に堪えるものだから気管に入ったのか、激しく噎せ返っていてどうしようもなく悲しくなった。
今、絶対に苦しい。どうしよう、ってパニックになるくらいに。だって私はそれがどんなに辛いか知ってる。
ぱっと手が出たドアノブはあっさりと下がって、かちゃんと呆気なく私の前に道を開いた。白い陶器に俯く薄い背中が、びくりと跳ねる。
「俊介く、」
右手が動いて、手の甲が乱暴に口元を拭うのを見た。その次の瞬間には振り向いた俊介くんに掴みかかられていて、私は押されるままに後退る。
「何で……!! 入んなって、言っただろ!」
俊介くんの目は素敵。誰もを夢中にさせるくらい、その黒曜はひどく魅力的。楽しいこと、面白いことを見つけてはより見開いて喜びを露わにして、逆に目がなくなるくらいに細めるときは周りを安心させる。
その目が、今は私をきつく睨みつけ脅していた。
固まる私に噛み付くように言った後、ドアが八つ当たるように勢いよく閉められ、今度はがちゃん! と鍵が掛けられる。
何にも、言えなかった。放心して立ち尽くすだけ。咄嗟に目頭がぐっと熱くなるのを堪えて、リビングに戻った。
落ち込んだ気持ちのまま、私の顔を見てくる義両親に「吐いてました」ってとりあえず報告。
「あらまあ、じゃあ今日は欠勤ねえ。美由紀さんは子どもにうつってもいけないし放っておいて大丈夫だからね。今まで一人暮らしだったんだからなんとかするでしょう」
本当に体調を崩していたことが分かっても、お義母さんの反応はあっさりしたものだった。
そっか、うつっちゃいけないと思ってくれてるからあんなに必死に追い払おうとしたのか。
自分の浅はかさに俯く。
でも、自分はずっと一緒にいてくれたじゃない。感染ることなんて一切厭わずに。それ、私や娘から貰ったんでしょう。
「俊ー? 大丈夫? 行ってくるからね、ゆっくり休みなさいねー!」
お義母さんは玄関からトイレの方角に向かって声を掛け、「……いってら」と地を這うような返事が聞こえていた。
ようやく俊介くんが姿を現したのは、はるにご飯を食べさせて洗い物も全て終わったときだった。洗濯物を洗濯機から取り出そうと廊下に出たとき、ばったりと出会す。数メートルの距離が空いた状態で俊介くんは私に片手を突き出し制止した。
「ストップ。そのままで。……さっきはごめんな。でも、ほんとすぐ治るし一日放っておいてくれていいから。一応この後からは2階のトイレ使うし、そっちは1階使って。俺、部屋にいる」
返事も聞かずに、飲み物だのなんだの要るものだけをがさがさと台所から調達して抱え、階段を登っていく。目が潤んで顔色は真っ白の、いかにも体調の悪そうな顔が目に焼き付いていた。
今思えば、朝から顔は白かったかもしれない。元々色白だし、「おはよー!」って元気に挨拶してくれるものだから分からなかったけど。でも、俊介くんなら私の不調には気付いてくれていたのに。
洗濯を干していても掃除をしていても彼のことが気にかかる。あの賑やかで高エネルギーな存在が同じ家の中にいるとは思えないくらい静かで、彼の存在感はというと時々2階のトイレと自室とを行き来する気配がするだけだった。
兄嫁と、義弟。
それってほとんど他人だ。
私達はあれほど親しくしていたのに、関わるな、って言われたらそれ以上逆らって踏み込むことなんてできない関係で。でも、私が辛いときにはいつも助けてくれたのに。私だって返したいのに。
これでいいの?それともむしろ近付く方が苛立たせて邪魔になるだけ?
自問自答の繰り返し。
寝ちゃった後なら、差し入れてもいい?
静まりかえった午後に、そっとお盆を手に取った。
『入んな!!』
その声を思い出す度に、びくりと手が止まる。
『さっきはごめんな』
その後に蘇る、申し訳なさそうに目を逸らして呟く姿。あれだけ感情がすぐ顔に出て分かりやすい人だと思っていたのに、今は何も分からなくなった。どれが彼の本心なのか、今までも全部私は読み違えていたのか。
はるとひよもお昼寝中。そっと、忍び足で階段を上る。彼の部屋はすぐそこ。鍵もなく閉ざされたドアが鋼鉄の壁のように思えて、来たものの立ち尽くした。ドアの向こうからは、何の音もしない。
もう、怒られてもいいや。よし。寝てたら差し入れだけ置いて出てきちゃおう。
ドアノブに手を掛ける。音が立たないように押し開いたそこは、まるで別の家のようだった。むっとした空気に息を飲む。最初の一歩が、なかなか踏み出せない。
そうか、「俺の部屋はいいから」って言われていて、プライバシーもあるだろうし掃除でも俊介くんの部屋には入ったことがないんだった。
引っ越しを手伝った日の、整然とアニメキャラクターのグッズが並んだ記憶にある部屋からは一変していた。入口付近まで大量に散らばるA4用紙は恐らく仕事で使う書類。教わったことを書いているんだろう、印字の周りにびっしりと手書きのメモが加えられ、どの用紙も真っ黒だ。何度も何度も見返したのか紙はよれてくたびれていて、ボールペンも床に転がっていた。
その次に落ちているのはぐしゃぐしゃの衣類。いつも姿勢の良い背中にぴしりとシャツを着込みネクタイを締めながら階段を降りてくるから、部屋がこんなことになっているなんて知らなかったの。何日分も、脱いだ後の衣類がそのまま投げ捨てられているようだった。私が畳んで渡した服も、引き出しに仕舞われることなくそのままタワーになって積まれたまま。
夕食はいつもきっちり摂っているから、夜食だろうか。カップ麺やらスナック菓子やら、食べた後のごみが散らかっていることにも驚いた。足りなかった……かな。それとも、夜遅くまで起きているから夜中にお腹が空くのは当然なのか。
足の踏み場のない床の向こうで壁に付けられているのがシングルベッド。その上で、頭まで布団を被った俊介くんらしき塊がひっそりと横たわっていた。枕元に、カバーがぐしゃぐしゃにはぎ取られ、付箋だらけで開いたまま伏せられた何冊もの育児書。
目を見開く。唇が震える。
この部屋は、俊介くんの心の中そのものだ。
悪いと思いつつ不躾に全てを見てしまってから、私は理解した。
サイドテーブルをお盆の置けるスペースだけ物を脇に退けて、細心の注意を払って音を立てないように置いた。ごそ、と布団が小さく身動いで私は硬直する。気付けば俊介くんにいつもよりもずっと近い距離まで近付いていた。すぐ、そこに彼が。
「……。入んなって、言ったでしょ」
吐息混じりの声がして、私は内心飛び上がるほど驚いた。さっきまで速く浅い寝息が聞こえていたのに。起こしてしまった。
「ごめ、」
「いいから。ありがと。なんか持ってきてくれたんでしょ。でもうつる前に出な」
今、どんな顔してる?
私が聞き分けなくて、苛立ってるのかな。でも予想してたより、ずっと穏やかな声。と、いうより弱った声。いつもの張りがなくなった声で、出来る限り私に優しく接しようとしてくれている。自分に余裕がないときにまで。
ねえ、どんな顔してるの。私はいつもあなたの優しい嘘に騙されてた?今も顔を見ても本心は分からないのかな。
そっと布団を捲れば、それはあっさりと取り除かれた。
「ちょ、」
俊介くんの慌てる声がして、くしゃくしゃに寝乱れた髪の下の目と目が合う。
「行けって言ってんじゃん。何で開けんの…」
俊介くんはひどく嫌そうにため息を吐いて、片手で目元を覆った。その直前の一瞬、潤んだ目が揺れるのを見る。
ああ、一番分かりやすい目が隠れてしまった。
真っ赤に火照った頰が苦しそうで、薄く開かれた口から吐き出される息までもが熱い。
「どんな顔してるのか、知りたくて」
「何それ……かっこ悪ぃでしょ」
ずず、と目を隠していない方の手で布団が持ち上げられようとする。
まだそうはさせないぞ。
上から押さえたら、「んん、」と俊介くんは抗議の声を漏らした。
「お白湯と、スポーツドリンクと、お薬持ってきてる。お粥は入らないかなと思ったけど、一応。ゼリーかプリンもあるから」
「うん。ありがとう」
「……私、行くからね」
「うん。ほんと、うつったらはるとひよも困るでしょ。早く出な」
ふと、あの夜の会話を思い出した。
『わたしが寝たら、……ちゃんと寝に行ってね』
『行っちゃだめなんでしょ?』
俊介くんは私の言うことが本心と異なることに気付いて、ちゃんと聞き届けてくれた。
「……行っちゃだめなんでしょ?」
そっとベッドサイドの荒れた床に膝を付く。
「…………」
「え?」
両手で顔が覆われたからなんて言ったのか聞き取れなくて、聞き返した。
「ばかぁ…何で出ていかねぇの」
聞き取れたそれは涙声で薄い肩は震えていて、私は慌てて指の隙間からこぼれ落ちた雫を拾った。
家族が壊れるって思った。俺が助けに戻らなきゃ、何とかしなきゃって。みんなを幸せにしたかったんだよ。
兄ちゃんはすごい人だった。
俺が生まれた時から兄ちゃんは兄ちゃんで。優しくて何でも譲ってくれたし、真面目で成績も良かったから父ちゃん母ちゃんにも期待されてた。本当に尊敬できる人で、俺はいつだって全力で甘えてた。
そんな兄ちゃんがお嫁さんを見つけてきて幸せになってくれたことが俺は心から嬉しかったし、姪っ子たちだって目に入れても痛くないほど可愛くて仕方なかった。
何でもしてやりてえ、ってこういうことかと思う。うわー、何でも買い与える駄目な叔父になりそう、って兄ちゃんに言われたけど、無論そのつもりだった。
こんな素敵な家庭を俺だって築くんだって思って、でも今はアニメ関係の自分の勤める会社で成果を上げることに集中したいからもう少し後でいいかななんて思っていたのに。
一家の柱だった、兄ちゃんが帰らぬ人になった。
「俺、家族が壊れちゃうって思って」
ああ何言ってんだ俺。背負いすぎてくたくたのお嫁さんに向かって。やめろ。
そう思うのに、ずっと押し込めていた本音は涙と共に零れ出したら止まらなかった。
「お嫁さんなんか特に、自分のせいだなんて思ったら俺だったらどんなに辛いだろうって」
情けない。声が涙でがたがたに震える。
床に頭を擦り付けて謝るあの姿が、目に焼き付いて離れなかった。
辛いよね。兄ちゃんのこと好きだったんだもんね。俺と同じか、それ以上に。お嫁さんあんまり泣かないけど、どんなにか辛いだろう。
現に車で危ない目に遭った時、追加で買い出しに行く時、折に触れてその悲しみは表に現れて、俺はその傷の深さを目の当たりにした。
「だからみんなの力になろうと思ったのに」
俺が兄ちゃんの代わりにならなきゃ。みんなが元通りの幸せな家族になるように。そのためなら、何だってする。
仕事を辞めて、住み慣れた部屋を引き払った。
兄ちゃんは本当に凄い人だから、俺の全部を懸けた。
お礼とか謝罪とか、言われることじゃないんだ。それが俺のやりたいことで、俺の勝手なんだから。
「でも、俺じゃ駄目だった! 兄ちゃんじゃなきゃ……!!」
ぼろぼろと悔し涙が止まらなくて、嗚咽が漏れる。顔を覆おうが肩が跳ねるからばればれなのが最低だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます