風邪
第11話
子どもというのは本当によく体調を崩す生き物で。免疫が出来上がってないんだから当然なんだけど。
とはいえ毎度しんどそうで死んじゃうんじゃないかと肝を冷やすので、そう簡単に割りきれるものじゃない。
今回も昨日からひよが吐き下して熱を出していて、私は目を離すことができないでいた。
「おはよう」
朝方ようやく寝付いたひよを横目に見ながら、みんなの朝ごはんの支度。……をしつつ挨拶をした私の手から、俊介くんが包丁を取っていく。
「えっ、あの……」
「おはよー。ひよ調子悪いんだって? 俺、有給取ったから。お嫁さんちょっとゆっくりしてていいよ」
「ええ?! あの、そんな、いつものことだし大丈夫だよ?」
「昨日の夜からなんでしょ? 目の下、隈できてる。ごめんね俺昨日知らなくて」
ざくざくとお漬物を刻みながら、俊介くんは「でも言ってくれればよかったのに」と口を尖らせた。
彼は昨日残業で夜遅かったので私と娘たちは先に部屋で布団に入っていて、夜に顔を合わせることがなかったのだ。
はるとひよを問題なく寝かしつけたら、遅くまでアニメ鑑賞に勤しむ俊介くんのいるリビングに戻る日もあるけど、昨日はひよの看病でそうはいかなかった。
他の家事も滞っちゃうかもな、と朝になって顔を合わせたお義母さんに伝えたところ、あっという間に俊介くんに伝わって彼が休むところとなったらしい。
「ほ、本当に休んだの? 丸一日?」
昨日10時を回るまで残業していたくらい忙しいはずなのに。
慣れない会社に一から下っ端として入ったものだから、人と同じ作業をこなすのに時間が掛かるんだってあっけらかんと笑っていたけれど。
圭介さんは子どもの看病で休むことはなかったので、私はとにかく予想外のことに驚いていた。だって私は主婦だし、私がやればいいだけのことだ。
「そうだけど? そんなすぐ治んないっしょ?」
「だってお仕事が溜まっちゃうんじゃないの」
「そんなん家の方が大事だもん。俺が帰ってきた意味ねーじゃん。お嫁さんだって不安でしょ?」
俊介くんがにっこり笑って、私は初めて気付いた。体調を崩した子どもを一人で見るのに不安を抱えていたことに。
結局人に任せて休む気にはなれなくて一緒に台所に立ってしまったけれど、気分も仕事量もすごく軽くなった。
はるにごはんを食べさせる間に、俊介くんがひよのおむつを替えたりしてくれる。
「うあー可哀想……代わってやりてぇわぁ」
「私もいっつもそう思う」
そう言い合える相手がいるだけで違う。
もう飲めるかと思ってミルクを飲ませていたらやっぱり駄目で、盛大に吐き戻されて私の服もどろどろになったり。
そんなときも「わあわあ」と苦笑した俊介くんがぐったり泣いているひよをひょーいと引き取ってくれて、「ひよ綺麗にしとくからシャワー浴びてきなー」と言ってくれるので助かった。
これが私一人ならひよを拭いて着替えさせるまで自分はべたべたのままだ。その間にもはるの相手をしなきゃいけないし。
「ありがとありがと」
と慌てて戻ったら、俊介くんは既に二人を寝かしつけた後で「しぃ」と微笑む。
隣りで寝転びながら、とーん、とーんと男らしい掌が優しくひよのお腹を撫でていた。
「寝たから、お嫁さんもちょっとお昼寝してきな。徹夜でしょ」
「でも、」
さっと台所に視線を遣る。昨日の夜から何もできてなかったから、洗い物とかの家事が溜まっている。晩ごはんの支度もしなきゃいけないし。眠たいけど、子どもたちが寝たならその間にやること済ませないと。
俊介くんは私の視線だけで言おうとしたことを察し、先回りして防いだ。
「片付けなら俺やっとくから。ごはんなんて出前頼みゃいーの。お嫁さんが来る前なんてうちは毎食外食だったんだから。父ちゃんも母ちゃんも誰一人気にしないよ」
起き上がった俊介くんが、さっきまで子どもを撫でていた手で私のひっつめた髪をぐしゃぐしゃ、と掻き回す。
それを抑えながら、「ありがとう」と呟いた。俊介くんはにひひー、と笑う。
変なの。同い年なのに、時々すごくお兄さんに見えるときがある。一人っ子と弟がいる人との違いだろうか。
圭介さんには私も時々「お願い」って言ったりして甘えていたことを思い出した。
2階で横になってふと気付く。一人で眠るのなんていつぶりだろう。いつもいつも、子どもたちが寝ているか、ちゃんと息をしているかばかり気になって、ひよにはミルクもあげなきゃいけないし熟睡することなんてなくて。
今もひよ達の横で仮眠だってできるけど、わざわざ俊介くんに別の部屋へ行くよう促されたのは、完全にあっちのことは気にせず休んでいいという気遣いだったのだと知った。
ふかふかの布団に潜り込んだらすとんと瞼が落ちてきて、目覚ましを掛ける間もなく眠りに就いてしまう。
「ごめん寝過ぎた!!」
起きて窓の外を見たらすっかり暗くなっていて、ばたばたと階段を駆け降りる。
「よく寝られた?」
俊介くんはにこにこと笑うだけではるとひよにごはんを食べさせていて、全身から力が抜けた。
「うん、ありがとう。あれ、はるアイス食べてるの」
「そうなの。ひよは元気そうになったんだけどね、はるが熱出てきちゃった。食欲ないけどアイスだけ食べられそうなんだって」
俊介くんは「冷たくておいしいもんねー」と柔らかく笑いながらはるの汗ばんだ髪を梳いた。
反対の手では哺乳瓶を持って器用にひよにミルクを飲ませている。確かに、飲みっぷりを見る限りひよは大丈夫そう。
「ごめんね、一人で大変だったでしょう」
「ううん、いいんだけど、……いや、そうだな。お嫁さんこれいっつも大変だったねえ。苦しそうで可哀想だし、病院行くべきか行かないべきかでどきどきするし」
最初はからっと否定しかけた俊介くんが苦笑する。
「『お嫁さーーん!! これどうする!!』って何回か起こしに行きかけたもん。元気だと思ってたはるまで熱出すから心配したあ」
けらけらと冗談めかしながら、ふにゃあと疲れを滲ませて笑った。
「ほんとごめんね、寝過ぎた。叩き起こしてくれてよかったのに」
「いや全然。この状況でお嫁さんはいつも頑張ってるんだよなあと思って」
代わるよ、とひよを抱っこしてとんとんと背中を叩く。
アイスを半分以上残したはるが、「おかあさぁん……」と弱々しい声で鳴いた。
「あのね、ひよちゃんつらいからあとででいいの。はるもね、じゅうだけだっこして……」
「わああはるちゃぁぁん」
赤い顔していじらしいことを言うのがあんまり可哀想で、膝を着いて二人まとめて抱きしめる。
俊介くんがすかさず「ひよおいでー!」とひよだけ引っこ抜いていった。
「はるおいで、だっこしよ」
「うん……。いーーち、にーーぃ、」
「いいよいいよ、今日は数えなくていいよ」
とんとんとんとん、と熱い背中をいっぱい撫でてあげる。
ちょうどひよが泣いている時に構ってほしがったらいつも待たせたり「10秒だけね」って抱っこして満足してもらったりしているもんね。数え癖が付いている。
お姉ちゃんにはいつもたくさん我慢させて助けてもらっていた。
「だってひよちゃん泣いてるぅぅ」
突然母から離されたひよは元気に泣いていた。
「はっはっは、おいたんで我慢してくれー」と泣いて暴れられようがめげずにげらげら笑っている俊介くんの声がしている。
「いいのいいの多少泣かせといて。はるも大事だよ」
結局泣いているひよが気になって10秒くらいで自ら離れたはるはそれでも満足そうで、そういうところも俊介くんがいてくれて助かったなあと思った。
それはある朝突然始まった。
「おとうさんは?」
今まで口に出さなかったはるが急に言い出したのだ。
「おかあさん、はるのおとうさんは?」
「はるのお父さんはね、お星さまになったんだよ」
「どうして? はるがわるいこだから?」
「ううん、違うの。車に轢かれたからだよ。事故なの。はるが悪い子だからじゃないよ。お父さんははるのこと大好きだから絶対帰ってきたいって思ってたよ」
「じゃあどうしてぇ……? はるおとうさんにあいたい! はやくかえってきて!!」
ほとほと困った。
こうやって包み隠さず伝えてはいるのだけど、どうしてももう帰らぬ人になったのだと理解するには幼すぎる。
なんでまた急に言い出したんだ、と思ったけれど、そういえば昨日届いたしまじろうにお父さんが登場していただろうか。最近見てないな、と思い出したのかもしれない。
「はるにもおとうさん、いるよねぇ? おとうさんにあいたいぃ……」
「あのね、お花さんは枯れちゃったら元に戻らないでしょう。それと一緒なの。お父さんも戻ってこられないんだよ。はるちゃん『ばいばい』って寝てるお父さんにしてお骨も拾ったでしょう」
「お骨はおとうさんじゃないもん……おとうさんどこにいるの? はるあいにいくぅ!」
「だめ! はるは長生きするの! お父さんには会えないの!」
三人分のお弁当を詰め終え、屈み込んで懇々と言い聞かせる。
はるはぶわああ、と目に涙を浮かべたかと思うと、そのまま火がついたように泣き出してしまった。
あーあ……私の馬鹿。深々とため息をつく。
むきになってどうするんだ。お父さんに会いたいだなんて、当然に決まってるのに。私だって会いたいよ。
「がっかりしてめそめそしてどうしたんだーーい!」
ずだだだだ、と階段を滑り落ちるような音がして俊介くんがけたたましくリビングに現れた。落ちるぞ、本当に。
支度をしていた俊介くんはネクタイをしゅるしゅると結びながらびーびー泣いている娘と困って仁王立ちしている私を見比べる。
「転んだ?」
「ううん」
私の返事を聞きながら上着のボタンも留め終わったら「なあにい」と笑ってはるの前にしゃがみ込んだ。
「どしたのはるちゃん」
「おとうさんにあいたい」
「んー……お父さん遠い遠いところに行っちゃったからねえ。それは難しいなあ。おいたんじゃだめか! おいではる、抱っこしよ!」
「いやない!! おいたんじゃなくておとうさんがいいの!! だっこいや! しない!」
はるに伸ばしかけていた手が、一瞬止まる。
かと思ったら、その手はあっという間に地団駄を踏むはるの脇に滑り込んだ。
「いやいや言ってもおいたんははるが好きー! おいたんで許して!」
「いやあやあやあ!」
はるが暴れようがお構いなしに頬擦りをかまして、にこにことその笑みは崩れない。
うーん、あそこまでびちびち跳ねられても落とさない腕力は凄い。私にはできない芸当だ。
「んじゃ、いってくるねん」
「あ、はい、いってらっしゃい! はるも『いってらっしゃい』は?」
「やあなのー!」
「あっは! ほらいってきますのちゅー!」
俊介くんははるのほっぺにぶちゅうとキスをして、ぐいー、と顔面を押し退けられていた。
「ごめんね、俊介くん」
「うんにゃ、ぜーんぜん!」
ひらひらと爽やかにスーツの裾を翻して出て行く背中を見送る。
本当に、良くしてくれているのに。そんな大人の事情は子どもには分かる由もないことだ。
「はーる。飴ちゃんあげよっか」
「うん……」
さっきより柔らかい声が出せた。飴を一粒取り出したら、大暴れだった怪獣は近づいてきてぱくんと頬張る。
途端に涙は引っ込んで口元が緩むから、可愛いね。こっそり笑いながら汗ばんだ髪を撫でた。
「ね、お洗濯手伝ってくれる? その後はおにぎり持って公園行こっか」
「うん」
ああこれでなんとかなったな、とその日は思っていたのに。
一難去って、また一難。お父さんコールが落ち着いたかと思ったら、翌朝には今度は「おいたん行っちゃやだ」と来た。
参るね。子ども心はころころと移ろい行く。
「おいたん行っちゃやなのーーー!! はるといっしょにいるの!!」
「うおおお、えええ?! 行っちゃやなの? そりゃおいたんもはるといたいけどさあ」
「おいたんもかえってこなくなったらやだあああ! はるとひよちゃんとおかあさんを、おいていかないで!」
「……置いて行かないよ。昨日もちゃんと帰ってきたでしょう。絶対帰ってくるから」
てっきりいつも通りにふざけて返すものだと思っていたのに、俊介くんはひどく真剣に説いた。
「かえってこなかったらどうするの……? おとうさんはかえってこないよ……」
はるが目を擦りながら呟く。
帰って、こなかったら?
息ができなくなるような心地がした。目の前が、暗くなるような、
「ぜってぇ死なねえわ。1億%帰ってくる」
俊介くんが膝をつきはるを抱きしめて、でも子どもに対するようなものじゃない口の利き方をする。
ふっと酸素が足りた。
「円グラフ何周する気よ」
「アハハハ! いってきます」
俊介くんからはるをなんとか引っぺがして私が捕まえている間に、彼はひょうきんな動きで玄関をぴしゃ! と急ぎ閉めて出て行った。
ぶあああ、と泣くはるをはいはいはい、と慰める。そのうち泣き止むだろう。
「……随分早起きだねえ」
「んはは、お嫁さんこそ毎朝じゃん」
更に翌朝、台所に彼が現れた時間に目を丸くする。
「私は明け方ひよにミルクあげてそのままみんなのお弁当と朝ごはん作ってるからだけど……俊介くんはどうしたの」
「昨日みたいに、出る時にはるが泣いちゃ可哀想だなーと思って。なるべく宥めてから出られるように時間に余裕持たせてんの」
「えっ、本当。ごめんね、ありがとう」
「いいよぉ。泣いて縋られるなんて超嬉しいじゃん」
俊介くんは冷蔵庫から牛乳パックを取り出してこっこっこ、と喉を鳴らして飲んだ。
「あーっ、ラッパ飲み」
「うぇ、しまった。はる見てないから見逃して!」
「もー……」
顔の前で手を合わせて私を拝む姿にくすくす笑ってしまう。昨日も夜遅かったみたいなのに、朝から元気だなあ。
案の定、はるは今朝も大泣き。俊介くんは「ね、帰ってきたら何して遊ぼっか?」なんて長々ご機嫌取りをしてくれている。
結局それでも膝にしがみ付かれたまま離してもらえず、俊介くんは「よいしょー、よいしょー!」とそのままはるを足で持ち上げて玄関まで無理矢理向かっていた。その力技にはるは思わず「うへへへ」とその瞬間だけ笑ってしまっている。
「ごめんお嫁さんパス!」
「はいはい、いってらっしゃい! 気をつけて!」
「はーい! いってきます!」
お義父さんとお義母さんも先に出ちゃったし、遅刻ぎりぎりだったかなあ。作戦は失敗だ。明日もだったらどうしようかな、なんていろいろ物で釣る作戦を考える。
けれど、その作戦は決行されなかった。
「おはよー。あれ、はるは」
「微熱。まだ寝てる」
「あらそう……病院行く? 俺休もうか」
「いい、いい…! こんなのしょっちゅうだもん、大丈夫だよ」
「ほんとに? ……やっぱり休むよ」
俊介くんは私の顔をしばし覗き込んで、ころっと意見を変えた。そんなに不安そうにしていただろうか。自分の顔を押さえる。
駄目だ、あの目に何でも見透かされてる。もっともっと、しっかりしなきゃ。一人でも平気にならなきゃ駄目なのに。
「ああ……っ」
余計なことを考えていたら、卵焼きを焦がした。その声にもまた俊介くんが飛んできて、情けないったらありゃしない。火傷じゃないよ、と心配を掛けたことを謝った。
もう、来年の春なんて来ないんじゃないか。そんなことを思う。
後から考えてみれば馬鹿げていたとしても、その渦中にいる時は容易に絶望するものだ。
はるの体調が良くなったらひよが熱を出して、ひよが元気になったらはるが戻して。姉妹で風邪をうつし合って、もう3周目になる。
1回1回はそれほど重篤じゃなくて本人達は治ればけろっとしているのだけど、またすぐにお互いから貰うのだ。
どうなっているんだ今年の冬は。
風邪ラッシュが終わらない。
「ふぇ、えええ……」
はるの嘔吐が治まってようやくうとうとしていたら、ひよの泣き声がしてばちっと目を覚ます。
ああ、まただ。
どうにかもう一回寝てくれー、とお腹をとんとんするけれど、泣き方はヒートアップしていく一方で諦めた方が良さそう。
重い体を起こして抱き上げ、開かない目でうつらうつらしながら背中を摩る。良く寝る子だったのに。何がスイッチなのかはとんと分からない。ここのところ体調の悪い日が多かったせいなのか、ひよは夜泣きをするようになっていた。
やっと寝られたはるが起きちゃうからね、寝てあげてーと心の中で必死にお願いしながらゆらゆらとあやす。それでも泣き止む気配がなくて、はるが「うぅ、」と唸って寝返りを打ったのでそーっと部屋を出た。
廊下は泣き声が響く。年の瀬はどの企業も忙しい。うちも例外ではなくて、みんな遅くまで働いていたのを知っているので、起こさないよう慌てて胸に抱えながら階段を降りた。
「ひよちゃん、寝ようよー」
真っ暗なリビングで毛布に包まり、わあわあ泣いているひよをひたすら小声であやす。お腹が空いている訳じゃない、おむつが汚れている訳でもない。もう打つ手はなくて、時々忍び足ではるの様子も見に行く以外はずっとリビングでうとうとしては泣き出すひよを抱いていた。
ちゅんちゅんちゅん、と雀が鳴いて、カタン、と新聞の届く音。
ああ…起きなきゃ、朝だ。
明け方になってようやくすうすうと寝息を立て始めたひよを置く。抱いたまま私も寝落ちしていたから腕が痺れている。
ひよは完全に昼夜逆転しているけど今起こす気にはなれなくて、この隙に、と朝ごはんの用意を始めた。
「おっはよーお嫁さん! はるは? 昨日寝られてた?」
悪化したら夜でも車出すから起こしてね、なんて言ってくれていた俊介くんが起きてくる。
「おはよ。はるはあの後よく寝てたよ」
コンロから振り向いたら俊介くんが目を丸くした。
「……お嫁さんは寝られなかった? 顔、真っ白」
ごめんね、と続く。
「俺、代わるよ。お嫁さんゆっくりしな」
「いいよ! 大丈夫! お仕事忙しい時期でしょ。私はお昼寝するから大丈夫だよ」
「……仕事中でも、電話掛けてくれていいから」
俊介くんは最後まで案じる色を隠さず、後ろ髪を引かれるようにして出て行く。それをにこにこと笑顔で手を振り見送った。
引き戸が閉まり、ふうと息を吐く。
頻繁に私を助けてくれていた俊介くんは転職したばかりで、当然有給も春から働いていた社員の半分程しかない。数えればとっくに底を尽きているのは知っていた。それでも私が言えば平気で看病休暇なんてもぎ取ってくるんだろうけど、うちの子のためにそこまでさせる訳にはいかない。
もっともっと一人で頑張ってるお母さん達だってたくさんいるんだ。私は充分甘えさせてもらってる。
いつもはお喋りなはるがダウンしていると家の中は静かで、ぼーっとしながら家事を済ませた。普段はあれやこれやと手伝わせたり笑わせたりしながら大騒ぎでやるもんなあ。少し寂しい。今の家とは大違いのワンルームで、一人暮らしをしていた頃を思い出す。
早く良くなっておくれー、と願いながらの看病も虚しく、はるは昼に1回、夕方に1回、と盛大に吐き戻した。洗面器も置いてあるけど小さな子にはその中に間に合わせるなんていうのは難しくて、毎度はる自身も服も床も最大限に汚れる。
おろおろする内心をひた隠しにしながら落ち着くまで背中を撫でてやって、軽くシャワーに入れて着替えさせて、布団もシーツを全部替えてからその上に寝かせて、そこからようやく床の掃除。
これもこの冬何回目だ、なんて思いながらゴミ袋と雑巾を携えて処理をしていたら、突然吐き気がこみ上げて今掃除したばかりの床にびたびたと液体が叩きつけられた。
「は……っ、はっ、」
ああ、せっかく、綺麗にしたのに。
なんてがっかりしている暇もない。第2波、3波、と強い吐き気に体が勝手に揺れて、惨状を後に口元を押さえながらトイレに向かう。
おえ、と喉が鳴るのを堪えることなんて不可能で、廊下があまりにも長い。これははるも我慢なんて無理だわ、なんて思いながらようやくたどり着いた便器に情けなくしがみ付いた。
完全に貰った。気を付けてたのに。全然トイレから出られなくて、焦りが募る。
どうしよう、もしも今はるの体調が悪くなってたら。
それに、廊下もめちゃくちゃだし。
……電話。
思い立っても電話はリビングで、なんとか吐くのを止めようと無駄に足掻くことしかできない。
何度でも吐き気が込み上げてどうすることもできないまま、トイレで玄関が開く音を聞いた。
「ただいまー!! ……あれっ?」
どうしようどうしようどうしよう。
ばたばたと3人が上がってくる気配がして、家の中から誰の返事もなくて困惑する声が響く。当然そのまま廊下の惨状が見つかって、驚く声が胸に刺さって、そして風と共に背後のドアが開いた。鍵なんて掛けていなかった。
「いた……っ」
振り返れない。俊介くんだ。
声には安堵が滲んでいて、まずは姿が見えないことで心配を掛けたことに気付く。それでも私はというと声も出せずにおえ……っとまた胃液が溢れて、背中にそっと掌が触れた。その温かさにびくりと震える。
「ごめんね、しんどかったね。いつからここにいんの」
掌は何度も私の背を往復した。反対の手が水洗レバーを流してくれて、それを見ながら私はまだ吐き戻す。俊介くんの声は顔が見えなくてもひどく哀しそうで、はるやひよが体調を崩しているのを見て「代わってやりたい」って言うときと同じ調子だった。
「今、何時……っ」
「5時半。今朝お嫁さん辛そうだったからみんなで定時で切り上げて帰ってきたんだけど、遅かった」
声に悔しさが乗る。私の背を撫でる手と反対側、壁に突かれている拳が握られているのが視界の端に見えた。
遅くなんてない。この家の人は私達親子のために、本当に良くしてくれている。
「じゃあ、1時間、くらい」
「1時間?!」
声が裏返っているのを聞きながら、げほげほと喉に残った物を咳いて立ち上がった。長く床に座りすぎて膝が痛い。ふら、とトイレを出て洗面所に向かう私に俊介くんは付いてくる。
何度か口を濯いで酸い不快感を洗い流していたけれど、不意にまた逆流して洗面台にぶち撒けてしまった。途端に俊介くんは「ああ、ああ」と宥めるように私の背を撫でる。
「ごめ……っ」
「大丈夫大丈夫。謝る必要ないでしょ? まだ気持ち悪かったね。焦んなくていいから」
「はると、ひよが……っ」
「うん、大丈夫だから。二人とも寝てるよ。母ちゃんが見てくれてるから安心して。俺ら三人を育てた経験者だから大丈夫だよ。俺は小っちゃい頃体弱かったし」
それは意外だ。元気の塊みたいな人なのに。
健康が取り柄だったけど今はそれすら失った私は、不甲斐なくトイレに戻る。
「今はこの家でお嫁さんが1番重症。自分のことだけ考えな」
熱あるよ、気付いてる? とそっと触れた指先が吐き気に俯く私の首筋をなぞり、汗で貼りついた髪を剥がした。
飽きもせず不快に跳ねる体にうんざりしつつまた口から汚泥を零したとき、ぱたぱた、と目からも雫が滴り落ちる。それまでずっと背中を摩っていた手が、「よしよし」と頭を撫でた。
やめて。止まらなくなるから。
私が子どもにするのと同じように頭と背中を交互に撫でられ、水滴が波紋を作るのを揺らいだ視界で眺めていた。
「落ち着いた?」
「ん……」
ようやく一旦治まる頃には疲れ果てていてぐったりと壁にもたれ掛かる。
「寝よ。俺2階までおんぶして連れて行ってあげようか」
「いい……」
「あはは。遠慮しなくていいのに」
俊介くんに促されてそのまま階段を登った。それ以外の行動は許さないとばかりに緩やかに追い立てるように付いて来られている。
「床の掃除、」なんて言おうものなら「父ちゃんがやってる」と間髪入れずに返された。泣きそうになっても「もう! そんなのいいのー!!」と髪をかき回されるだけ。乱暴と優しさが共存する手つきがあるなんて初めて知った。
冗談か本気か私を背負おうとしていた俊介くんは私の後ろで慎重に階段を登っていて、私が落ちようものなら身を挺して受け止めそう。
そんな想像をしてしまうくらいには視界は酩酊状態。追い抜かれて敷いてもらった布団に吸い込まれるように倒れ伏した。俊介くんはそんな私に嫌な顔一つせず、
「いろいろ取ってくるから待っててね」
とどろりと甘やかす。彼の想い人になる人はどれほど幸せだろう、と熱に浮かされ取り留めのない思考が浮かんだ。
僅かな時間だろうに、うと、と眠り込んでいたら額が冷やされて目を開ける。
「気持ちいい?」
「うん」
正直に頷いたら、俊介くんは道端で微睡む猫を見るように目を細めた。繰り返し私の頭を撫でる掌が前髪を分ける。額を冷やしていたのは絞った濡れタオルだったようで、温くなると取られていった。
「飲み物置いとくからね。……でね、お嫁さん。はるが使ってるから冷えてる氷枕なくて。冷えピタももうないし、買ってこようかと思うんだけ、ど……」
俊介くんの語尾が戸惑いに揺れる。
そりゃそうだ。こんな、小さな子に言い聞かせるみたいに丁寧に説明してくれたのに、私が彼のシャツを掴んだから。強く握り過ぎて、私の持った部分の裾だけがスーツのパンツから引き出される。
「だめ……っ。行かないでっ。何にも、いらない、から……!」
ぼろぼろと止められない涙があふれ出た。
『パン粉買ってきてもらっていいかな』
『いいよ全然』
頭の中で、あの日の会話が木霊していた。温かな手が頰に触れて、止めどなくあふれる涙を拭っていく。
かたん。
見えない天秤の傾く音がした。俊介くんのそれはきっと毎度あまりにも勢いよく傾いて、選ばれなかった方のお皿に乗っていたものなんて遥か彼方に転がっていく。
「分かった、行かないから。大丈夫だよ、お嫁さん。俺ここにいるから。ね? 泣かないで。行かないからさ」
私から零れる滴でしとどに手を濡らしながら俊介くんはすぐにそう言って、繰り返し聞かせた。
一緒に住み始めて少しずつ気付いてきたことがある。彼はゼロか百かの人。唐突過ぎて他人には付いて行けない思考回路はいつだって極端なオールオアナッシング。いつだって自分の前の選択肢の一方を迷わず選んで、他方は見ないようにして突き進んでいく。
今、俊介くんは「私の看病をするために買い出しに行く」ことと「私の望む通り傍にいる」こととを天秤に掛けて、後者を選び取った。私の愚かな恐怖なんてものを拭い去って、弱った心を守るためだけに行動することを迷わなかった。
はちみつよりも甘い人。なみだが止まらなくなるほどに。
「もう、誰も死なないで。お願い。行かないで……」
「うん、ごめんね。行かないよ。だから安心しておやすみ。全部全部、何にも心配しなくていいから。起きたら今よりずっと楽になってるよ。お嫁さん、自分で思ってるより疲れてるからいろいろ悪いことばっか考えちゃうんだよ」
頰を拭っていた掌が上がってきて、私の視界を覆う。大人しく目を閉じたら、「いい子いい子」と聞こえて頭を撫でられた後、掌が今度はお腹に掛かる布団の上に移動した。とん、とん、と規則正しく上下させる動きに、瞼を閉じたままくすくすと笑う。
「なぁに。どうしたの」
「はるやひよを寝かしつけてくれているときの動きと、一緒だなあと思って」
「うわっ……確かに。無意識にやってたわ。完全に癖になってんな。ごめん、やだった?」
「ううん、すき……」
うわ言のように呟いた後、「そっか」の声と共にお腹を叩く動きが再開されたのを感じながら、深い眠りに入っていく。
まるで私を喜ばせるためだけに存在しているみたいに、彼はいつだって声でも掌でも私を隈なく撫でて包む。
そんな考えはあまりにも傲慢と知りながら、今日だけ、今だけなら縋ってもいいだろうか、と自分でも自分を甘やかした。反面、一人でも大丈夫なくらいしっかりしなきゃいけないのに、と思うとやっぱり悔しくて情けなくて、目尻からは最後の涙が一筋流れていった。
はっと目を覚ます。時計は深夜2時を指していた。そして、目が覚めた理由に気付く。ひよの泣き声がする。
「……起きちゃったの。寝てていーよ」
足元から穏やかな声がして、びっくりして目を遣った。誰もいないと思っていたのに。
「でも行かないと、ひよが」
「今日は父ちゃんと母ちゃんが下にいるから大丈夫。体調悪いときくらい任せて、って喜んでたよ」
俊介くんが座布団から立ち上がり、私の頭を撫でる。そのままとん、と押され、軽い力にも抗えず私は布団に逆戻りした。額の手拭いが取られて、氷と水の音がした後また冷えたものが乗せられる。私が、買い出し行かないでって言ったから。ずっとそうやって交換してくれていたんだ。手を振って水気を切る俊介くんの指先はいつも以上に鮮やかなピンク色で、胸が痛んだ。
「ごめん、手冷たいね」
「へ? ああ。いいよこんなん。すぐあったまる。朝まで寝ちゃいな。そんなんでひよ寝かしつけに行ったらまた悪化して吐いちゃうよ」
あっかい顔して、と俊介くんが苦しげな笑みを浮かべ、今見ていた指の背が私の頬を撫で上げる。
「俺の指なんて気になるならちょっとその熱ちょーだい」
ひやりとした冷たさに首を竦める。んふ、と俊介くんが含み笑いを漏らした。
「俊介くんは、寝ないの」
重い目蓋を持ち上げて見上げたら、ひょいと手拭いを額から目の真上にずり下げられて視界を覆われる。
「俺が夜更かしなのはいつもでしょ」
顔を見せてくれないのに、声が悪戯げに笑っていた。
「わたしが寝たら、……ちゃんと寝に行ってね」
「行っちゃだめなんでしょ?」
俊介くんは私の言うことなんて聞いていないみたいな食い違った返事をした。違う、本当は誰よりも聞いてる。私の言っていないところまで。
柔らかな長い吐息の気配がして、お腹の横のところの布団に腰掛けられる気配がした。ため息なのに私を責める音は一つもなくて、彼の吐いた呆れた調子の息に心地よく包み込まれる。
「そんなに自分に厳しくなくていいんだよ。甘やかしていい。お嫁さんができないなら、俺がするからさ」
俊介くんが喋る度に布団に響いた。
「幸せになってよ……お嫁さん」
そう囁かれるなんて、それこそこんなにも幸せなことがあるか、と自分の恵まれた境遇に感謝したのに、返事をする前に瞼は落ちていった。
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