日曜日

第10話

お義父さん、お義母さんは私に、「家に残っても、出ても好きにしていいからね」と伝えてくれた。

圭介さんを亡くして私と藤間家の繋がりは失くしてしまった訳で、義実家だと居心地が悪いようなら出てもいいからと。でも、私が残りたいと思うのなら歓迎するしこれからも子育てを支えていくから、私の過ごしやすいように本当に好きなように選んでいいと、私が気まずい思いをしないように一生懸命に言葉を重ねてくれた。

本当に優しい方々で、頭が上がらない。


そもそも私は既に両親を亡くしてその他に交流のある親戚もいない天涯孤独の身で、この家を出ても子ども二人を連れて帰る実家なんてものはなかった。藤間家の会社はそんな私を高卒で雇ってくれた恩のあるところ。

ずっと一人きりで暮らしてがむしゃらに働いていた私を圭介さんがたまたま目に留めて、私にとって初めてのこんな温かい家庭に迎え入れてくれた。だから嫁入りするときに、私は既に藤間家の人間になったつもりでいたのだ。

「こんな私でもここにいていいのなら、これからもよろしくお願いします」と頭を下げ、私は自分が大事な人を奪った家に居座った。「もちろん。頭を上げて」と優しく肩を叩かれながら。


「朝だぞーーーー!!!!」


家中に大音声が響き渡る。

圭介さんが亡くなってからの大きな変化はもう一つあった。俊介くんが実家に帰ってきて一緒に住むようになったのだ。藤間家は静かになるどころか2倍は賑やかになった。


「やーーーー! おきない! おきがえもしないの!」

「一日パジャマは恥ずかしいって言ってるでしょ! お洋服着替えなさい!」

「やなのーー!」


はるを起こすのに大苦戦して全然2階から降りてこない私を待ちかねて、俊介くんは見に来てくれたらしい。ぱんっぱんに頬を膨らませて眉間に皺を寄せたはるを見るなり、ぶっと吹き出していた。


「不機嫌な怪獣がいる」


その言い草に、苛立っていた私の心も凪いでいく。


「どうしたあ。起きないの」

「おきない!」

「えー? ホットケーキ焼いてるのに?」


俊介くんが目をまん丸にして大袈裟に驚いた。えっ、とはるも目を見開く。


「ほっとけーち?!」

「そー。ホットケーキ。食べたい人ー?」

「はいはいはーーーい!」

「じゃあ着替えてくださーい。一等賞は誰だ?」

「はる!!」


さっきまであれだけ抵抗していた着替えに猛然と突進していくはるを呆けて見遣る。俊介くんが私にウィンクして階段を降りていって、気障な仕草に吹き出した。


「おわー!! 焦げてる!」


はるを追いかけ階段を降りていけば俊介くんの焦った声がしていてますます笑う。

ホットケーキを火に掛けたまま見にきていたのか。周囲に笑顔を絶やさない人だ。


「できたー? できたー?」


はるは慌てている俊介くんの足元でお構いなしにぴょんぴょん。


「……むぅ。ちと焦げましたお姫さま。許してくれる?」


お皿に移した不格好なホットケーキを見せる。それでもはるの顔は輝いた。


「ほっとけーきだあ!」


早速テーブルに運んで、ぐわっと掴んだメープルシロップを危なっかしく掛け始めている。


「こら、いただきますとじぃじばぁばにおはようは?」

「おはよー! じぃじばぁばおはよー!」

「おはようはる」


お義父さんお義母さんは既に朝ごはんを食べ終わって穏やかに新聞や広告を眺める時間。フォークを持ったまま反対の手で鷲掴んで食べているはるを温かく見守ってくれた。

ほ、と息を吐いて俊介くんを振り返る。


「ありがとう俊介くん」

「ん? 全然。俺も食べたかったもん」


お礼を言うと何でもないことのように照れ臭そうに誤魔化すんだ。温かい人。


「お嫁さんも食べる?」

「あ、うん。いいよ、焼くの代わるから座ってきて?」

「いいのー、俺が焼くのー。さっき焦げたリベンジすんだから」

「ふふ、じゃあお願いします」

「任せろ! ほっぺた落ちるようなの焼いてやんよ!」

「あはは」


おかしいな。たくさん笑う日が増えた気がする。

先日、短すぎる忌引休暇が明けた後、俊介くんはぽつりと「俺、帰ってくるわ」と告げて一旦会社に戻ったのだった。

彼の中ではいっぱい考えた末の結論だったのかもしれないけど、あまりに唐突で。「え、え?! 帰ってくるって、遊びにくるんじゃなくて住むってこと? 仕事は?」とお義母さんも驚愕。


『兄ちゃんいなくなったから、俺が戻る。父ちゃんの会社のことは何も分かんないし、もっと優秀な別の人に継いでもらって全然良いよ。でも、俺が戻りたいから家に戻る』


俊介くんは、まっすぐな目でもう決めたとばかりに簡潔に言うだけだった。

俊介くんが大切に自分で並べたアニメグッズ以外には大した荷物もない引っ越し作業を少し手伝った後、一度だけ尋ねたことがある「今の会社でやりたいこととかあったんじゃなかったの?」って。


『兄ちゃんのことがあって、俺が本当に大事にして守りたいのは家族だなって思ったからいいの』


と俊介くんは笑うだけで、優れた行動力の真意は計り知れないままだった。





今日はいいお天気。

はるが一日中家の中にいるとエネルギーを持て余すので公園に行く、と言ったら俊介くんが車を出してくれた。

普段行けない大っきい公園まで散歩に行こうよ、って。

はるは大喜びだし、俊介くんが来てくれるとあの元気の塊に対して同じ熱量で付き合ってくれるので私も大助かりだ。背中にはひよもいる訳だし。

1人じゃ辛かっただろうなって、藤間家の人に助けられて毎日思う。


「『はっはっはっはっは! 見よ、これがラピュタのいかづちだ! 人がごみのようだ!』」

「きゃー! あっはっは、『バルス』!!』

「『目が、目がァ!!』」


あの、本当に何をやってるの。

数メートル先で、俊介くんとはるがげらげら笑いながらごっこ遊びをするのを時折吹き出しつつ眺める。

一昨日の金曜ロードショーの録画を昨日見せたからな。そのせいだな。

圭介さんは大人しい遊びをする人だったけど、俊介くんは物真似も盛大なのではるがそれを更に真似してレパートリーは日に日に増えていく。毎日賑やかだ。

ごっこ遊びを終えた後は、どんぐりに銀杏、と秋の落とし物をたくさん袋やポケットに詰め込んだ。あきのおさんぽはたのしいね! と朝とは打って変わってご機嫌なはるがかわいい。

どんぐりころころどんぶりこ~と一緒に歌いながら歩いているのを、俊介くんがカシャカシャカシャ……!! と連写しながらついてきている音がしていた。帰ってお義父さんお義母さんに見せるらしい。

そういうところも、圭介さんと違ってまめ。彼は写真を撮るのにそんなに興味がない人だったからなあ。

撮られるのも億劫がるので、枚数が少なくて葬儀のスライドショーに写真を選ぶのも大変だったって聞いた。私も彼につられて二人で旅行したら思い出として記憶するだけで写真は撮らなかったけど、もっと思い出を形に残しておけばよかったなあなんて今になって思う。


お散歩が終わったらショッピングモールでお買い物。

車を出してもらえる週末にまとめて買っておかないと、6人家族はなかなかの大家族なので食料品だけでも大荷物になってしまう。

服屋さんにも寄らないと、はるはどんどんサイズアウトしていくし、俊介くんの靴下も片方だけどんどん行方不明になっていくし。

子ども2人連れでくたくたになってお買い物を終え、そろそろ帰ろうかと駐車場に向かった。

眠ったひよはベビーカーで、はるはベビーカーの端を掴んでいい子に歩いてくれていて、私はベビーカーに乗りきらない荷物を持ちながらそれを押す。

俊介くんはもっと重い物を両腕に持って「手痛え」と少し先を車に向かって急いでいて、見慣れた車に辿り着いたのが見え僅かに気を抜いた時だった。


「はるのどんぐり…!!」


どんぐり、ころころ。


はるは歩きながらポケットからどんぐりを取り出し、にこにこと眺めていたらしい。それをぽろりと取り落とした。

大事などんぐりはてんてんとアスファルトを転がっていく。


「はる……!!! 駄目!!」


ベビーカーを掴んでいた手はぱっと離れ、どんぐりを拾おうと一目散に飛び出した。

まさに駐車しようとバックしている車の後方へ。


「はる駄目!!! どんぐりまた拾えばいいから!!」


周囲の景色がスローモーションに見える。

咄嗟に荷物も全部投げ出してベビーカーも離すけど駆けていく背を掴むには間に合わなくて、つん裂くように叫ぶことしかできない。


「はる危ない!!!」


キィ! と、車ははるにぶつかる手前で思いきりブレーキ音を立てて止まった。

呆然としそうになるのを踏みとどまりびっくりしてへたり込んだまま泣いているはるに駆け寄る。

私の声に驚いて止まってくれたらしい運転手さんに平謝りしながらはるの腕を掴み、ぐいぐいと大股でベビーカーまで戻った。


「下がってきてる車に近付いたら駄目っていつも言ってるでしょう!! ベビーカー離して勝手に走っちゃ駄目って言ってるよね!!」

「わああああああ!!! はるのどんぐりぃ……!」


どんぐりが大事でそれしか目に入らなくて、車なんて見えてなかったのくらい分かっているのに。

悪気がなかったことなんて分かっているのに、勢いのまま叱りつけるのをやめられない。

はるだってびっくりして怖かったに決まってるのに。きっと今お説教したって何も耳に入らないのに。

まだ心臓がどくどくと早鐘を打っていて気分が悪い。

もし、もしもはるまで車の事故で失ったら私は、


「怖かったねえ」


穏やかな声がして、目の前に屈み込む人影があった。

荷物を積み込んでいたら私の叫び声にびっくりして戻ってきた俊介くんだ。


「でも車の近くに飛び出したら駄目でしょう」


言いながらびゃあびゃあ泣いているはるを軽々抱き上げ、私の手からそっとベビーカーも取り上げる。

情けない。

きっと、手ががたがた震えていたのも全部知られている。

力の入らない足で歩くのに精一杯の私に代わって俊介くんはてきぱきと子どもをチャイルドシートに乗せて、運転席に乗り込んだ。

助手席にとぼとぼと乗り込んでドアを閉める。


「うええええ、おかあ、さ、ごめん、なさあ……!」


はるはまだ泣き続けていて、それでも怒った私にしゃくり上げながら謝ってくる。

いいよ、もうしないでね、と伝えたけどはるは失ったどんぐりのことも悲しいものだから泣き続けていて、つられて起きたひよも泣き出すものだから車内は阿鼻叫喚。

私はまだ呆然としたまま立ち直れなくて、シートベルトを掴んで宙を見つめた。

結局泣き疲れて眠ってしまったはるを抱いて家の中に入り、座布団に寝かせる。涙の跡のいっぱい付いた赤い頬をそっと撫でた。


「ごめんね。どんぐりはまた拾いに行こうね」


駄目だね、お母さん。ちゃんと起きたときに言わなきゃ。

自嘲しながらリビングに入る。

ひよを寝かせてさっさと買ってきた物を片付けてくれた俊介くんがいた。


「ありがとう……!」

「うん。お疲れぇ。大人は休憩しよー」


俊介くんは気の抜けるようなほんわかした笑みを浮かべる。


「おかえりお疲れさま。ちょうどコーヒータイムにしようと思ってたのよ」


お義母さんがコーヒー豆を電動ミルに掛けてくれていた。挽いた豆をサイフォンにセットすれば、湧いたお湯が少しずつ上がっていってコーヒーの良い香り。


「美由紀さんはお砂糖と、牛乳もいるでしょ?」

「あ、すみませんありがとうございます…!」


お義母さんもそうだけど、この家の人は私の好みまでしっかり覚えてくれているのが嬉しい。

高級でおいしいコーヒーだけど、やっぱり苦いのが苦手な私にはカフェオレみたいなミルクの割合にしてくださったカップを有り難く頂く。

隣りで苦いのがもっと苦手で一人オレンジジュースを飲んでいるのは俊介くん。

掌と喉に伝わる温もりにほっと息を吐いた。


「どう、はるちゃんは楽しめた?」

「ええ、あそこの広い公園まで行けたのでとっても楽しんだんですけど、……帰りに車の前に飛び出したので私が怒ってしまって」

「あらそう。お疲れさまだったわねえ」


目を細め、にこにこと私の拙い育児を見守ってくださっていることに自責の念が和らいでいく。


「お母さん、あれまだあっただろう。あれ、甘いの」

「ゴーフルですか? 頂き物がまだ残ってますよ。全く、あれ、あれってねえ? 一つも名前が出てこないじゃないの」


お義父さんへの批判に同意を求めてくるお義母さんにくすくす笑った。「ゴーフル好きぃ」と俊介くんが早速手を伸ばして、私も頂く。ちょっといい物は子どものいない時に、ってね。はるにはまだ早いし。

おやつの後、お義母さんとお義父さんはテレビを観ている横でぼんやりとスマホを触っていたら、俊介くんに廊下から手招かれた。私? と無言で首を傾げると、そうそう、と頷かれる。

チャンネル争いになったりしたときに俊介くんがよく来ている、普段は誰の部屋でもない客間に連れられた。


「お嫁さんは大丈夫?」


入るなり、俊介くんは言う。


「ん? 何が?」


まだ火は入れる必要のない掘りごたつに足を入れながら聞き返した。


「はるが車に当たりそうになって、びっくりしたでしょう」


俊介くんは思いきり眉を下げて隣りに膝を着き、私を案じる。口角だけが綺麗に上がっていた。


「うん。ごめんね、俊介くんもせっかく遊びに連れて行ってくれたのに最後に不快な思いをさせちゃって」

「それはいいんだよ。お嫁さんは命を守ってんだもん。必死になって当然」


俊介くんはゆるゆると首を振る。柔らかな髪が動きに合わせて彼の顔に掛かった。


「でも、怒られたはるだけじゃなくてお嫁さんも怖かっただろうなって。俺も見たとき怖かったもん」


大きな掌が躊躇いがちに伸ばされ、そーっと私の頭を2回撫でる。大した重みじゃないのに、つられて私は俯いた。視界に畳と俊介くんの素足だけが映り込む。


「父ちゃんと母ちゃんの前じゃ、愚痴とか弱音とかは言いにくいでしょ」


俊介くんの声は、いつも笑顔で発せられている音がする。顔が見えないのに容易に想像できて、そんなことを思った。


「私、」

「うん」

「はるまで死んじゃうんじゃないかってすっごく怖くて」

「うん」

「どんぐりが拾いたかっただけだって分かるのに、むしろ私がちゃんと手を繋いでなかったのが悪いのに、頭ごなしに叱ってはるを泣かせちゃって」

「うん」


声が震えて言葉が続かなかったのに、俊介くんはもう一回「うん」と喉を鳴らした。どうしてそんなに優しい声を出すんだろう。


「私、母親失格だ……っ。一人でちゃんと守り育ててあげられない」


圭介さんはいないんだからもっと強くならなきゃいけないのに、こんなにも怖くて弱い。


「そんなことないよ。そんなことないから。お嫁さんはすげえ立派にお母さんしてる。だってはるもひよもあんなにいい子で。ごめんなさいだってちゃんとできるし」


尊敬してる、って何でもできる俊介くんが私に向かって言った。

「それに、一人でやんなくたって周り中の手を借りていいんだからね」と言われて、久しぶりに少しだけ泣く。それを俊介くんは微笑んで見守っていた。

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