静かな夜
第9話
土曜日の夕方。
藤間家経営の織物工場は土日祝がお休みで、今日は三連休の初日。
私は毎日家事や子育てだから平日だろうが休みだろうがあまり変わらない日を過ごすけど、圭介さんがいてくれる間に重たい買い物は済ませたりしたいからどちらかというと平日よりも気忙しい。
お義父さんとお義母さんは二人で今日から温泉旅行に出かけた。ずっと仲が良くて素敵だ。私たちもそんな夫婦でいられたらな、なんて思う。
私たちはというと昼間は4人でデパートやスーパーに行って買い物を済ませた後、今は私が夕食の支度を、圭介さんははるとひよの面倒を見てくれていた。
「あー!!」
突然叫んだ私に、「ちょっと待ってて」とはるに告げる声が聞こえて圭介さんが台所を見に来てくれる。
「どうしたの……。虫? お皿割れた?」
へにゃりと眉を下げ心配そうに聞いてくれるけど、私はそれを聞いて日頃自分がそうしたしょうもない理由でしょっちゅう叫んでいることに気づいて情けなくて笑った。
「違うの。パン粉もうないのに買い忘れちゃった」
コロッケ作ろうと思ってタネまでできたのに。棚から取り出したパン粉はごく僅かに袋に残っていた分で終わりだった。どうしてスーパーで思い出さないかな私。
「圭介さんせっかく帰ってきたのにごめんね、パン粉買ってきてもらっていいかな」
「いいよ全然。俺作れないから全部やってもらってんだし」
ひょいとエコバッグと携帯をポケットに詰めて出ていく。
「ありがとー!」
背中で言いながら、私はコロッケのタネに火が通り過ぎてぷすぷすと気泡を立て始めたので慌ててコンロに戻って火を止めた。あとは衣を付けるだけ、というところまで支度してしまっていたので、はるのところへ行っておままごとに付き合う。
「いただきまーす。うん、おいし~い! これは何ですかー?」
「はるとくせいぷりんです」
「またぷりん」
遊んでいたらザアアア、と音が聞こえはじめて慌てて窓を閉めに立ち上がった。
「大変!」
「たいへんたいへーん!」
真似っ子が一緒になって廊下を付いてくるのをばたばた騒ぎながら構いつつ、家中の窓を閉めてまわる。
「雨降ってきちゃったねえ……。お父さん濡れちゃうなー」
「おとうさん、おしょいねえ」
「そうね。雨宿りしてるかな。お父さん帰ってきたら先にお風呂入れるように沸かしとこっか。はるちゃんもそのとき一緒に入っちゃって」
「あひるさんも一緒でいいー? かめさんはー?」
「いいよー」
はるとかえるのうたを歌いながら待っていたのだけど、圭介さんがなかなか帰ってこない。
おかしいな。
「ごめんね、雨大丈夫? お風呂沸かしてるよー」ってメールも送ったのに既読も付かないし。
はるとひよを連れて雨の中見に行く訳にもいかないし、ゴロゴロ……と雷まで鳴り出してしまった窓の外をさっきからちらちらと気にしてばかりいる。
「きゃー! おへそとられちゃーう!」
なんてはるはご機嫌でぱたぱたと走り回っているし、ひよはそんな騒動の中でもよく寝てくれているから助かってはいるのだけど。
電話も掛けてみた。
「出ないな……」
子機を握りしめて呟く。
そのとき、握っていた電話がけたたましく鳴った。
今掛けていた番号からだ。
「はいっ! 圭介さん?」
思わず上擦った声で顔を輝かせて出てしまう。
「――えっ……」
聞かされた言葉に、すとんと膝が抜けフローリングに座り込んだ。
「おかあさーん? どうしたの、どこかいたいいたい?」
はるが無邪気に話しかけてきて膝に登りつくけどその声も耳に入らない。
外の雨音と同じように、ザーザーとまるでノイズが走っているみたいに何も聞こえなくなった。
どうやって電話を切ったのか、誰にどう話したのか覚えていない。私はひよを抱えはるの手を繋ぎ、夢中で家を飛び出した。
「おかあさーん! あめだよ、かさ……いたい、はやいよー!」
早歩きだったから、可哀想にはるは引きずられるように歩かされていたかもしれない。それでも途中からは私の表情を読んだのか口を噤み必死に付いてきてくれた。
寝ていたのに起こされ雨に打たれたひよはもちろん大泣き。それでもとりあえず連れて行くのに必死であやす余裕もない。
大通りでタクシーを捕まえ病院へ。
「藤間さんのご家族さん……?!」
「はい……」
救急の入口を通った瞬間に声を掛けられ、ずぶ濡れの親子で一室に通された。
「ごめんなさいね、今できる限り綺麗にはしたんですけど損傷が酷くて……」
一言一言、酷く言いづらそうにエプロン姿の看護師さん達が告げてくれる。
私の耳には未だノイズが掛かったまま。
何の損傷が酷いって?
今、この目の前にあるのは一体何?
「ご覧になりますか?」と訊かれている意味も分からないまま虚ろに部屋の中央へ足を進めた。
「おかあさーん、おとうさんはー?」
足元ではるがあどけない声を上げている。
タクシーの中では、お父さんは病院に運ばれたんだって。お迎えに行くよ、と説明していた。
言える訳なかった。
その白いシーツはとても綺麗で、ベッドの上にまだ折り目の付いたまま掛けられていた。
それはもう目の前にあるのに、全く動きを見せない。
ただ静かに静かにそこにあって、私は自分の心臓だけがどくどくと脈打っているのを感じていた。
ツン、と病院独特の医薬品の匂いがしている。シーツを摘む手が震えているのを他人事のように見た。
「おかあさん……?」
そっと白を捲ったそこにあったのは目眩がするような赤。
あの兄弟でそっくりに柔らかく微笑む幸せそうな顔なんてなくて。抉れて裂けて割れて、黒い泥に塗れて所々白く骨らしきものもあるはずのない隙間から見えていた。
圭介さん、なんて名前を呼んであげられなかった。
ふらふら、とシーツを戻して後退りし、用意されていた椅子にへたり込んだ。
「はっ……ひ、はぁ……っ」
息が荒れる。
そんな訳ないんだ。あれが圭介さんな訳ない。
きっと今頃パン粉を持って家に帰ってきて、誰もいないからびっくりしてるよ。
帰ろう? 入れ違いになっちゃっただけだ。
「おかあさん……? どうしたの? おとうさんのところには行かないの?」
不思議がるはるとひよをぎゅうぎゅうと胸に抱きしめながら、私はあのとき掛かってきた電話を思い出していた。
『藤間圭介さんが交通事故に遭われて、当院に運ばれましたがほぼ即死でした』
そんな訳ないじゃないか。パン粉を買いに行ってくれただけなのに。
圭介さんはさっきまではるとひよの面倒を見てくれていて、今からはお風呂に入ってコロッケうを食べるんだよ?
夢なら早く醒めて。
「はる、ひよ……お父さんね、亡くなったんだって……」
「なくなったって、どういうこと?」
ねえ、嘘だよね?
まだ死も理解できないような子どもを置いていっちゃうなんて。
嘘なんでしょう?
「お星さまに、なっちゃった……」
「おほしさまって、きらきらひかるのおほしさま? おそらの? はるおとうさんにあえないの?」
会えないんだよ。
はるもひよも私も、もう誰も。
「……っ」
答えられなくて、ただはるを胸に抱き寄せた。
「どうして? はる、おとうさんとあそびたーい! おとうさんにあいたいー!」
死が分からないまま、はるが泣き出してしまう。
「やだー! どうして! おとうさんにあいたい! おとうさあ゛あああ」
どうして?
本当に、どうしてなの。
はるとひよが結婚するときには俺絶対に泣くなーって言ってたじゃない。
二人が大きくなってもお義父さんたちみたいに夫婦仲良くいようねって。
どうして?
愕然とする。
どうしてって。
『パン粉買ってきてもらっていいかな』
そう頼んだ私のせいだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
泣いて謝り続ける私を見かねて、看護師さんが「お子さまお預かりしておきましょうか」と聞いてくれる。
でも動揺している私はもう自分の大事な人が目の届かないところに行くのが怖くて、「いいです……!」と頑なに断ってぎゃんぎゃん泣いて暴れる子どもたちを一人で必死に抱えていた。
私がパン粉なんて頼まなければ。コロッケなんて諦めていれば。
これからどうしたら。
私一人で、この子たちを守らなきゃいけないんだ。
どのくらいの時間が経ったか分からない。
もしかしたらそれほど経っていなかったかもしれないし、随分経っていたかもしれない。
私たち親子は3人とも泣き疲れて、ひよは私の腕で眠っていたしはるは傍にある椅子に丸くなって同じく眠っていた。
頰に涙の跡がいっぱいある。
ごめんね。
私も疲れきって涙も出なくて、その場で呆然と白いシーツを眺めていた。
足音と「こちらです」と声が聞こえて、勢いよく引き戸が開く。
「兄ちゃん……っ」
私、いつの間に電話していたんだろう。病院から報せを受けたときだっけ。
現れたのは駆け付けた俊介くんだった。
はあはあと肩で息をしながらまっすぐに近づき、そっとシーツを捲る。
私と同じ光景を見て、俊介くんはシーツの上から胴体の辺りに縋り付いて泣いた。
「あ゛ああああああ……っ!!」
私は怖くて触れられなかったのに、わんわんと泣きじゃくって冷たく汚れた手を何度も握る彼を私は部屋の隅で見ていた。
ごめんなさい。あなたの大切な人を奪って、そんなにも悲しませて。
私のせいなの。
俊介くんは大人の男の人がそんなに泣くところなんて見たことないくらいにぼろぼろに泣いて、そのまま泣きながらシーツを戻すと私たちのところにふらふらと歩いてきてくれた。
「大変だったでしょ、2人も子ども連れて。ありがと、連絡」
お礼なんて。言ってもらっていい立場じゃない。
「違う、ごめんなさい、私が買い物を頼んだの。私の、私のせいで……!」
「違うから」
俊介くんは目と鼻の赤い疲れた顔で、寝たままのはるをそっと抱き上げる。
「絶対無理だとは思うけど、気に病まないで。兄ちゃんもお嫁さんが自分を責めてたら悲しむ」
でも、私のせいなのに。
「父ちゃん母ちゃんはもう少し遅くなるらしいから一旦帰ろう」と言われるままに従った。
自分がこの敷居を跨いでもいいのかも分からないまま。
家に着いたらはるは起きたので可哀想だけど適当におにぎりでお腹を満たさせて、お風呂に入れて寝かしつけた。
何がなんだか分からないけどいつもと違うことには気付いているらしいはるはいつも以上に聞き分けて、困惑した顔をしながらも言う通りにしてくれる。
眠りに落ちる直前。
「おかあさぁん……」
「なあに?」
「おとうさんは……?」
「……今日は帰ってこられないんだって。だからはるちゃんいい子で先に寝ててねーって言ってたよ」
「いいこにしてたらおとうさんかえってくる?」
「……はるは、……はるはちゃんといいこだよ。おかあさんすごく助かってる。はるはいいこ。だからおやすみ」
「ん。おやすみぃ……」
扉を閉めたら、堪えきれずに涙がこぼれた。
お義母さんたちは夜中近くになって憔悴しきった様子で帰ってきて、玄関が開いた瞬間に私は床に這いつくばった。
「お義父さん、お義母さん、ごめんなさい……! 申し訳ありません。私が、圭介さんに買い物を頼んだから。それで圭介さんが事故に遭ったんです。私のせいなんです。ごめんなさい! ごめん、なさい……! ごめんなさい……」
「ちょ、ちょっと……! 何も美由紀さんのせいじゃないでしょう……?! 顔を上げて!」
「美由紀さん顔を上げなさい。辛いのは美由紀さんだって一緒なんだから。私たちに何も謝る必要なんてない」
お義父さんお義母さんが驚いて声を上げながら私の肩に触れて何度も摩ってくれて、洗い物をしていて騒ぎを聞き付けた俊介くんも後ろから現れた。
「なんか大声出してると思ったら、何してんの……」
呆然と呟く声が聞こえて、お義父さんたちに何を言われても頭を下げ続けていたのに痛いくらい力任せに肩を掴まれ顔を上げさせられる。
涙に溺れた視界に、顔を真っ赤にした俊介くんが入り込んだ。
「やめてよ……もう、やめて。お嫁さんが一番辛いでしょ……? そんなお嫁さんを見てんのが何より辛い。もう二度と、自分を責めないで……っ」
家に帰ろうと言ってくれたときは頼りになる存在だったのに、「えええぇ」と彼は言葉を話せなくなるくらい誰よりも泣きながら私を止めていた。
その姿を見て思ったのだ。ああ私が自分を責めることは何の罪滅ぼしにもなっていないんだって。私を責める気なんて一切ない優しいこの家の人たちをますます傷付けるだけなんだって。
やっちゃいけないことなんだって、人目も憚らずに「やめて」と玄関でぐしゃぐしゃに泣いて縋る俊介くんの姿が教えてくれた。
人が亡くなったときほどそっとしておいてほしい、まずは時間がほしいと思うものなのに、直後は一番ばたばたと忙しい。
葬儀屋さんを決め、病院から遺体を引き取って、藤間家の親戚に片っ端から電話を掛けた。
そんな中でも子育てを放り出す訳にはいかなくて、ひよが泣いたらミルクをあげたりもしないといけないけど喪主の私が葬儀屋さんと話さなければいけない場面も多い。
俊介くんが顔見知りの親戚の方々に次々と挨拶しててきぱきと席に案内し、その合間には喪服姿なのにはると思いきり遊んで式場を駆け回ってくれたのには本当に助かった。
自分だって辛いだろうに、俊介くんは準備の間ずっとはるに笑ってくれていたのだ。お陰ではるは人見知りすることもなく、慌てて買った黒いワンピースに身を包み彼と一緒になって初めて会う親戚に構われながらけたけたと笑っていた。
「傷や汚れなどは綺麗にして、お顔の色もお化粧で良くなってますよ。ご主人、整ったお顔立ちでいらっしゃいますね。ご覧になりますか?」
葬儀屋さんの女性が美しく整えた棺を持ってきてくれて、優しく声を掛けられる。
さっと頭に浮かぶのは、病院でシーツの下に見た血みどろの姿。
怖い。でも見なきゃ、と身動ぎもできずに唇を震わせていたら、肩に手が掛かる。
「俺、先に見ていい?」
淡く微笑む俊介くんが私を覗き込んで立っていて、慌ててこくこくと頷いた。
「どうぞどうぞ、ご兄弟でそっくりでいらっしゃいますね」
と彼女が棺の中を示している。
「ありがとうございまーす。そーなんですよ、友達には見分け付かないとか冗談言われたりしてて」
俊介くんが棺を覗き込む様子を、私は恐る恐る見つめていた。
「……きれーにしてもらってよかったねえ、兄ちゃん」
俊介くんは微笑んで呟く。そして私を振り返った。
「お嫁さんもおいで。すっごく綺麗にしてくださってて、傷とか全然見えなくなってるから。寝てるみたいだよ」
俊介くんがそう言うなら、と安心して立ち上がろうとしたら、正座し過ぎて足が痺れていて畳の上でよろめく。
えへへ、と照れ笑いで誤魔化そうとしたら、さっきまで棺の隣りにいた俊介くんが私の傍にいて支えてくれようとしていてびっくりしてしまった。この人、動きが素早すぎる。
ほらほらと腕を引かれ、力の入らない足で棺に辿り着く。
「よかった……っ」
圭介さんの遺体は事故に遭ったなんて想像できないくらい修復されていた。
「はるとひよにも見せる」
「うん。そうしてあげて」
安心した私に俊介くんは頷いて微笑んだ。
葬儀が始まったら、なんとか寝てくれたひよを片手に抱きもう片手でははるが動き出さないように手を繋いで、と文字通り手がいっぱい。
長いお経の間退屈するはるを宥め、「お母さんの真似してね」とお焼香の仕方を教える。悲しむ暇もないくらいだけど、私の代わりにお義母さん達が選んでくれたフォトムービーが流れた時だけほろりと涙がこぼれた。
二人の結婚式。新婚旅行のハワイ。そしてはるとひよが生まれたとき。家族揃ってした最後のおでかけになったピクニック。
どれもこれも圭介さんは目を失くなるくらいに細めて白い歯を見せて笑っていて、やっぱりもう帰ってこないだなんて信じられなかった。
今にも隣りにやってきて、「ごめんごめん、二人とも見て大変じゃん。はるかひよどっちかもらうよ」って言ってくれそうな気がしてならない。
こんなに綺麗な寝顔にしてもらったら余計に。
花なんて撒き散らして起き上がってきそう。
俊介くんがはるを棺の見える位置まで抱き上げてくれて、最後にみんなで祭壇に飾られていた沢山のお花を棺に敷き詰める。
「はる、たくさんお花入れてあげてね」
「うん」
二人の声を聞きながら、私も彼の顔の周りに花を並べた。
参列してくださった方々にお礼を言う。
私の隣りで一緒に頭を下げてくれた俊介くんの目尻には泣いた跡があって、ずっと気丈に振る舞ってくれている彼も葬儀のどこかで泣いてしまったのかな、と思いを馳せた。
遠くに住んでいて駆け付けてくれた弟の佑介くんとぎゅっと寄り添って座っていたっけ。
まだあまり馴染みのない親戚の方々に気を遣いながらの食事も、火葬場でお骨を拾うのも終わって、ようやく家に帰る。
はるは車の中でとっくに夢の中だった。
ぐずるのを誤魔化しながら服を脱がせ、布団に運び込む。ひよも寝かし付けて、数時間は寝てくれるかな……と自分のお茶を淹れに台所に立った。
お義父さんお義母さんも床に就いて、あとまだ家の中で起きているのは私と俊介くんだけ。
リビングにぽつんと明かりが点いて、小さな音でテレビが鳴っている。俊介くんはお茶……嫌いだから要らないか。
自分の分だけを淹れて、ダイニングチェアに腰掛けた。随分久しぶりに座った気がする。宙を見つめてぼーっとするばかりで、何も考えが浮かんでこない。
俊介くんはこんなときまで大好きなアニメ鑑賞? お兄ちゃん子かと思っていたけど、結構ドライね。
そんな訳ない、彼も辛いに決まっているのに、些細なことに気が立つ。
熱すぎるお茶をちびちびと啜りながら、何のアニメを観ているんだろうと見るともなしに眺める。視線を感じたか、俊介くんがこっちを向いた。
「……そんな固い椅子にいないで、よかったらこっちおいでよ」
立派なソファーの彼の隣りの座面が優しく叩かれる。
なんといっても藤間家は私からすれば家も家具も全部立派なので、ダイニングチェアだって別にクッション性は悪くないけど。
呼ばれたからには断るのも変だし、と湯呑みを持ってすとんと隣りに腰掛けた。
俊介くんは何を言うでもなく、しんと静まっているから聞こえる程度の満足げな息を吐いてテレビに視線を戻す。することは山積みのはずだけど、今は何もする気になれなくて私も途中からのアニメを一緒に眺めた。
そこで、やけに映像が古いことに気付く。映像の比率がブラウン管の物で、画面の端は余っていた。大きな事件の起きる訳でもない、ほのぼのとした日常を描いたアニメ。
だから、泣くようなシーンではないのだ。
それでも隣りを見れば、テレビの画面に照らされた横顔はさらさらと涙を流していた。床に放り出されているのは、使い込まれてぼろぼろのDVDケース。
「……これ、圭介さんと一緒に子供の頃に観てたやつ?」
「うん」
俊介くんは涙の流れるまま微笑んで、頷いた。
そっか。きっとアニメを通して、彼とこれを眺めた日々を思い出しているんだ。
「俺ら兄弟全員、めちゃくちゃ好きだった。母ちゃんが『もう話覚えてるでしょ』って呆れるくらい繰り返し観てた」
「そっか。……知らなかったな」
圭介さんがこのアニメを好きだったことも、未だにテレビ台にこれが仕舞われていたことも。
きっと他にも知らないことはたくさんある。
まだまだ、これから知っていくはずだったのに。
「……」
俯いたらぼろぼろ、と涙がこぼれ落ちた。いつになったら枯れるんだろう。もう散々泣いたはずなのに。
アニメの邪魔にもなるし、止めようと思うのに今度はちっとも止まらない。
圭介さんに会いたい。
会いたい。
帰ってきて。
「ああああ……っ」
収まるどころか泣き方はみるみる激しくなって、声が漏れてしまった。
「うわあああん」
黙ったまま俊介くんの腕が肩に回って、彼の薄い体の側面に押しつけられる。
それでも全然泣き止めなくて、私は初めて自分のために泣いた気がした。
しばらくしても嗚咽を漏らし続けるものだから、俊介くんが眉を下げて私を見る。
「……ぎゅってしていい?」
頷いて、私たちは失った分を補うように体温を分け合っていた。
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