第46話
三日ぶりに出勤したその日は心配してくれる同僚に迷惑を詫びて遅れた分の巻き返しに奮闘し、少しの残業をしてから帰路に着いた。
まだ一緒に住むには準備が足りないけど、「今日も行っていい?」って昼休みにメールで聞いたら「いいよー!」だって。
嬉しいな。何かお料理作ってあげようかな。
鼻歌が出そうな気分でスーパーに寄る。
お肉好きだったよね。あ、でも牛じゃないけど暑いし冷しゃぶとかいいかも。
そうやってお肉コーナーでパックを選んでいたはずが、瞬きをしたらこの前の廃ビルのフロアに立っていた。
「ひっ……」
驚きすぎて悲鳴は喉に引っかかって出てこない。暑く禍々しい空気。
何が起きてるの、と見渡すと私と全く同じ状況のみんながいた。
「何これ! 俺残業中だったんだけど!」
稲辺さんが元気に嘆く。「先生」と呼んだ東が私を自分の傍に引き寄せた。
「親切にまたみんな呼んでやったことを感謝してほしいくらいだね」
何もなかった宙に穴が空いて、真っ暗闇から彼誰がぼやきながら現れる。
「うっせえ。しつこいのは女の子に嫌われるってそんなことも知らねえの」
稲辺さんが喧嘩を売った。身内には甘いけど気の強い人だ。
「諦めたんじゃなかったの? もういいだろ、先生にそんなこだわんなくても。何もしなくても数十年もしたらそっちに行くんだから、ちょっとはそっとしといてやれよ!」
進藤さんが顔を歪めて訴えてくれる。いつもそう。進藤さんはずっと優しい。ずーっと味方でいてくれる。ここにいるみんなそうだけど。
「誰が諦めたって? 東は何も言わなかったんだな。まあ、言えないか」
はっと息を飲んで、私を安心させようとしっかりと肩を抱く人を見上げた。狼狽する私達とは違い、東は穏やかな表情でまっすぐに彼誰を見つめていた。私の視線に気付くとこっちを見下ろしてちょっと眉を上げて微笑み、くしゃくしゃと私の髪を撫でる。
急に怖くなった。私が告白してからずっと、失うことを恐れる私を安心させようとそういう部分は鳴りを潜めていたようだったのに。また、一人で生死も厭わずどうにかしようとしてる。そんな気がして、きゅっと東のTシャツを掴んだ。「ん」と彼は返事をして、よしよしと私をなだめるように撫でる。
「大丈夫」
そう囁いた東は、そっと私の頭に口付けた。そしてよく通る声で告げる。
「思ったよりちょっと早かったけど。いいよ、先生の命と魂以外なら俺のは何でもくれてやる」
「何言ってるの?!」
私たちは騒然とした。事態を飲み込むよりも早く目の前で空間が割れて、今度は夜半が現れる。
「せっかちめ。もう少し待ってやってもいいだろうに」
彼女は彼誰を一瞥して言った。東が私に静かに言う。
「あのとき、俺がお願いしたんだよ。俺と先生が離れればいいなら、代わりに先生の魂を奪う以外の方法にしてくれないかって。そしたら、みんなから俺に関する記憶を奪うことでもいいって夜半が提案してくれた。それだけで先生の魂と等価になるなら万々歳だ」
目を見開いて呆然とする。
「駄目だよ! 私より先に死なないって約束したじゃん!」
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。東はそっと私の頬に触れて、次々と伝い落ちる雫を指先で拭ってくれる。今、まだこんなに近くにいてくれるのに。この人は私たちを置いていこうとしている。
「死なないよ。先生を置いて死なない。約束したでしょ。守るよ。ねえ彼誰? そうでしょ?」
「そうだな、東は死なない。お前の魂なんて要らないからな」
「だってさ。ほら、泣かないで」
「何で! 私達は東のことを忘れるんでしょう?! 死ぬのと一緒だ! 離れないって言ったのに!」
最低だ、最後まで幼子みたいにこんなわがままばかり。でもそれ以外に、こんなに覚悟を決めた人を引き止める術を知らなかった。
「離れないよ。大丈夫。みんなが忘れても、俺が忘れない。逆だったら受け入れなかった。でも、俺は覚えておけるって言うんだもん。みんなが俺のことを忘れちゃっても、俺はきっと大好きなみんなの傍にいる。それでね、俺自信あるよ。先生は絶対また俺を好きになる」
「あ゛あああっ!」
東は困ったように笑う。
「この自信家、って突っ込んでほしかったんだけどなあ。泣き止んでくれないかあ。せーんせ、ほら、大丈夫だよ」
わんわん泣くことしかできないでいたら、東は私を抱きしめてあやすように揺れた。
「もう泣いてほしくないのになあ。先生は今何が悲しいの?」
「東が、辛い思いをすること……!」
自分を知る人をみんな失くしてしまうんでしょう? こんなに人が好きな人が、この世でたった一人ぼっち。
「大丈夫。それも忘れる」
私は東の胴体にしがみ付いて、駄々をこねるみたいに彼の胸元に顔を押し付けて首を横に振った。いや、いや。忘れたくない。私からこの人を奪わないで。
「何で。どうして東なの!」
「先生を守れるのが俺で、俺は幸せだよ。他の奴に守らせたくねーもん。言ったでしょ」
この人がいなくなったら生きていけないって思うのに、忘れたら私はのうのうと生きていくのだろうか。何よりも大切なものを知らない間に失いつまらなくなった世界で。
「東ぁ! お前、絶対犠牲になんてさせねえから! 他の方法探そうよ。頼むから!」
進藤さんの泣き声がした。東が私から身を離して振り向く。
「ごめんな亘ー。菅さんも颯太も! 先生のこと、頼んだ!」
東は私の肩に手を置いて少し押し出して、にっかり笑った。何だかんだいつも頼りにしていたみんなが一人残らず泣き崩れていて、頷く者、首を横に振る者。それを見た東はただただ笑みを深めるばかり。
「俺がもう一回先生と付き合うまで泣かせんなよ! 頼りにしてるから」
「お前、それ言ったら俺らが何でも言うこと聞くと思うなよ!」
稲辺さんが怒鳴る。そうだ、暴走する車から身を乗り出すとき、東にそう言われて稲辺さんは応じていた。
「にひひ。やってくれんの知ってる」
怒られても東は涼しい顔。稲辺さんは濡れた目を逸らして、「ばーか」と呟いた。
「舐めんじゃねーよ。東がいなくなったら、俺即行で先生もらうよ?」
「やんないっしょ?」
即答した東に、稲辺さんはパチン! とでこピンした。
本当は東がそれでもいいと思ってること、ここにいる全員が分かってる。私が幸せになるなら自分以外と結ばれたっていいって。この空間に連れ出されてから東が私を「先生」と呼び一度も名前を呼ばないこと、身を引いていっていることに気付いてる。ぼろぼろと止まることを知らない涙が勢いを増して、私は必死に掌で拭った。
「大丈夫だよ、颯太のことは見張っとくから。さっさともう一回先生のこと落としな」
菅さんが綺麗な声で男らしいことを言った。にい、と笑った東が「よろしくぅ!」と彼とグータッチを交わす。菅さんは東をぐいと抱き寄せた。
「忘れても友達だから」
「……うん」
名残惜しげに離れた東を、必死に泣き止んだ進藤さんが待っている。
「うちはいつでもいつまででも、東の駆け込み寺だから。俺らが忘れてたって、受け入れるから。遠慮なく来いよ」
力強く言った進藤さんに、東は微笑んだ。
「毎日行くわ」
「いや毎日はやめよ?」
二人で顔を見合わせてげらげら笑う。そして東は男に向き合った。
「お待たせ。いいよ、奪って。俺の力も、みんなの俺に関する記憶も。それでも俺は何も失わない! 大好きな人はみんな生きたままだし、大事なことは全部ここにある。俺は全部取り戻すよ。だから、どうぞ」
東は自分の胸を拳で叩いて、男を強い視線で射抜く。男は東に向かって掌を伸ばした。
「地獄の苦しみだぞ。自分の考えが甘かったことを後から思い知るさ。契約成立。遠慮なくもらっていくよ」
男の掌から吹き出た強い風が私たちを巻き込んでいく。東のTシャツの後ろ姿がはためいた。いやだ。失いたくない。いやだ。いやだ!
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