第39話

ゴウン……

 重たい機械音とともに、どうやってもぴたりと閉ざされていたはずのドアが動く。パネルの表示は四階と五階の間で止まったまま。目の前にはコンクリートの壁でも立ち塞がっているのかと思ったのに、一階と変わらない造りのがらんどうのフロアが広がっていた。

「ここ、何……。四階? 五階?」

「降りよう」

 東が、自分も怖いはずなのにそれをおくびにも出さないで私の手を引きエレベーターを降りる。背後でドアが閉まった。もう戻れない。あんな狭い箱から出られて嬉しいはずなのに、そう感じた。

 このフロアは異様だ。霊がいなさすぎる。一階は外にまで漏れ出てきてしまうくらい、満員電車のように幽霊でぎゅうぎゅうだったのを掻き分けなければいけなかったというのに。

「すげー静か……」

 東もそう言った。どうしてこの階には何もいない? いや、そもそも何階なんだろう。

 とりあえずはそろそろと歩いてフロアを探索する。程なくして、中央付近に倒れている人影を見つけた。

「な……亘?!」

「菅さん、稲辺さん、しっかりして!」

 一階にいたはずのみんなが転がされていて、揺さぶったり叩いたりすればすぐに起き上がる。

「どうした?!」

「わっかんね……急に部屋の中で熱風が吹いて、目閉じたら転がってた。お前らもう降りてきたの。そんなに時間経っちゃってた?」

「違う。時間はそんなに経ってないと思うし。俺らの台詞だよ。お前らが上がってきたんじゃないの?」

 進藤さんが首を振りながら上体を起こして、東は唖然としながら聞き返した。

「は? 俺ら知らない間に階移動してんの?」

 稲辺さんが顔を強張らせる。

「東、ここ何階?」

 菅さんが冷静を装って尋ねた。

「分かんない。俺らのエレベーターも、四階と五階の間でしばらく止まって……」

 味方に会えたものの口々に詰め寄られて困り顔で喋っていた東が、言葉を失う。視線の先で、空間に縦にめりめりと裂け目ができて、そこに手を掛けてよっこらしょとこちらへ入ってくる人間がいた。一メートル程の裂け目の向こうは真っ暗闇で、そこから熱風が私達に吹き付ける。

 誰も動けなかった。床に転がり、凝視したまま鳥肌を立てることしかできない。数秒の後、東だけが震える手で私の服を引っ掴み、自分の背後に押しやった。東の肩越しに、ようやく全身現れた闖入者の姿が見える。和服なのか洋服なのか、それすらよく分からない。漆黒の衣装を身に纏う、髪も真っ黒の若い男だった。私たちを認めた瞳が三日月型に細められる。

「ご機嫌よう、えー、除霊師の皆さん?」

 声が、聞こえる。空間の裂け目から登場するなんて非人間的な登場の仕方、絶対に霊のはずなのに。まずそこに驚いて息を飲む。頭に直接響くような感じで、目の前の男が口を開閉させる動きと聞こえる声とは吹き替えの映画を見るように奇妙にずれていた。口調は笑っているのに、首筋に刃物を当てられているようにぞっとする冷たい声音。

「あーれ、みんな声出なくなっちゃった? せっかく俺の声が聞こえるようにしてるつもりなんだけど」

男はとぼけたように首を傾げる。

「……雪も聞こえてんの」

無視した東がそっと振り返り、私に尋ねた。

「うん。頭の中に聞こえてくる。……すごく冷たい声」

「おいおい、無視して陰口とは失礼だなあ」

「みんなは聞こえんのが初めてだからびっくりしてるだけ。そっちこそちょっとの間も待てねえの」

 東が震える唇を噛み締めて男を睨み上げた。彼が初対面でこんなに敵意を剥き出しにして相手を罵るところなんて初めて見る。勘の鋭い人だから、きっと敵だっていち早く気付いたんだろう。男はそんな東の凄みも意に介さず、飄々と肩を竦めた。

「それよりお前誰だよ」

 稲辺さんがすぱんと言い放つ。なんと、今回は彼にも姿が見えているらしい。本当にこの人は何者なの。

「俺? 名前とかないんだけど……この機会だ、彼誰かはたれ、と名乗ってみようか』

「彼誰……? その黒づくめで明け方なの」

「先生も思った? 理解しがたいネーミングセンスだよね」

 菅さんがぼそりとつぶやいた私の疑問に同意してくれる。

「で、何の用だよ」

「それを俺が言おうとしてたのを遮っておいてお前勝手だな」

 怖そうな霊も呆れさせるマイペースな稲辺さんすごいな。言いたいこと全部言ってくれる。

「奪いに来たんだよ。そいつの命を」

 そいつ、と言った漆黒の瞳と、私の目が合った。私?

 事態が飲み込めていない私より早く東が動いて、私を自分の背後に隠すようにぎゅっと掌で庇う。

「散々戸惑ってたようだけど、ここは四階でも五階でもないよ。現実世界でも霊界でもない。ちょうどその狭間。いきなり連れ去ってもいいんだけどね、君たちみんなにはお別れくらいさせてあげようと思って全員呼んだ訳」

 彼誰の背後に、突如夥しい数の霊がずらりと出現し私たちを取り囲んだ。とてもじゃないけど祓いきれる数には見えなくて、命の危機に一気に肝が冷える。

 それらは彼誰と違って何も言葉を発さないけれど、ゆらゆらと揺蕩いながらじっと私たちを、いや私を見つめていた。

「このビルで、悪どいことやる企業のお陰で恨みを持つ霊が増えて、魂もたくさん手に入って。力を得たからもっともっと霊を憑かせて俺が不幸な人間を増やそうと思ったのに、突然うまくいかなくなった。何かと思えば相性抜群のお前ら二人が出会ったことで莫大な数の仲間が消えていた。本当に邪魔だった」

 彼誰が私と東を交互に指さす。

「何でもかんでも祓ってくれちゃって、鬱陶しいったらありゃしない。でも男の方は眩しくて近づけもしない。だからあの手この手を総動員したよ」

 東が怪訝な顔をしている間に、彼誰は得意げに自分の手腕を語る。

「女をプールに落としてみたり、車ごと操作してみたり。ああ、そこの書道家の携帯をジャックして声と口調も真似て呼び寄せたりもしたな」

 博物館のときのあの電話の謎が解けた。携帯を勝手に操作されてたんだ。

「お前ら除霊師を疲労させるために、送り込む霊の数を増やしたりもしてたけど、お前らはどんどん結びつきを強くして祓う力も強くなっていく。まあでも、それもこれで終わりなんだ! お前らをここに連れてくることができた。もうあと一歩だ。その女を弱らせることさえできれば、霊を取り憑かせて連れ去れる」

「そんなことさせない。俺たちがいる。守るって約束してるんだから、先生は絶対に逝かせない」

 東が言って、他のみんなも頷いてそれぞれに数珠や札を構えて臨戦態勢になってくれる。

「お前らはそうでも、その子はどうかな。人間に冷たく当たられて、この世は辛いことばかりだったはずだ。霊になればそいつらへの恨みも晴らせるよ。どうだ、悪くないだろう?」

 彼誰は私に薄く笑みまで浮かべて話しかけた。

「いや、です。私、誰も恨みたくない。死にたくない」

 恐怖に絞まる喉から声を絞り出したら、東がにっこり笑ってよしよしと満足げに頭を撫でた。いつも温かい掌が心地いい。

「なぜだ。きみには絶対にこっちの方が居心地が良いのに。生きてきていいことなんて、今までなかっただろう?」

「もうやめてよ。いーっぱい辛いことを乗り越えてきて、やっと楽しくなってきたところなんだよ。放っといたっていつか死ぬんだから。雪は連れていっちゃ駄目」

 東が声の調子を落として、彼誰に向かって切々と訴えた。東にはたくさん楽しいことを教えてもらったけど、そんな風に思ってくれていたことを初めて知る。けれど彼誰はおかしそうに唇を歪め、鼻で笑った。

「何を言ってるんだ。その女をむしろ救ってやるんだから感謝してほしいくらいだね。この世は苦しいことばかりだ。人間なんて全員呪い殺されればいい」

 彼誰が私に手をかざす。彼の背後からおびただしい数の霊が迫る。東が私を抱き寄せて、私も目を閉じて身を固くした。

 この数はきっとこの場の全員でも祓いきれない。学校での除霊の帰りに東が疲れていたように、除霊師一人一人に祓える数の限界がある。

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