博物館

第29話

進藤さんの安全運転で閉館後の博物館に到着し、ばたばた降りる。道中東さんが電話を掛けたけど、稲辺さんは来られないようだった。急で仕方ないとはいえ、いつもより人数が少ない。それでも私がいれば、東は誰よりも多く祓えるのだ。菅さんがピンチかもしれないのに気まずいくらいで来ない訳にはいかない。

 しかし電話ではすごい数の霊、と聞いていたけれど、館内に入ってすぐはそれほど見当たらないし禍々しい気配もない。進藤さんは館内中央、吹き抜けのホールの一階に陣取った。私と東は相変わらず中を巡る担当なので、二人で菅さんを探しながら順番に歩いていく。今どこにいるのか、電話を掛け直しても菅さんに繋がらなくなってしまったのだ。

「菅さんのことだから、何とかしてて無事だとは思うけど」

と話しながらも東の表情は固い。まだそれほどたくさんの霊に遭遇していないせいか顔色は悪くなくて安心だけど。

「……先生」

「っはい!」

 呼ばれるだけでどっきー! と緊張する。

「そんなびっくりしなくても何もしないよ」

 東が寂しそうに言う。あ……また傷付けた。

「ごめん」

「俺もごめんね。さっき、ごたごたしちゃって祓うの途中で終わってたから、先生まだ辛いでしょ。歩きながらでよかったら手繋いでよっか、って聞こうと思っただけ。嫌ならもちろんいい」

「お願い、します」

「ん」

 するりと手が掬われる。手、だけ。そう思うなんて私は本当に馬鹿だ。もう戻れないのかな。何の躊躇いもなくくっつけた関係には。

非常口を示す緑色の掲示だけが光る薄暗い館内を、懐中電灯で照らしながら手を引かれて歩く。

「菅さん、いないね」

「うん。霊もそんなに多くない。変だ」

 こつこつと二人分の足音も大きく響いた。自然と声も落として話す。二人で手を繋いで博物館なんて、デートでもおかしくないくらいなのに閉館後となるとなんとも不気味でそんな気持ちは一切湧かない。日本の展示のゾーンが終わってしまって、次は世界の文化を紹介しているゾーン。

「モアイ像……喋んないのかあ」

「ナイトミュージアム?」

「うん。……ちょっと楽しみにしてた」

 展示室の入り口で鎮座しているモアイ像を見て、東ががっかりする。くすりと笑った。映画だとガム好きのモアイ像はお喋りだもんね。何でも楽しもうとする東らしい。

「『ボケボケ、ガムガムくれ』って言われても困っちゃわない?」

「困るねえ。んー……ミンティアじゃ駄目かなあ」

「あの口に対して小さすぎるような。あー、この像レプリカなんだって。霊が何も取り憑いてないのそれでかなあ」

「そうかも。いつもやばいのは本物ばっかだもん」

 ちょっと和みながら像の前を通り過ぎる。

「菅さーん」

「菅さんどこー! ……表にある展示室じゃなくて、地下の史料室とかにいんのかなあ」

 結局菅さんに会わないまま時系列と国別の展示の年代はどんどん遡って、古代エジプトのゾーンへ。東が扉に手を掛けた時、どくんと心臓が嫌な感じで跳ねた気がした。変なの。まだ何も霊は見えていないのに。この先へ行ってはいけないような、そんな勘。東は何も感じないようで、躊躇いなく扉を両手で押し開こうとしている。すごく嫌だ、行きたくないと思っても、明確な理由もないのに告げられなかった。菅さんを早く探さなきゃ。でもざわつく胸が不安で仕方なくて、躊躇いながら東のシャツの裾を掴んだ。

「ん? どうしたの……?」

 振り向きそう告げられながら、一足遅く扉は開かれる。一瞬で全身に鳥肌が立った。古代エジプトゾーン、その展示室の中から目が離せない。中央に置かれた目玉の展示物であるミイラの周囲で、見たこともないような数の亡霊が部屋を埋め尽くして竜巻のように飛び回る。そして、開かれた扉の手前、私の存在に気がつくと一直線に激突してきた。がつん、と風がぶつかる瞬間に脳が揺れる。

「……っ」

 今の数に取り憑かれたのだろうか、もう何も状況は分からないけれど息ができなくなった。

「っ、……ひゅ、」

 首を絞められたみたいに苦しくて仕方なくて、掴んでいた東のシャツ裾も離して喉を掻き毟る。あっという間に目の前が真っ暗になって、私は床にくずおれた。

「先生!」

 東の馬鹿でかい怒鳴り声が辛うじて聞こえるけれど、私は周りも見えずに七転八倒している。今まで取り憑かれたって、こんなの経験したことがない。怖い。怖い。

「大丈夫だから……っ」

 ぎゅうう、と温かな腕に上半身を抱き起こされ包まれる。東はもがく私を力強く押さえ込んだ。きっと苦しさで暴れて殴ってしまったりしたと思うのに、腕はちっとも緩まない。苦しいね苦しいね、大丈夫だから、って何度も何度も言われた気がする。手を繋ぐだけじゃなく、久しぶりに体ごとで包まれて。

 なのに、どうして。いつもならそれで除霊されてみるみる楽になっていくのに、ちっとも変わらなかった。酸素の足りない体がしびれて震え、全身の力がだらりと抜け落ちる。

「か……はっ、……ひゅー、ひゅ……っ」

 東が焦って私を抱き直す気配がした。それでも息ができない。苦しい。私、ここで死ぬのかなあ。東に、ほんとのこと言っておけばよかった。ほんとは、ほんとはね。

 つう、と閉じた目の隙間から涙がこぼれていく。

「ごめんね、」

 真っ暗闇の中、その言葉だけがはっきりと聞こえた。何が、と思った瞬間、唇が塞がれる。

「?!」

 後頭部に回された手が私が離れることを許さず、私は東に口付けられていた。一分の隙間もないくらいにぴったりと唇を塞いだそれは私の口の中に舌をねじ込み、苦しいくらいに奥まで入って唾液を送り込む深い深いキス。訳も分からず逃げ回る私の舌をあっさりと捕まえ強く吸い、じゅ、ちゅる、と小さな水音を立てながら東は何度も何度も唇を合わせた。

「っは、んぅ、」

「はぁ、っ」

 息継ぎを挟みながら東が必死な様子で私に口付けていることに気付く。好きに呼吸ができず酸素を奪われて余計に苦しいはずなのに、口付けられる度に苦しさが和らいでいた。これも東の力なの? 指先に力が込もるようになって、暗がりの中で東のシャツにきゅ、と縋った。東はまだ私に口付ける。

 ぼんやりと目が開くようになって、涙でぼやけた視界で東と目が合った。それ、楽になるから、もっと。まだ苦しくて話せない中で、息継ぎで唇の離れた合間に目で訴えてしまう。

「うん、あげようね」

 何も言えなくても東は優しい微笑みを浮かべながら私の後頭部を撫でて、また口付けをくれた。

 永遠かに思えるような長い長い時間の後。室内に吹き荒れていた風が止んで、東がそっと唇を離す。

「ごめんね」

 見上げた顔はひどく申し訳なさそうに歪んで、そう言葉を紡いだ。

「くっつく範囲が広いほど除霊の効果も強まるけど、内側から浄化するのはもっと早いから。次から次へと憑くから先生が死ぬ前に除霊しようと思ったら、これしか思い付かなかった。でも、緊急事態だったとはいえ断りもなくこんなことしてごめん」

 ぽんぽん、と顔を背けながら頭を撫でられ、目尻を伝っていた涙の跡を指でなぞられる。そして力の抜けた体を背負われた。

「謝らないで。ありがとう」

「うん」

 されるがまま、ぺたりといかり肩に頰を付ける。必死に口付けられた謎が解けた。私を助けるために、東だって嫌だったかもしれないのにしてくれたんだから謝ることなんてしなくていいのに。あなたは自分の感情なんて後回しにして、人を助けるために何をすべきかで行動できる人だって知ってる。

「帰ろ」

 どうしていいか分からない空気が漂っていて、二人黙り込んだまま進藤さんのところに歩き出した。極力振動が響かないようにゆっくり歩いてくれている規則的な振動が伝わる。

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