第10話
ようやくプールにたどり着いた時には、大立ち回りを繰り返していたせいで二人して汗だくになっていた。額にびしょびしょに張り付いた髪が気持ち悪い。憑かれては祓われてを繰り返しているので、私が度重なる心身への負荷で疲れているのはもちろん、祓う度に気力は消費するのでエネルギー底無しに見える東でさえ軽く息が上がっていた。
そういえばここへ来るまでの間にいつの間にか東、と呼び捨てにするようになってしまっている。進藤さんがちらりと、除霊中は敬語使ってる場合じゃないなんて話もしていたけどほんとその通りで、切羽詰まる場面ばかりでさん付けしている余裕がなくなったのだ。
そもそも東さん、って言いにくい。途中、「東さ、あずっ、あ、」と上手く言えなかった時点で諦めた気がする。
「あー! やーっと着いたな!」
「もう校舎はほとんど除霊したんじゃない? 私に吸い寄せられるのをずっと祓い続けてたし」
「だいぶ空気良くなったよね! グラウンドと体育館は菅さんが行ってくれてるから、俺たちはここで最後で良いはず」
プール入り口の鍵を進藤さんに貰いにいくのが面倒だったので、二人してフェンスをがっしゃがっしゃと登る。私、今悪いことしてる。生徒には絶対に見せられない。
「先生俺に飛び込んでおいでー」
先に飛び降りた東が私を見上げて両手を広げた。
「危ないよ。私受け止めたら東骨折れる」
「折れねえよ……!」
東はげらげら笑う。
「いいから退いて退いて。自分で着地できるから」
腕を振るジェスチャーで彼を退かせ、とん、と着地した。彼は口を尖らせる。
「ちぇー。先生結構動けるなあ」
「体育の授業でも休み時間でも子どもと一緒に走り回ってるんで」
「そりゃあ大変だわ」
更衣室、シャワー、と順番に回り、東はほいほいと除霊していった。私といると霊が逃げないので楽に触れられるらしい。最後にプールサイドを一周歩く。
もう目は慣れているけど、真っ暗闇にゆらゆらと風で波打つ真っ黒のプールは不気味で怖い。こんな中で泳いだら何も見えないだろう。水自体は綺麗なはずだ。この前低学年がやご取りをして、その後教員で清掃し水を溜めたばかり。
「プールの方は何もいないね」
「そうだねえ。泳いでる子どもの足引っ張って驚かせるやつとかいそうなもんだけど、いなくてよかったよかった」
「そんなのいたら泳げない子のトラウマになっちゃうもん。東は泳げる?」
「おー……よげる?」
「ふっ、どっちよ」
「プールの授業があったときは、二十五メートルは泳げたはずー。でも今は分かんなーい」
「しょうがないなー。じゃあ東くん、先生が教えてあげよう」
「えっ、まじ? 先生俺とプール行ってくれんの。お願いしまーす! 水着着た先生に手取り足取り教えられてー!」
「は? 冗談に決まってるでしょ。馬鹿、変態」
「ひでえ。先生の声たまに超冷てえ」
ひでえ、と言いつつ東の声はずっと笑っている。ようやく穏やかな時間が訪れて、夜の風がひんやりと私たちの汗を乾かしていった。プールに映った月も楽しそうに揺らめく。
学生時代のプールの授業の思い出なんかを話しながら、もうすぐプールサイドを一周し終える、というときだった。どっぷん、と大きな水音が立った気がする。
「せんせ……っ!」
東の声が急に緊迫したときには、ざばあああ! と突然プールから立ち上がった巨大な波が押し寄せ、私はプールの中に攫われていた。何も抵抗なんてできない。物理法則に従わずにプールから飛び出してきた水は、さらさらと流れるのではなく私の体を絡めとるようにしてプールに引き摺り込んだのだ。次の瞬間には水の中。
どっぽん……!
こぽこぽこぽと服から発生した泡が真っ暗な水の中を上っていく。耳も水に閉ざされくぐもったその音しか聞こえない。びっくりしたとはいえ小学校の浅いプールだ。すぐに足を付いて顔を出そうとしたのに、それができなかった。
「ん~~~~!」
私を包んでいるのは、さっきまで上から見ていた私の知っている水ではなかった。そりゃそうか。私を持ち上げられるくらいだもんね、って感心している場合じゃない。プールの水はどろりと粘性を持って、私に纏わり付いていた。まるでスライムに閉じ込められたみたい。落っこちた体勢のまま、体が動かせない。足も伸ばせないから、顔を出して息ができない。
「~~ごぽっ……!」
焦ってしまい、口から大きな泡が飛び出して上に逃げていく。どぷん……! とまた一つ水中に大きな音がした。東だ。東が、すぐ傍に飛び込んできた。もがくことさえできていない私の腕がぐいと引かれ、もう何度も何度も抱きしめられてきた腕に包まれる。私なんて身動きできなかったのに、すごい力。そのままぎゅうう、と抱きしめられる。化け物になった水がどろどろで浮上できないから、私に取り憑いてるのを祓うことで元の水に戻そうとしてるんだ。
いつもはすぐに祓える東だけど、時間が掛かっていた。抱きしめられると常に温かかった体が、水に晒され酷く冷たい。私も同様だろう。祓うのにも気力体力が必要で、風邪を引いたり落ち込んだりして弱っているときは祓う力も弱くなるらしい。今、東も息ができていないから万全の状態じゃないんだ。
ぼこぼこ、とまた口から空気が逃げていく。それと入れ替わりに得体の知れないまずい水が口の中に流れ込んできてしまって、抵抗しきれず飲み込んだ。苦しい、苦しい……! 酸素が薄くて意識が遠退く感じがする。自分では何をしているかも分からないまま必死にもがいてしまった。辛うじて動いた指先に触れた東の服をきつく掴む。東も苦しいんだろう、ぎゅっと眉間に皺を寄せ、暴れる私を押さえ込んだ。いつもは優しく私を抱く腕が今は爪を食い込ませ、布が伸びるほどに東も私の服を掴む。
どれくらいの時間だったのか、ざっぱん……! と大きく同心円状に波が立ち、急に体への抵抗がなくなった。水は元の液体へ。すぐに足が付き、東に抱えられるようにして立ち上がると私たちからざばあ、と重力に従って滴が滴り落ちていく。
「げっほげっほげほごほ……!」
「っはあ、はーっ、はー……!」
東は私の体を抱えたままざばざばと岸に向かって歩き、どさ、と私をプールサイドに打ち上げた。私は急に流れ込んできた酸素にむせ返り、転がったまま飲んでしまった水を懸命に吐き出す。東はプールに浸かったまま上半身をプールサイドにべたりと伏せ、必死に息を整えていた。綺麗な背中が激しく上下する。
「……だいじょうぶか。その水体の中に入れてるの良くないから、できるだけ出しちゃいな」
喋れるくらいまで自分の息が整った途端に、東は私の背中をとんとんと摩った。声にも流石に元気がなくていつもの半分ほどの声量に掠れているのに、それでも私のことを気に掛ける。まだまだ咳き込みながらも安堵して、どっと体の力が抜けた。
「びっくりした……来たときはあんなの絶対いなかったのに。急に湧いた。ごめんな、怖かったな」
ううん、と首を振る。確かに死ぬかと思って怖かったけど、それでもやっぱり東は助けてくれた。
「私こそ、ごめん。湧いたの絶対私が引き寄せるせいだ。東にびしょ濡れで苦しい思いさせた。ごめん」
「それはいいの! 先生があいつ呼んだお陰で無事お祓いできたんだから」
帰ろ、と東は私に張り付く髪を剥がしながら笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます