第6話

勤務の終わった私は、途中から猛ダッシュでお寺へと向かっていた。怖い怖い怖い。付いて来ないでー! 幸い、流石に昼休みにまで東さんに除霊してもらった効果か、多少身体は重いけれど走れる元気がまだある。東さん、東さん、助けて。心の中で思っただけで必死すぎて声も出なかったのに、今日も彼は門の外にいた。ずっとそうして私の来るのを待ってくれているのだろうか。ダカダカと住宅街に響く激しい足音にはっとスマホから顔を上げた彼が、私の様子を見て通りの真ん中に立って腕を横に大きく広げる。

「先生! そのまま俺のとこ飛び込んでおいで!」

 いつも勝手にくっつかれてたのに、今日は自分から行けってか。何たる羞恥。でも後ろから迫ってくるせいで、私も形振り構っている場合じゃなかった。

 どんっ! と本当に走っていた勢いのままぶつかるように胸元に飛び込んだのに、東さんは一つも揺らぐことなく私を受け止めた。大木みたい。細身で小柄だしそんなに体格も変わらないように見えるのにどんな体幹をしているんだろう。よしよし、がんばった、と呟かれるのが聞こえる。すぐさまさらり、と髪を掻き分け私の後頭部に腕が回され抱きしめられた。

「ごめんね。すごく好きでくっつきたかっただけなのは分かるんだけど、怖がらせるのは駄目」

 私の背後に向かってそう言った彼からぼふん! と強い風が吹いたような感覚がして髪がなびく。地面もびりびりと震えた気がした。

「はい、いなくなったよー。お疲れ先生。カサカサ追いかけてきてたゴキブリみたいなやつが怖かったの?」

「だって! あれ私と同じくらいの大きさあった!」

「あったね」

 まじでけぇ! と彼が楽しそうに笑うせいで抱きしめられている私にも振動が伝わる。

「いやあ、それにしても必死な顔して俺に飛び付いてきてくれる先生可愛かったなー」

「あれは! 東さんがそう言ったから! 本当に怖かったし!」

 しみじみと言われて顔から火が出る。もう良いでしょ、離して、ともがもが暴れたのに軽々押さえ込まれた。

「はいはい、もうちょっとだから大人しくして。まだ全部祓えてないから」

 本当だろうな?! ぎゅ、と抱きしめられ、「かわいいかわいい。わんこみたいだった」とすりすり髪に頬擦りされる。好き放題してないか。ようやくちょっと腕が緩んで顔を上げたら、門の前に和服姿がもう一人佇んでいたことに気付いた。あ、恥ずかしくて死ねる。

「なんかすんごいパワーだったけど、東。『力』強くなった?」

 塀にもたれていた男が東さんに話しかける。

「祓う力って気力気分に左右されんだもん。こーんなかわいい先生抱きしめながらだったら、そりゃ俺も張り切っちゃうよねえ」

 東さんはおかしそうにけらけら笑った。よくそんなこと素面で言えるな。誰か私を殺してくれ。

「いい加減恥ずかしそうで可哀想だから離してあげたら。もう霊も祓えたでしょ」

 祓えたのか。幸せそうにくっついている体を突き放す。今度はあっさり離れた東さんは、「ありゃざんねーん」と笑った。もうそんな様子ならお礼は言わないからな。

「その方が新しく入ったっていう憑かれやすい人? なんかもう……連れてきすぎて大名行列みたいになってたけど」

 びっくりしちゃった、と言う割に終始落ち着いた声色で話す人だ。とても動揺しているようには見えない。

「そうだよー! でも、これでも昼間会ったときよりは元気だったね?」

「うん。お昼に東さんに祓ってもらったから」

「でも午前と午後、時間は同じ半日だよ。元気満タンなら耐えられる程度ってことだ。気分が落ち込んでると憑かれやすいからさ。……昨日、俺と別れてから何かあった?」

 すぐに、昨夜出会った近所の人が思い浮かんだ。

「ううん、何にも?」

 にっこり微笑む。

「そっか」

 東さんはただ私に手を伸ばしてよしよし、とまた頭を撫でた。ちくしょう、いくら誤魔化そうが「見える」人たちにはそっちで何もかもばればれだ。

「ほら、紹介するからおいで」

 男の前に連れられ、和服姿の彼は優雅に一礼した。

「初めまして、菅原一寛です。除霊師の仲間になってくれるんだってね。どうぞよろしく」

 すんごく良い声。聞き惚れそうになって、慌てて自己紹介を返す。先生なんだよー! と横から東さんの補足が入って、着々とあだ名が「先生」で浸透していくのを感じた。いいんだけどさ。

「菅さんは書道家! 書道教室の師範もやってる」

 それでぴんと来た。

「あ、じゃあこのお札……」

 ポケットから折り畳まれた昨日もらったお札を引っ張り出す。

「ああ、それは俺が書いたのだね。あなたには全然力が足りてないみたいだから、もう何枚か強いのを今日書き足してあげる」

 そんな毎日、日常生活もままならないのは不便でしょう、と気の毒そうに言ってくれた。良い人だ!

「よかったね先生!」

「ありがとうございます!」

「お前ら、人ん家の前で喋ってないでさっさと入れ!」

 進藤さんに怒られてしまった。東さんは今日はお寺に入るなり、勝手知ったる様子で「お茶入れに行ってくるー!」と走って行った。進藤さんもそれを何も言わず見送る辺り、いつものことなんだろうか。三人で縁側に腰掛けて寛ぐ。

「そうそう。もうお札書いておいてあげようね」

 まだ学校の除霊をしに出発するまでに時間あるでしょう? と菅原さんが進藤さんを見て、進藤さんは頷いた。部屋借りるね、とすぐ後ろの和室に入った進藤さんが、鞄から硯や筆や半紙なんかを出して手早く広げる。

「うわあ! すごいです。ここで見ててもいいですか?」

「うん。あと、亘と東には敬語じゃないんでしょう? 俺にも気ぃ遣わなくていいよ」

「えへへ、じゃあお言葉に甘えて」

「菅原さん、も長いでしょ。菅さんって呼んじゃいな」

 進藤さんが横から口を挟む。

「それも好きにしていいけど」

 進藤さんは笑った。二人も仲が良いんだなあ。いいな。昨日も思ったけど、ここは温かくてお互いに信頼し合っている空気が心地良い。菅さんが墨を擦る音が続く。

「俺はね、書いたお札に除霊の力が宿って霊を遠ざけたり成仏させたりできるんだよ。東は人に触れたら祓えるけど、俺にはそれはできない。除霊の方法もそれぞれ違うってことだね」

「それって、私にもできるようになる可能性ある?」

 和服のせいもあるのだろうか。彼の美しい所作を前にするとぴし、と姿勢が伸びる。

「どうだろう。俺の家は代々除霊師をしていたから、俺も生まれつき持っていた力だったんだよ」

 それを聞いてがっかりする。

「そっか」

「うん。菅原家は代々書道家でね、親戚に見える人や祓える人も多くて、除霊の世界に精通してきたんだ。昔から亘の家と連携して、この地域の霊とのトラブル解決に協力してる」

「あ、じゃあ進藤さんのお家にも代々祓える人がいらっしゃるんだ?」

「そう。俺の父も祖父も見えてたし祓えた。菅さんの書いた札を普段から何枚かうちに置いておいて、相談に来た人に渡したりしてる」

「じゃあ私が今から修行しても身につく訳じゃないんだ……」

「どうかな。俺も亘も東も最初から自分の能力の使い方を分かってたから。修行した人を今まで見たことがなかったけど、もしかしたらできるのかもしれないよ。そうだ、今一緒に書いて今夜それを使ってみたらいいんじゃない。霊に効くかどうか」

「え、でも……もし効かなかったら」

「? 取り憑かれても東がいるでしょ? 俺たちだっているし」

 またじんわりと胸に温かさが広がっていく。当たり前のようにサポートしてもらえる環境にまだ慣れない。嬉しくて有り難くて、心にぽっと明かりが灯るのだ。

「うん! やりたいやりたい!」

「お、先生のお手並みはいけーん。生徒に書写の時間に教えたりするんでしょ?」

「するよー! 字は結構綺麗なんだからね」

 亘さんも寄ってきた。進藤さんはぽんぽんと私の前にも道具を一揃い出してくれる。

「綺麗を目指すのはもちろん良いことだね。でも、一番大事なのは心を込めて書くこと。美しい字は、美しい心からです」

 菅原さんは私の目をまっすぐに見て訴えた。私は頷くことしかできない。

「出た、菅さんのいつものやつ」

 進藤さんはにやにや笑っている。いつもこんな宣教師みたいなことやってんのか。東さんは相当変わってると思ってたけど、菅さんも負けず劣らずなのが薄々分かってくる。

 「例えばね、」と菅さんはさらさらと半紙に「寒」と書いた。

「これを見てると、なんだか冷えてくるような気がするでしょう」

 そうだろうか。そんな気がするような、そうでもないような。私の感受性が低い?

「まあこれは適当に書いたから心込もってないし、そんな力もないんだけどね」

 菅さんが今書いた半紙をさっさと畳んでしまう。後で硯を拭くのに使うんだって。いやいや……え?

「今、心を込めたら字に力が宿るって説明してる例として書いたのに何で適当なんだよ」

「例えだし何でもいいかなって」

 私がおかしいのかと思ったら進藤さんが突っ込んでくれてほっとした。

「お待たせー! 麦茶、檀家さんに出した分で切らしたばっかで沸かした後冷やしてたから時間掛かっちゃった」

「あ、ごめん東」

「いいのいいの! 勝手に台所使わせてもらってるし」

 東さんが麦茶のグラスをお盆に載せて戻ってきてくれる。沸かした後よほど冷やしてくれたようで、少し薄めの色をして氷の浮かんだグラスは冷たく、結露して汗をかいていた。

「なんか楽しそうなことしてるー! 先生も書くの?」

「う、うん、まあ。やってみようかなって言ってたところ」

 あんまり注目されると恥ずかしくなってくる。

「よし、じゃあ本番書くよ。俺は先生にあげるお札書くね」

「ありがとうございます!」

 てっきり、昨日もらったみたいな流れる文字でなんて書いてあるか私には読めないお札を作ってくれるんだと思っていた。ところが菅さんは一画一画しっかりと書いていく。すっごく綺麗な字。流石師範だ。

「除、霊、師……始めました?」

 私は横から読み上げた。

「うん、良い出来。はい一枚あげる」

 もう一枚書くよ、と菅さんはすぐ筆を取ろうとする。おいおいおい、突っ込ませてくれ。

「ええ?! 昨日もらったのは呪文とかお経みたいなのが書いてあるやつで、ザ・お札みたいな感じだったんですけど! 『除霊師、始めました。』ってそんな冷やし中華みたいに言われても!」

 これ私からかわれてる? それとも本気? と救いを求めて東さんの方を見るけれど、彼は「あはははは!」とそっくり返って笑っているだけで役に立たなかった。

「ちゃんとお札だよ? 今まで憑かれるだけだった人がこれ持ってたら、霊も『うわ除霊師始めたんだ』って思うでしょう」

「霊って文字読めるんですか」

「生前が日本人なら? 読めるんじゃない」

 そんな適当な。

「菅さんは書く文字自体に力があるから、内容は何でもいいんだよね」

 東さんがようやく補足してくれる。

「え。じゃあ『アンパンマン』とかでも」

「何でそのチョイスかは知らないけど祓えるね」

 菅さんは半紙に「アンパンマン」と無駄に美しい字で書いた。

 これもあげる、と渡される。

「ただそんな字面だと効果を信用してもらえないから、一般の人向けにはそれっぽいのを書いてるんだよね」

 菅さんは「猛犬注意」と今度は勢いのある字で書く。

「ちょっと待て! それ俺のことか!」

「東は猛犬というかポメだけど。まあちょっとはびびってくれるでしょう」

「ふふっ……あはは!」

 ポメラ二アン東が私の周りでわんわん霊を追い払っているのを想像してとうとう笑ってしまう。

「おぉい! ポメじゃなくてシェパードの間違いだろ!」とか菅さんに突っ掛かっていた東さんも、そんな私を見て「んふふ」と笑みをこぼした。

「ほら先生も書こ。やってみなきゃ分かんないよ」

 菅さんに促され、私も隣りで「除霊師、始めました。」と真似た。

 そうだ始めたんだぞ、近寄ってくるなよ、と念じたら、上手上手、と褒めてくれて大人でも嬉しい。菅さんはもう一枚書いてくれて私に渡しながら言った。

「ふざけたように見えたかもだけど、全部に『先生を守ってくれますように』って心を込めたのは本当だから。効果は確かだと思うよ」

「ありがとうございます!」

 ああ、あったかいな。

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